1. HOME
  2. World Now
  3. 映画『ケナは韓国が嫌いで』が映す現代韓国社会の絶望 冒険の旅に出た主人公の決心

映画『ケナは韓国が嫌いで』が映す現代韓国社会の絶望 冒険の旅に出た主人公の決心

World Now 更新日: 公開日:
『ケナは韓国が嫌いで』の一場面=2025年3⽉7⽇(⾦)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国公開(配給:アニモプロデュース)© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.
『ケナは韓国が嫌いで』の一場面=2025年3⽉7⽇(⾦)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国公開(配給:アニモプロデュース)© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

映画『ケナは韓国が嫌いで』日本語版予告編

何もかもあきらめる韓国の若者たち

いつの頃からか、韓国には経済的格差を自嘲的に表す言葉があふれるようになった。それぞれ「金持ち・貧乏人」を示す「クムスジョ・フクスジョ(金のスプーン・土のスプーン)」、非正規労働者である若者の平均月収から貧困の深刻さを告発する「88万ウォン世代」(88万ウォンは約9万円)、貧困によって恋愛・結婚・出産を諦める若者を指す「サン(3)ポ世代」、そこへさらに経歴・住宅購入を足した「ゴ(5)ポ世代」や、何もかもを諦めるという意味で「Nポ世代」などといった言葉も登場した。

結婚そのものを否定する「非婚」は若者間では今や常識化しているし、勤勉に働いても貧困から抜け出すことはほぼ不可能であるという現実に挫折し、一発当てることだけを考えて株や仮想通貨に投資するお金を調達しようとする様は、“魂(ヨン)まで絞り上げて借金をかき集める(クロモウダ)”から「ヨンクル」と略されている。

日本就職フェアで求人情報を見る求職者たち=2018年11月7日、ソウル、ロイター
日本就職フェアで求人情報を見る求職者たち=2018年11月7日、ソウル、ロイター

また、大学を卒業しても就職ができなかったり、そもそも就職することを諦めて何カ月、何年と休んだりする若者は「シオッスム(休んでいる)青年」などと呼ばれている。このように、昨今の韓国の若者の絶望を象徴的に捉えた新造語はあまりにも多い。

この地獄のような韓国の現状を総体的、自虐的に表すのが「ヘル朝鮮」という言葉だ。朝鮮時代末期、政治の不正や腐敗が蔓延し、百姓の半分以上が「奴婢」(奴隷)だった状況と現在の韓国が酷似していることから、批判的な意味合いで「朝鮮」が使われている。

高層マンションが建ち並ぶソウル=ロイター
高層マンションが建ち並ぶソウル=ロイター

若者を苦しめる激しい競争と格差

なぜ韓国の若者たちは未来に希望を持てなくなってしまったのだろうか?

多くのメディアや専門家らによると、1997年のIMF通貨危機以来、低賃金の非正規労働者が急増する一方で、不動産投機により住宅価格は高騰を続けている。財閥を中心に再編された経済構造の中では激しい競争が繰り広げられ、就職難からは一向に抜け出せない状況によって、富裕層はますます富み、貧困層をますます貧しくなる「貧益貧・富益富」現象が生まれているのだという。誰もが口をそろえるように、今の韓国は貧富の極端な格差によって覆いつくされていると言えよう。

インターネット上にも、若者たちの過酷な現実を伝える記事や番組があふれかえる。

狭い半地下の部屋で共同生活する大学生、卒業後も就職できずに複数のアルバイトを掛け持ち、在学時の学費融資の返済に追われるフリーター、“ヨンクル”して仮想通貨に投資したものの、失敗して借金まみれになった20代の社会人など、「2030(イゴンサンゴン、20代から30代)」と呼ばれる世代が抱える問題の深刻さを知るのは、そう難しいことではない。

仕事終わりに飲み屋で酒を楽しむ人々
仕事終わりに飲み屋で酒を楽しむ人々=2022年4月25日、ソウル、ロイター

そんな韓国の現状にぴったりな映画が3月7日に日本公開となった『ケナは韓国が嫌いで』(チャン・ゴンジェ監督、2024)だ。

2015年に出版されたチャン・ガンミョンの小説『韓国が嫌いで』の映画化である本作は、幸せを求めて仕事、家族、そして恋人からも離れて韓国を去る女性を描いている。

「ヘル朝鮮」「脱朝鮮(韓国からの脱出)」といった造語がメディアをにぎわせ始めたのと時を同じくして原作が発表されたが、そこから10年が経っても若者をめぐる状況に変化はなく、むしろ深刻化しているかもしれない。

インディーズ映画としては珍しく、釜山国際映画祭(2023)の開幕作品に選ばれた本作をきっかけに、韓国の若者世代と彼らをめぐる問題の本質をいま一度考えてみたい。

※この先、作品のネタバレに関する記述があります。

主人公を決心させた「職場」「家族」「恋人」

ケナが韓国から飛び出す理由には、「職場」「家族」「恋人」の存在が大きく影響している。これらを手放す、捨てる決心がついたからこそ、ケナは韓国を去ることができたのだ。ではなぜケナはこの3つに嫌気が差すようになったのだろうか。映画での描かれ方からその理由を考えてみよう。

まずは職場について。入札してきた会社の評価を改ざんするよう上司から命じられたケナは、正しいことをしたはずなのに否定される組織の理不尽さに、憤りと失望を隠さない。民主化が浸透した時代に教育を受けたケナは、軍事独裁時代にはないがしろにされていた社会の公正性を学校で学んでいる。

だが現実は、既成世代である上司によって昔と変わらない不公平なやり方が通用し、自分自身に正直に生きることができない職場に未来などないことを痛感させられる。

『ケナは韓国が嫌いで』の一場面© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

さらに、ケナは女性である。これまでも散々不当な扱いを実感してきたに違いない。会社という男性中心の縦社会で、「正当な女性」を貫くことは至難の業であろう。そんなケナにとって仕事を辞めるという決断は、自分が自分でいるための最善の策なのである。

そして家族。実家で両親と妹と同居しているケナは、家族そのものに対して不満があるわけではない。だがケナ一家は裕福ではない。むしろかなり貧しい部類に入るだろう。家族で新居を購入するために、母親はケナが自分の未来のために苦労してためたお金を出せと迫る。貧困と苦労がそのまま人生になってしまっている両親の姿は、このままでは自分の未来になりかねない。

ある世論調査では、韓国国民の8割が「所得格差は深刻であり、裕福な家に生まれなければ成功できない」と認識しているという。ケナは生まれながらの貧困とも決別しなければならない。

最後に、恋人との関係性について。一見して心優しく、彼氏としては問題がなさそうに見えるジミョンとの関係にこそ、韓国の問題が表出していると言える。

『ケナは韓国が嫌いで』の一場面© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

裕福な家庭に生まれ育ったジミョンとケナの間にははっきりとした経済格差が横たわっている。だが2人の間にあるのはそれだけではない。前述のように韓国人の多くが所得格差を深刻に捉えているその根底には、「上下関係」を何よりも重んじる韓国社会に伝統的に根付いてきた儒教意識が働いているように思われるからだ。

年齢であれ、社会的地位であれ、カネであれ、他人より「上」に立つのが有利であるという意識が強い儒教的韓国社会では、「上」に立つ近道として、誰もが一流大学・一流企業を目指す。当然、競争は激しくなり、一流大学に入るためには学校以外の進学塾に通うなど、莫大な「私教育費」が必要になってくる。

貧しい家庭の子どもにとって私教育は高嶺の花であり、裕福な家庭の子どもは親の教育過熱によって、両者の経済格差はそのまま教育格差を生み出すことになる。貧しい家庭の子どもは教育を受ける機会すら奪われ、そうしてゆがんだ社会構造が作られていく。韓国の若者たちはそんな格差の悪循環に絡め取られてしまっている。

ケナとジミョンの間の経済格差は、ケナが彼の両親に対面した際の互いの態度からも明らかであり、それだけでもケナにとってはつらいものであるが、経済格差に起因する教育格差もまた2人を隔てているのだ。

2人は大学で出会い、付き合うようになったわけだが、進学塾に通うことができなかったケナに対し、ジミョンが散々、私教育費を投じられてきたであろうことは想像に難くない。

ジミョンに対しケナが「お前みたいに塾に通わせてもらっていたら、私はもっといい大学に行けたはず」と叫ぶシーンは、多くの若者が陥っている経済格差と教育格差の悪循環を象徴している。こうしてケナは恋人の反対を振り切り、別れる決心で韓国を去る思いを強くしていく。

公務員試験に望みをかけた同級生は……

本作において、とりわけ胸が痛くなる存在は、ケナの大学時代の同級生ギョンユン(パク・スンヒョン)であろう。就職もできず、何年にもわたって公務員試験を受け続けている彼は、真冬にもかかわらず裸足のスリッパ姿でケナの前に現れる。

もっとも安定した職業である公務員は日本でも時代を問わず人気であるが、それ以上に彼には公務員にこだわるしかない事情があった。それは「公務員には学歴の制限がない」ことである。本当のところはわからないが、一応そうなっている。そのため、教育格差によって一流大学に入ることができず、一流企業への就職が絶望的である多くの貧しい若者たちにとって、公務員は目指すべき憧れの職業となっている。

ソウル近郊ノリャンジンにある公務員試験予備校の教室
ソウル近郊ノリャンジンにある公務員試験予備校の教室=東亜日報提供

筆者自身も軍隊から除隊後、就職を考えなければならなくなった時に両親から「公務員になってくれ」と懇願されたことがあった(ケナに比べてだいぶ前の世代にあたる筆者の場合、それまでのんきに詩人になりたいと思っていたくらい、今の若者とは天と地ほども違うが…)。

だが一流企業と同様、公務員試験が狭き門であることは言うまでもない。一部の勝者と圧倒的な数の敗者、脱落者が生まれることになる。そしてギョンユンもまた、絶望のどん底で自死を選んでしまうのだ。これはまさに、現実の韓国で数多く起こっていることでもある。

ケナが夢の中でギョンユンと再会する場面を見ていると、2人はそれぞれ「韓国」ではない別の世界を選んだという意味で、共通する選択をしているように見える。別の世界とは、地獄のような韓国とは別の世界、ケナにとってはニュージーランド(海外)であり、ギョンユンにとっては死という極端な世界である。

韓国の外に希望はあるか

誰もが他人の「上」に立つことだけを狙っていると言っても過言ではない儒教社会韓国では、自分が「下」になった瞬間、あるいはそう見られた瞬間から、さげすまれ無視されるのが日常茶飯事である。

「갑질(カプジル)」と呼ばれるこの関係性は、「パワーハラスメント」という単語では説明しきれない韓国独自の概念であり、それゆえオックスフォード世界英語辞典にも「gap-jil」と韓国語読みで掲載されている。

社会においても恋人同士の私的関係においても、韓国ではそこから逃れることはできない。「若者を絶望に追い詰め、国の外に追い出す」のは、韓国という国そのものなのである。

こうして考えてみると、ケナが韓国を去るのは当たり前である。だが、韓国の外に出ることが果たして答えになるのだろうか?いや、そこにも答えはない。

『ケナは韓国が嫌いで』の一場面© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

ニュージーランドでケナが出会う韓国人家族の父親は、地震(という名の不安)にとらわれており、実際に地震によって家族全員が亡くなってしまう。つまり、海外への脱出も決して希望を保障してはくれないのだ。だとすれば、海外に出るとは一体何を意味するのだろうか?絶望か、希望か、それとも諦めか、そのすべてが混ざり合ったものなのか。

ラストで再び韓国を出るケナは、無表情のまま空港にたたずむ。寒さが嫌いなペンギンが暖かい場所を目指す絵本の物語のように、ケナもまた、矛盾を抱えつつ自分自身にとっての暖かい場所を求めて旅立つ。ケナにとって韓国はすでに暖かい場所ではない。かといって韓国の外に答えがあるわけでもない。それでも韓国には絶対に戻らない。ニュージーランドが駄目ならまた次の国へ、ケナにはもはや韓国の外を転々とするしか選択肢はない。

『ケナは韓国が嫌いで』の一場面© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

映画のケナを見ていると、今の若者たちを示す言葉に「シオッスム(休んでいる)」世代だけでなく「トナッスム(韓国を去る)」世代なる造語があってもおかしくないように思える。もしかしたら筆者の提案したこの言葉が、今後広く出回ることになるかもしれない。自分を顧みてみると、理由は様々なれど筆者自身もまた韓国を去った、ケナの大先輩である。もちろんだからと言って、それを推奨する気持ちはさらさらない。若者たちが「韓国で」幸せを感じられる日が訪れることを願ってやまない今日この頃である。

『ケナは韓国が嫌いで』の一場面© 2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.