無国籍を経験した人類学研究者の陳天璽さん 国籍とは何か?「持たない人にも尊厳を」

国籍とは何か。抱えてきた葛藤を胸に、人類学の研究者として無国籍をテーマに取り組んだ。当事者一人ひとりは、国や社会によって国籍がなくなる経緯も異なって、複雑さや問題の根の深さが浮き彫りに。でもあえて選んで前向きに生きる人にも出会った。国連の取り組みが本格化する前から無国籍の人を支援する団体を作り、当事者目線の問いかけを発信している。
赤い飾りつけがにぎやかな通りに、観光客向けの飲食店と、昔ながらの雑貨店が混在する横浜中華街。通りを歩けば、街の人々が「ララ」と声をかけたり、会釈したりしてくる。ララは、陳さんの洗礼名クララからとった愛称。ここが、陳さんの生まれ育ったホームタウンだ。
大陸出身の両親は第2次世界大戦後、蔣介石が率いる中華民国政府が遷都した台北のある台湾に移住。父は大学院の留学生として来日。金融機関で働いていた母は1964年、父の後を追い、5人の子どもを連れて来日、7人で7畳半の部屋に暮らし、喫茶店と中華菓子店を開業した。
6人目の子どもとして陳さんが日本で生まれて1年後の1972年、日本政府は中華人民共和国と国交を結び、台湾と外交関係を断絶した。これから外交関係のない台湾の人として生きるのか、中華人民共和国の国籍を選ぶのか、日本に帰化するのか。考え抜いた父が出した結論がどれも選ばない「無国籍」だった。
それはどの国とも法的つながりがなく、国籍を持たない状態のことだ。当時の外国人登録証で国籍名が中国から無国籍に変わった。生活面で大きな変化はないが、海外渡航で手続きが煩雑になるなど数々の支障もある。
横浜中華学院の小学部で1年生のとき、図書館で引っ張り出した本を偶然開くと、日中戦争の残虐な写真がたくさん掲載されていた。幼いながらも意味はわかり、ショックを受けて家に帰った。「なぜ私たちは日本にいるの?」。泣きながらそう尋ねると、父は言った。「歴史を乗り越えるためだよ。国と国より、人と人の関係は深い。ここで中国人として育てる。国を超えるような人になってほしいんだ」。理解するには難しかったが、振り返ってみて、あの言葉が原点になっている、と感じている。
進学した神奈川県立高校の、歴史の授業での第2次世界大戦の語られ方は、重きを置く点がまったく違った。「ぜんぜん違うんだ」と驚き、物事や人にはさまざまな見方があることを知った。「本当か」と問う視点が培われた。
留学先の米ハーバード大学では、出身を尋ねられても日本とも中国とも答えられず、気が付けば「無国籍」と答えるようになっていた。皆に聞き返された。同大の図書館でも関連する本が2冊あるだけで、十分に研究もされていなかった。留学中、就職先にとニューヨークの国連本部に行ったが、無国籍を理由に採用されなかった。
国籍は各国の規定が違う。血統や出生地など国籍を取る要件も国によってさまざまで、複数の国籍が認められる国もあれば、認められない国もある。戦争、難民、行政上の手続き、法的な不備─―無国籍者が生まれる理由も、地域や時代によって異なる。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、世界には約440万人。ただ実際はもっといるとみられている。
国籍がない場合は暮らしや人生に影響があるのに、ほとんど知られず、研究もされていない。日本で研究を始め、さまざまな国に赴き、人々の声に耳を傾けた。その数、35カ国・地域以上で、無国籍者数千人と出会った。少なくとも数十人から直接話を聞いた。
近代的な国家ができるはるか前から砂漠や海をわたって暮らす遊牧民族たちは、今も国籍はなかった。戦前から日本に住むロシア系の医師があえて無国籍を貫き、どんな国籍や在留資格の患者でも診療し、「青い目の赤ひげ」と呼ばれていた。経緯も境遇もさまざまで、調査・取材にはリスクがあるからと一切応じてくれないケースもあった。
調査に海外渡航は欠かせない。だが無国籍だと渡航や再入国のために必要な書類が多く、調査に間に合わなかったこともあり、32歳になる年、日本国籍を取得した。どこの国籍をとっても自分は自分で変わらない、という気持ちを持てるようになっていた。
自らの理解は深まる一方で、2005年、スイス・ジュネーブのUNHCR本部の無国籍の担当者と話し、実態がまだ理解されていないと感じた。
3年後、勤務先だった国立民族学博物館とUNHCR駐日事務所とで、シンポジウムを共催。日本に住む国籍を持たない当事者に登壇してもらい、体験を語ってもらった。反響もあり、その後に「無国籍ネットワーク」という団体を作って弁護士らと、当事者の支援にも乗り出した。陳さんは「無国籍者に居場所を作りたかった」と話す。
団体はUNHCRとパートナーシップを数年結んだが、考えにずれが生じ、距離をおいた時期もあった。UNHCRは2014年から「無国籍をゼロにする」と世界的なキャンペーンを打った。誰でも国籍を取得する権利があるとうたった。陳さんはこれに疑問だった。無国籍はなくすものなのか、と。「国籍を得たい人は得ればいいが、無国籍でも問題なく暮らせ、尊厳をもてる社会作りをめざすべきでは」。この指摘にUNHCR首席法務アソシエイト金児真依さん(44)は「このテーマは法学からの研究が多く、つい法的な解決を考える。無国籍のままでいい、というのは人類学の視点で気づきが与えられた」。
当事者目線を踏まえた発信を強めようと、2024年1月には、国籍をめぐる体験を記した著書の英語版を出版し、同年2月にマレーシアで開かれた世界無国籍学会でも発表した。マレーシア・イスラム科学大学の准教授ロツィアーナ・モハメド・ラザリさんは「マレーシアでは無国籍者は法的な地位がなく、脆弱な支援対象。ララを見ていると、無国籍を経験しても、こんなにも世界をかけまわって引っ張っていける人になれるのかと。教育の重要性に気づかされた」と話す。
教壇に立つ早稲田大学で昨年6月、UNHCR後援でシンポジウムを開催。陳さんは挨拶で強調した。「国家を基礎とした制度で無国籍者の地位向上を模索するべきか、国籍を超えた新しい地球市民のあり方を構築するべきか。人の移動が増え、国家と個人の関係が多様化する中、無国籍者は重要な問いを投げかけてくれている」
陳さんの言葉を聞き、筑波大学助教の秋山肇さん(32)は「ララさんのまっすぐさ、それを言葉で表現できることが(突破する力の)根本にある」と話し、こう付け加えた。「突破する人は、突破される側を生むことがある。ララさんは突破した後に振り返り、関係を修復するから輪が広がる」
シンポジウムでは陳さんのゼミがきっかけでできたインカレサークル「無国籍ネットワークユース」がつくった絵本や、無国籍の人生を経験するボードゲームも披露された。陳さんは次の時代を見据え、今年、無国籍ネットワークの共同代表を秋山さんに引き継いだ。「これからはこのテーマを次世代につなげることに力を入れたい」