聖火ランナーが掲げるトーチに矢の先を近づけて点火させると、男性はゆっくりと弓を引き、客席の上にそびえる聖火台に狙いを定めた。5秒後。放たれた矢は夜空に弧を描いて聖火台を通過。その瞬間、大きな炎が上がり、会場は大きな拍手に包まれた。
バルセロナオリンピックの開会式の様子だ。聖火台(高さ約90メートル)までは数十メートル。矢が飛んだ下には客席が広がり、手元が狂えば惨事になりかねない。そんなプレッシャーの中、見事に点火を成功させたことはオリンピック史に残る名場面だ。
矢を放ったのは、アントニオ・レボリョさん(69)。当時はパラリンピックのアーチェリースペイン代表選手で、バルセロナ大会では銀メダルに輝いている。
アメリカのNBCスポーツやスペインの「uppers」によれば、アントニオさんは1955年にマドリードで生まれたが、生後8カ月でポリオ(急性灰白髄炎)を患った。
ポリオはポリオウイルスに感染すると急性まひの症状が出る病気で、1950年から1960年代中頃に生まれたスペインの子どもたちの多くが苦しめられたという。
アントニオさんはこの病気で両脚が筋萎縮を引き起こし、特に右脚に深刻な症状が見られた。そのため10歳ごろまでは右脚に金属製の器具を装着して生活をしていたという。
スポーツと出会ったのは障がいを克服するためだった。幼少期から登山、柔道、水泳、ウェートリフティングなどのスポーツに取り組んだ。ただ、障がいがあると大会などへの参加が難しい競技もあったという。
アントニオさんがアーチェリーに出会ったのは20歳のころ。ラジオで知り、興味を持った。地元のスポーツ用品店で用具を買って始めると、たちまちのめり込んだ。
身体的に不利な点はほとんど感じなかった。当初はコーチがおらず、山や野原で一人、練習することもあった。それでも才能はすぐに開花し、健常者とトレーニングをするようになって競技大会にも出場、好成績を収めた。
1984年にはスペイン代表としてパラリンピックに出場。1984年のニューヨークパラリンピックでは銀メダルを獲得、1988年のソウル大会でも銅メダルに輝いた。
バルセロナ大会での開会式の聖火点灯はどのようにして実現にこぎ着けたのか。スペインの「20minutos」やuppersによると、次のような経緯をたどったという。
まず、この演出は危険が伴うため、本番の1年以上前から候補選びが始まった。候補者は200人以上で、バルセロナ近郊で実際に矢を放ってその精度が見極められた。アントニオさんは2本矢を放ち、いずれも的中。2本目は真ん中を射抜いた。これにより、点灯役に抜擢された。
だが、アントニオさんは当初、「障害があるのにいいのだろうか」と困惑したという。背も高く、体格がいい人の方が適任ではないかとも思ったという。
ためらいの気持ちを抱えながらも、アントニオさんは秘密保持契約にサイン。開会式半年前から秘密裏に特訓が始まった。
毎週末、自宅のあるマドリードから飛行機でバルセロナへ通った。通常より重い矢を飛ばせる専用の弓を用意してもらい、まずはモンジュイック城の堀で火矢を射続け、開会式の数カ月前からは実際の会場で練習した。
聖火点灯ではスペインの映画特殊効果の王と呼ばれたレイエス・アバデス氏との連携が欠かせなかった。火の矢が飛んできたタイミングで天然ガスを噴出させ、点火させる計画だったからだ。
そして開会式当日。当然だが失敗の可能性は捨てきれなかった。大会運営側は開会式前、アントニオさんに対し、万が一失敗しても客席にだけは矢が飛ばないよう、聖火台の上を狙うよう念を押されていた。だが、実際には見事に成功してみせた。
アントニオさんは矢を放った瞬間、すぐに成功を確信したといい、当時の気持ちについてアメリカのNBCスポーツに対し、「怖くはなかった」と語っている。その上でこうも振り返った。
「私はほとんどロボットのようでした。自らの位置取りと目標に集中していました。ただそれだけです。当時の感情は、私を目撃した人たちから聞いた内容によってあとから形作られたのです。つまり、彼らが感じたことや感動、叫びです。これらによって私は、あの瞬間が実際に意味したものを悟りました」
uppersによると、アントニオさんはその後、現役を引退し、指導者として活躍。2009年にはチェコ共和国パラリンピックアーチェリーチームのコーチとして参加し、金メダル獲得に貢献した。これを最後に、アーチェリーの世界からは身を引き、今はマドリードの空軍基地で家具職人として働いている。