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ジェノサイド発生前後のルワンダ紛争に関与した米国、その介入の意図と役割を検証する

World Now 更新日: 公開日:
握手を交わすクリントン元米大統領(左)とルワンダのカガメ大統領
握手を交わすクリントン元米大統領(左)とルワンダのカガメ大統領=2005年7月23日、ルワンダ首都キガリ、ロイター

世界各地で「内戦」や「国内紛争」が勃発するようになったのは、一般的に冷戦終結後だと言われている。旧ソ連の崩壊とともに国家が解体したり、援助漬けだった国に対して拠出国が援助を打ち切ったりしたことが一因として挙げられる。

しかし、たとえ現地の政府と反政府勢力が衝突した「内戦」の様相であっても、グローバル化した現在、純粋な「国内紛争」はほぼ皆無と考えてよいだろう。外部介入によって、紛争が発生、あるいは仕掛けられたり、長期化したりする場合がする。そのため、紛争の国際的要因も検証する必要がある。

冷戦終結直後に「内戦国」に転落したルワンダもそうだ。

当時、反政府勢力だった「ルワンダ愛国戦線」(RPF、現ルワンダ政権)は外部、特に米国から莫大な支援を受けたことで軍事勝利したと言える。米国はルワンダのジェノサイドの最中、ほとんど黙認状態だったが、その前後には、RPFへの軍事訓練、外交・和平交渉、およびツチ難民の帰還とコンゴ在住のフツ難民の強制帰還に積極的に介入した。そのおかげもあってルワンダ政府(RPF)は、ルワンダ国土の90倍の広さを持つ隣国コンゴに軍事侵攻して、モブツ・セセ・セコ大統領を打倒できた。そのコンゴでは、1996年以降のルワンダの侵略により、現在も紛争が続いている。

日本でほとんど知られていない、あるいは十分に議論されていない米国の介入の意図について検証したい。

「大湖地域」と呼ばれるアフリカ東部
「大湖地域」と呼ばれるアフリカ東部=GLOBE+編集部作成

冷戦後に米国が関心を寄せたアフリカ大湖地域

調査ジャーナリストの故ピエール・ペアン氏らによると、第2次世界大戦前に、フランクリン・ルーズヴェルト米大統領は英仏のアフリカへの影響力を廃するために、植民地帝国に終止符を打つことを決意した。

しかしその動きが阻止されたのは、1947年に冷戦が起きたからだ。冷戦中、米国は「同盟国」と共に、ソ連と対峙するという主目標を共有していたため、たとえ「同盟国」間に競争があっても、アフリカで目立った紛争を起こすことはあえて避けた。  

1943年12月24日、ラジオを通じて米国民に語りかけるフランクリン・ルーズベルト大統領
1943年12月24日、ラジオを通じて米国民に語りかけるフランクリン・ルーズベルト大統領=FDR大統領図書館提供

冷戦終結後、特に1994年のルワンダを契機に、アフリカにおける地政学的影響の構造が作り替えられた。アフリカにおけるフランスの影響力は弱まり、逆に米国の権力は高まった。

1980年代まで、米国にとってルワンダは優先度の高い国ではなく、1959年以降、国外に避難したツチ系ルワンダ難民にも米国は注目していなかった。

多数のツチ難民を受け入れていた隣国ウガンダでは、1970~1980年代に悲惨な時代が続いた。そんな中、米政府は1980年代以降、アフリカ大湖地域に関心を示し始め、それが冷戦後の米国の外交政策の形成に大きく影響した。

なぜ米国はウガンダとツチ難民に関心を寄せたのだろうか?それを理解するために、まずスーダンの重要性について説明する。

不安定化するスーダン、隣国ウガンダに軍事支援

アラブ系イスラム教徒が多いスーダンは、アラブの同胞であるパレスチナの支援をしていた可能性があるため、米国の同盟国イスラエルはスーダンを危険な国として認識していた。特に1989年、オマール・バシール氏が同国の大統領に就任して以降、首都ハルツームにいろいろなイスラム原理主義者やその他の過激派などが歓迎されるようになり、イランやハマスとも関係を深めた。

シリアのハーフェズ・アサド大統領の葬儀に参列したパレスチナ解放機構のアラファト議長(中央)とスーダンのバシール大統領(右)
シリアのハーフェズ・アサド大統領の葬儀に参列したパレスチナ解放機構のアラファト議長(中央)とスーダンのバシール大統領(右)=2000年6月13日、シリア・ダマスカス、ロイター。肩書はいずれも当時

イスラエルからすれば、スーダンがアフリカ並びに中東世界において地域大国にならないよう、同国内が不安定化していることに国益があり、したがってイスラエルは30年間、南部スーダン(のちの南スーダン)の反政府勢力「スーダン人民解放運動」(SPLM)を支援して、スーダン政府に対抗した。米国もまた、エリトリアとエチオピアに軍用車両やその他の装備を提供し、スーダン経由で侵入するテロリストから自国を守るのに役立てた。

そのスーダンとウガンダは長い国境線を接し、ウガンダは地政学的にも、イスラエルにとって重要な国だ。

1986年に政権奪取したムセベニ政権のウガンダは、混乱時期を乗り越えて経済改革と社会復興を成功させたことで、西側拠出国から称賛された。1989年から1994年にかけて、米国はウガンダへの二国間援助を倍増。ウガンダは1991年だけで、過去40年間に購入した米国製兵器の総量の10倍の兵器を米国から購入した。 1990年前後も、米英はそれぞれ国防情報局と秘密情報局を通じて、ウガンダとRPFを支援していた。

イスラエルは、ハルツームへの「入り口」としてウガンダを使った。またウガンダは、南部スーダンに1983年に勃興したSPLMに最大規模の基地を提供した。

1988年、米国の首都ワシントンD.C.で、ルワンダ難民の世界会議が開催された。この会議が米国政府にどのような影響を与えたのか不明だが、RPFはそれ以降、政権を奪取する1994年より前に米国を中心とした国際的支援を得ることができた。また1990年、RPFのカガメ将軍(現ルワンダ大統領)は米国での軍事訓練に参加し、米軍関係者らから「大湖地域におけるアメリカの男」と称賛された。

ホワイトハウスを訪れ、ブッシュ大統領(当時)と会談したルワンダのカガメ大統領
ホワイトハウスを訪れ、ブッシュ大統領(当時)と会談したルワンダのカガメ大統領=2003年3月4日、アメリカ・ワシントン、ロイター

ジェノサイド発生前の和平交渉で米国は反政府勢力RPFを支援

RPFは1987年にウガンダ在住のルワンダ難民を中心に結成された。1990年にRPFはウガンダからルワンダに軍事侵攻し、1994年初めまで内戦が続いた。

この侵攻は世界でほとんど注目されず、国際社会は、アフリカのような「重要でない」地域での紛争解決に消極的であった。にもかかわらず、アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)を中心に、国際社会は早い段階から調停に迅速に対応した。

アルーシャ和平協議は国際的に注目され、1992年7月から1993年8月の最終的な和平合意の調印まで1年以上続いた。

一般的に和平交渉や和平合意といえば聞こえは良いが、それらが紛争を終結どころか、逆に長期化させる場合もある。

さまざまある問題の中で、特に①調停仲介役の影響力と中立性、②反政府勢力との交渉とその効果、③和平合意の3点について検証したい。

第一に、一般的に仲介役は中立的な立場にいる国や個人が選ばれものと信じられているが、ルワンダの協定にはタンザニアが調停国として選ばれた。同国は長年、ムセベニ氏が率いたウガンダの反政府勢力やRPFなどの解放運動をホストしてきたため、その中立性に疑問があるにもかかわらずだ。タンザニアの仲介を裏で支えていたのが米国で、その代表団はRPFに調停での交渉スキルを訓練していた。

第二に、一般的に政府は優越的地位にいる一方で、反政府勢力の地位は低い。だが、国際的調停によって両者の地位が逆転し、反政府勢力に有利になることが往々にしてある。なぜなら、調停の場では交渉する両者の地位が等しいことが理想であるため、政府の地位が格下げされ、反政府勢力のそれが格上げされることを意味するからだ。その上、反政府勢力にとって、調停者から交渉への参加を招かれることは、その組織の知名度の向上に役立つ。

ルワンダ政府は当初、RPFの存在を承認しなかった。しかし米政府がハビャリマナ大統領にRPFを承認するように迫り、それによって、大統領はRPFとの権力分担協定の交渉を余儀なくさせられた。

第三に、RPFは和平合意にて、ツチ難民の本国帰還と軍事的権力分担という目覚ましい成功を収めた。特に軍事的権力分担に関して、兵士レベルでは国軍60: RPF40、司令官では50:50で合意に至った。RPFに有利となったこの合意の草案は、ウガンダ軍の秘密文書によると、米国が事前に作成したものだ。ハビャリマナ大統領が渋々署名したのは、拠出国からの資金提供が停止されるという圧力や脅しさえ受けたためだといわれる。

上記のことから、「アルーシャ和平協定」はRPF有利の合意となり、軍事的和平を正式的なものにした。

筆者はこれまで、RPFが1994年4月に始まったジェノサイドのきっかけに関与した可能性を論じてきた。ハビャリマナ氏が乗った大統領機が撃墜されて始まったジェノサイドの複雑な背景の一つには、米国などが主導し、ルワンダ国内でRPFに軍事的正当性を与える「和平」プロセスがあったと言える。

ルワンダによるコンゴ侵攻での米国の介入

1998年5月にルワンダに訪問した当時のビル・クリントン米大統領は、「(ルワンダ人が)この想像を絶する恐怖に飲み込まれていた深さとスピードを十分に理解していなかった」と述べた。 

ジェノサイド中の1994年4月から7月にかけて、米国はルワンダに関与しなかったことは知られている。しかし、RPFの軍事勝利から2日後、クリントン大統領は資金支援と軍協力を約束し、米部隊はコンゴ東部のゴマ(コンゴ東部で唯一、国際空港がある主要都市)やルワンダのキガリなどに空輸され、人道軍事作戦を展開した。日本も当時、ルワンダ難民の救済目的で、自衛隊を3カ月間ゴマに派遣した。

1994年のジェノサイドの生存者に向けて演説するクリントン米大統領(当時)。殺戮が始まった後、国際社会が早期に対応しなかったことへの悔恨を語った
1994年のジェノサイドの生存者に向けて演説するクリントン米大統領(当時)。殺戮が始まった後、国際社会が早期に対応しなかったことへの悔恨を語った=1998年3月25日、ルワンダ首都キガリの空港敷地内、ロイター

なぜ米政府はジェノサイド最中ではなく、その終結後に軍事介入する必要があったのだろうか。

米国は、ルワンダ人200万人がコンゴ(当時のザイール)などに避難したことを受けて、彼らをルワンダに帰還させ、定住させるという人道的理由を挙げた。だが、その2年後に起きた、ルワンダによるコンゴ侵攻の準備のためだったという見方もできる。

1996年10月、ルワンダ軍がコンゴに軍事侵攻した目的は、ルワンダの安全保障、そしてコンゴ東部の難民キャンプでジェノサイド加害者(旧ルワンダ軍とフツ民兵)に人質にされていたと言われるフツ難民を解放と救済させ、ルワンダに帰還させるためだった。

ルワンダのジェノサイド後、フツの文民と一緒に逃亡した旧ルワンダ軍や民兵(ジェノサイド加害者)が武装したままコンゴ東部の難民キャンプに住み込み、そのキャンプからルワンダに数回攻撃したと報道された。そのためルワンダはコンゴ反政府勢力「コンゴ・ザイール解放民主連合」(AFDL)」を創設して、それと共にコンゴ東部の難民キャンプを襲撃した。

しかしルワンダが挙げた目的は妥当ではない。難民はルワンダに帰還中、あるいは同国に到着後に政府関係者とみられる者によって殺害されたり、恣意的に逮捕されたり、「失踪」したためだ。筆者がインタビューした難民たちはそもそも人質にされておらず、帰還の判断も自由にできた。難民が帰還を望んでいなかったのは、住民を無差別的に殺戮したRPFに恐怖心を抱いていたためだ。

その難民帰還に米軍が関わり、直接、フツ難民に帰還するように促した。しかし帰還を断固拒否して、ルワンダと逆方向のコンゴ西部に向かって移動した難民集団の動向を、米国はルワンダ軍に連絡していたと疑われている。米軍とCIAは既に1996~97年、通信監視機器などをルワンダ、コンゴとその周辺国に設置したため、情報送信が可能だった。

その情報収集の目的は、フツ難民を根絶するため」と考える研究者もいる。実際に数万人のフツが殺戮された。その罪は1998年2010年の国連報告書によると、「ジェノサイドと特徴づけられる」ものであった。

モブツ・セセ・セコ大統領
モブツ・セセ・セコ大統領=1997年3月23日、ザイール(現コンゴ民主共和国)、ロイター

さらに、米国防総省の議会あての報告書によると、ルワンダのコンゴ侵攻前に、米軍はルワンダ軍に戦闘訓練を施し、コンゴ東部に大量の物資と軍事装備を輸送していた。またヨーロッパ諜報機関がリークした情報曰く、米軍自体も戦闘に関与していた。

それに加えて米外交官とCIA要員は7カ月にわたるコンゴ侵攻の間、AFDLに密かに同行し、モブツ大統領を打倒する試みに関して助言していた。それが米政府主導の「和平」交渉だった。

米政府から勧められて、南アフリカ大統領であり、アフリカ民族会議(ANC)議長だったネルソン・マンデラ氏が主要な仲介役を務めた。モブツ大統領の代行として和平交渉にあたったコンゴ人政治家の著書によると、その後、米代表団が用意した「合意」(モブツ氏への最後通牒)には、「モブツ氏がこの文書に署名して戦争が止まるか、あるいは彼が拒否して蒸気機関車が進み続けるかのどちらかだ」と記載されていた。またモブツ氏宛に送られたクリントン氏からの手紙には、「あなたが政治人生から引退することは、貴国にとって最善の利益になると願っている」と書かれていた。

1997年5月、マンデラ氏はモブツ氏とAFDLのローレン・カビラ報道官との会合の議長を務めた。しかし何の結果も出せず、その2週間後にAFDLは首都キンシャサを制圧した。カビラ氏が大統領就任を宣言した後、ザイールがコンゴ民主共和国に改名された。

記者会見するネルソン・マンデラ南アフリカ大統領と、同席したモブツ・セセ・セコ元ザイール(現コンゴ民主共和国)大統領(左)とコンゴ反政府勢力「コンゴ・ザイール解放民主連合」(AFDL)リーダーのローレン・カビラ氏=1997年5月4日、コンゴ・ポワントノワール、ロイター
記者会見するネルソン・マンデラ南アフリカ大統領と、同席したモブツ・セセ・セコ元ザイール(現コンゴ民主共和国)大統領(左)とコンゴ反政府勢力「コンゴ・ザイール解放民主連合」(AFDL)リーダーのローレン・カビラ氏(右)。肩書はいずれも当時=1997年5月4日、コンゴ・ポワントノワール、ロイター

1996年暮れから1997年5月まで続いた「和平」交渉について、ある研究者はこう批判した。
「当初から、曖昧さと偽善に満ち溢れた外交努力だった。AFDLは交渉による解決を促進しているふりをし、国際社会は交渉による解決を信じているふりをしていた。(中略)AFDLは、『話し合って戦う』(talk and fight)という手段を使っていた。『話し合い』は、政治的合意を達成するための純粋な意欲ではなく、軍事戦略の一部だ」

和平交渉と並行して進められた鉱物資源めぐる契約

米政府らが「和平」交渉を単に演じていたのは、そもそもそれに無関心だったためだ。スペイン起訴状が明記した「ツチの勢力圏の拡大」「コンゴの非常に豊かな天然資源をツチの物として利用すること」の計画に沿って、米国らが実行していた可能性が高い。

その米国主導の「和平」交渉と並行して、米企業数社はAFDLと鉱業の契約を結んだ。おそらくそれが米政府の介入の第一目的だったのだろう。

その企業の一つが米建設大手ベクテルで、コンゴの膨大な鉱物資源の開発計画を作成することで、AFDLに衛星データを無償で提供した。またクリントン氏の地元アーカンソー州に本社を置いていた鉱山会社アメリカン・ミネラル・フィーズは、カビラ氏と戦争資金の提供と引き換えに、コバルトと銅の鉱床を探査するという10億ドルの契約を結んだ。

鉱山から採掘された鉱石コルタン
鉱山から採掘された鉱石コルタン=2016年6月9日、コンゴ民主共和国東部、朝日新聞社

その上、侵攻当初、ルワンダの首都キガリの米国大使館はコルタンの開発の合弁事業にも深く関わっていた。

1802年に発見された鉱物資源コルタンは、産業革命の終わりのヨーロッパでは冶金産業に使われていたが、第2次世界大戦を契機に軍事利用が行われ、1990年代後半までに携帯電話やコンピューター製造に不可欠な金属として、最大の輸出品になった。

このように世界でも稀で戦略的な資源が集中しているコンゴ東部で、約30年間「侵略戦争」が続き、そして、その前に隣国ルワンダの反政府勢力だったRPFが米国の支援を受けていたこと、RPFが侵攻したルワンダ国内でジェノサイドが起きたことは決して偶然ではないと筆者は考えている。

だからこそ、ルワンダのジェノサイドを「民族対立」「加害者はフツ、犠牲者はツチ」「国連PKOの失敗」と単純に認識するのではなく、グローバル、特に米国介入の観点から分析する必要性がある。