米ニューヨーク・マンハッタンのダウンタウンに2024年5月、「バンクシー美術館」がオープンした。ソーホー地区の南側のほぼはずれにあり、東西を走る幹線道路キャナル・ストリートに面している。
建物の下階にはバンク・オブ・アメリカが入る。周りでは、アップル製品の海賊版や本物と見まがう偽プラダのハンドバッグなどが、敷物の上に並べて売られている。美術館に入るには、それをかき分けるようにして進まねばならない。
この入館のステップは、いかにもふさわしい。というのも、ここは本物のバンクシーの作品を所蔵しているわけでも、展示しているわけでもないからだ。あるのは、きちんとした複製品167点。実物大の壁画や、外壁のように加工されたパネルに描かれたペインティングが、街路を模したスペースに広がっている。
ここにあるレプリカは、1990年代の終わりからバンクシーが描いてきた全作品を、多かれ少なかれ原作に忠実に再現している。それが可能だったのは、レプリカを制作した芸術家たちの力量とさほど関係があるわけではない。むしろ、分かりやすさを重んじるバンクシーの美学によるところが大きい。
写真から生成した「ステンシル」(訳注=渋紙などで模様を切り抜き、これを壁や塀に乗せて色を刷り込む型染め技法)を使い、技術的な熟練度よりは社会的な主張を伝えることに力点が置かれている。
バンクシーの作品は描く技法や形式の新しさで驚かせるものではないし、そんなことを意図してもいない。早く描き上げ、すぐに理解してもらえるように考えられている。
たいして難しくはなく、見れば分かるギャグによる「オチ」がすべてで、結論がない(例えば、米国の伝説のストリートアーティスト、キース・ヘリング〈訳注=1958-90〉の「吠える(ほえる)犬」を散歩させる男性。枕投げをする機動隊員と抗議のデモ隊。雪だと思った少年の舌先の粉は、大型のゴミ容器が燃えて降ってきた灰だった――といった具合だ)。
その初期の政治風刺画には、モヒカン刈りになった英元首相ウィンストン・チャーチルがいる。火炎瓶を投げようとするテディベアもいる。いずれにも、学生寮の部屋に貼られたポスターぐらいの意味深さがこもり、作者の思考を説明する軽薄なポピュリズムがある。それは、文化現象へと確実につながる道だ。
バンクシーは、その道を2000年代の半ばから歩み始めた。そして、まれに見る信奉者を得ながら、世界で最も有名な匿名のストリートアーティストになった。新作が登場すると文化的なできごととして歓迎され、その撤去にはしばしば抗議の声が上がった。
予言者や救世主のように扱われる芸術家は、ほかにそうはいない。いまだに素性を明らかにしての生活に完全な拒絶反応を示す芸術家となると、もっと少ないだろう。
こうしたいくつもの矛盾を、このバンクシー美術館は意図せずして体現している。正式な許可や認可を受けていないため、存在自体がバンクシーを称賛することと搾取することを同時に実行しているといえる。
さらには、面白い頭の体操にもなる。複製品だけの美術館って、そもそもありえるのだろうか。ストリートアートは、ストリートから取り払われても存続しうるのだろうか。反体制芸術家は、作品が競売にかけられて何百万ドルもの値がつくようになっても、反体制といえるのだろうか。
バンクシー美術館はこうした潜在的な偽善とは無縁のようだ。非の打ちどころのない世界観を持ち、表現方法において堕落することのない芸術界のロビン・フッドとして、バンクシーを明確に賛美している。
もちろんこの美術館は、厳密な言葉の定義でいう美術館ではない。おおざっぱな意味でもあてはまらないだろう。何しろ学芸員がいないし、作品の保存や収集もしていない。
そのコンセプトは、どちらかというとアイスクリーム美術館(訳注=アイスクリームを食べながらインスタグラム用の写真が撮影できる体験型美術館。マンハッタン発祥で、米国各地やシンガポールにある)に近い。つまり、チケット制の体験型の展示で、その体験内容は漠然としている。
入館料は大人が30ドル(1ドル=156円で換算すると4680円)、子どもが21ドル。大人の料金はニューヨークのメトロポリタン美術館(Met)が市外居住者に求める一般入場料と一致している。ただ、少なくともMetでは展示してある仏画家アンリ・マティスの作品はいずれも本物だ。
実際には、この美術館は数多くあるバンクシー美術館の最新のものにすぎない。ベルギーの映画監督兼プロデューサーのハジス・バーダーが2019年に仏パリで開館させたのを手始めに、2024年5月現在で計4カ所にできている(訳注=パリ以外では、スペイン・バルセロナとポーランド・クラクフ、ベルギー・ブリュッセル)。しかも、バーダーの美術館群は、バンクシーをめぐる「偽物家内工業」の一部にすぎない。無許可の展覧会は世界中で開かれており、露天商たちが小さな模造品を売り歩く姿もよく見かけられている。
バンクシー自身の哲学が、こうした「起業家」精神を呼び起こしているともいえる。「著作権なんて、敗者が唱えるしろものだ」と明言しているからだ。著作権の管理が緩いこともさりながら、いずれの展示もバンクシー自身が反対しているような、社会的人格と神秘性を注意深く管理することで培ったカルト的な精神への狂信を利用している。それは、この注意深い管理でかえってあおられてもいる。
ニューヨークの美術館は、表向きには美術界を軽蔑しているように見えるバンクシーの姿勢について、展示のかなりの部分を割いている。「商業的な成功は、グラフィティ・アーティストにとっては失敗の烙印(らくいん)にすぎない」。バンクシーはめったに応じなかったインタビュー記事に登場し、2013年に米紙ビレッジ・ボイス(訳注=2018年廃刊)でこう語っている。
ただし、売れる作品をつくり、オークションでは何百万ドルもの値がつくことで、その立場は複雑になっている。最も有名なのは2018年にサザビーズで競売された「少女と風船」の一件だろう。140万ドル(当時の円換算で約1億5500万円)で落札された直後に、一部が破壊された(訳注=あらかじめ額縁に仕掛けてあったシュレッダーが作動し、作品の下半分を細断した)。
過熱する市場の投機を風刺する大胆な行動だったが、皮肉にもそれは価格をつり上げる方向に作用した。2021年にこの作品が再びサザビーズで競売にかけられると、2540万ドル(同約29億円)で落札されたのだった。商業的に成功しないことと作品の価値を高めることの両立は難しい。
バンクシーの考えは、間違いなく正しい。偏執的ともいえる反体制的なその世界観は、ほぼ現実のものとなっている。ほとんどの政治家はひきょう者だ。金持ちは労働者階級から金を巻き上げても、だいたいは逃げおおせる。そして、美術界は、ほとんど現実から切り離されている。一方で、バンクシーの正義感は単純化されている。子どもは善、大人は悪。政府は邪悪、金は愚か。
多くの場合、こうした努力はバンクシーの主張の正しさを証明している。美術は商業主義と分かちがたくなっている。しかし、バンクシー美術館が最終的に失敗するだろう理由は、観光客から巻き上げる入館料の価格のせいではない。バンクシーの作品が持つ力強さは、ストリートに根ざしたものだからだ。
「バンクシー美術館」は、当の本人が美術市場のストリートアート崇拝をあざけるためにつくり出しそうな代物といえる。そこにある活気と危うさと可能性を消毒してしまったストリートの模造品は、まったく不自然で、空気のない墓を思わせる。その最も興味深い点は、管理すること(訳注=ストリートアートを会場に整然と展示するようなこと)の限界を示していることかもしれない。
バンクシーは、ドキュメンタリー映画「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ(Exit Through the Gift Shop)」を監督し、2010年に公開している(訳注=初の監督作品で、米サンダンス映画祭で上映された)。
米ロサンゼルスで古着店を営んでいたティエリー・ゲッタが、愚かなストリートアートの興行主ミスター・ブレインウォッシュ(Mr.Brainwash)へと変身していく筋書きで、この人物はバンクシーがつくり出したか、自身の悪夢を語っていると見られている。かつては傍流でしかなかったストリートアートが今や完全に主流の一部となり、商品化されていることへの批判であり、戒めの物語だ。
当然、ニューヨークのバンクシー美術館では、来館者をギフトショップから外に吐き出す。床には、ステンシル技法で「exit through the gift shop(土産店からの出口)」という案内がギャグとして書かれている。「この冗談、お分かりかな?」とウィンクして問いかけながら。(抄訳、敬称略)
(Max Lakin)©2024 The New York Times
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