イタリアで最も名が知れた現代美術館のホームページには、このところ二つの案内が来館者向けに出てくる。
「入場券の予約をどうぞ」。それに、「ワクチン接種の予約をどうぞ」。
北部の中核都市の一つ、トリノの近郊にあるリボリ城(castello di rivoli)現代美術館。かつてはサボイア王家の宮殿だった風格を今に伝えている。
ここが新型コロナワクチンの接種を促進しようと動いたのは、文化施設を接種会場として活用する欧州の流れを受けてのことだ。イタリアでも、いくつかの美術館がこれに応じるようになった。
トリノ西方のリボリ市にあるこの現代美術館は、3階の展示フロアを接種センターにした。そして、「アートは助ける」と来館を呼びかけている。
センターそのものは、地元の保健当局が運営している。でも、ここに来れば、スイスの現代美術家クラウディア・コントの壁画作品を一緒に楽しむことができる。
接種の前でも、後でもよい。会場の各展示室を散策してみよう。コントは(訳注=オーストリア生まれの若手)作曲家エゴン・エリウトと組んで、そこに「音のある風景」を創り出している。視覚と聴覚が織りなす「夢のような気分」へのいざない――そんな制作意図が、伝わってくるだろう。
「アートは、人間の幸福感を満たすのに特に重要な役割を果たしている」とリボリ城現代美術館の館長キャロリン・クリストフバカルギエフはいう。その意味で、コントの作品ほどこの場にふさわしい背景画はないと評価する。
「肉体を癒やす医術と、魂と思考を癒やす美術とが、一体となった空間ができたのだから」
「癒やす」も「美術館の専門職」も、イタリア語の語源は(訳注=「治す」などを意味する)ラテン語の「curo」に由来すると館長は指摘する。歴史的にも、最初の美術館のいくつかは、もともとは病院だった。
このセンターは、2021年4月29日にオープンした。初日に訪れた何人かに聞くと、まさに同じような評価が返ってきた。
今のところ、利用者は地元保健当局の管轄地域の住民に限られている。
その一人、年金暮らしのパトリツィア・サボイアは、歩いてこられるところに住んでいる。「最初はどうなるのか、不安だった。ところが、音楽が流れる美しい展示室がいくつもあり、ドキドキしなくなった。気分がとってもほぐれた」
いくつもの巨大な壁画からなるコントの作品の題名は、「いかに成長し、なおかつ同じ姿をとどめるか」。18世紀に施されたこの城の装飾デザインに着想のヒントを得ている。もともとは、19年の秋に展示が始まり、翌年2月には終わるはずだった。しかし、結果的には、館始まって以来の長期展となった。
まず、コントの次に開かれる予定だったオトボング・ンカンガの展示が、20年秋まで延期された。ナイジェリア生まれで、ベルギーのアントワープを拠点に活動しているアーティストだ。
やがて、接種センターの構想が出てきた。そこで、館長のクリストフバカルギエフは、ンカンガに予定変更の断りを入れることにした。
「『なんていわれるだろう』とビクビクしながら電話した」と館長は振り返る。「ところが、反応はとても前向きだった」
「まさか。冗談では。あの空間が、接種会場になるなんて、信じられない」と快く応じてくれたのだった。
一方のコント。取材をすると、スペイン・マドリードの国立ティッセン・ボルネミッサ美術館での展示準備に追われていた。そして、自分の作品にもう一つの意味が加わったことがうれしいと語ってくれた。
「接種に来た人が、あのオーディオビジュアルの癒やしの世界に、たっぷりひたってくれると想像するだけで楽しい」
リボリ城現代美術館でのコントの展示には、パフォーマンスイベントを加えようとしてコロナ禍で取りやめになったいきさつがある。今度は、接種に来る人が、自分の壁画と向き合ってくれる。
「これでこの空間が、より完全な、より意味のあるものになる」とコントはいう。「芸術家は時代の代弁者であるべきで、まさにぴったりのタイミングだ」
リボリ市に近い町グルグリアスコの事務員マルコ・ボッターロも、初日に接種を受けた。27歳なのに対象となったのは、病気を抱える父親と暮らしているからだ。
「とても印象深い体験をすることができた」とボッターロは話す。この城は、学校の授業でよく訪れていた。時は移り、今は不安が先立つ時代になってしまった。ところが、久しぶりに来てみると、「思い出の場所が、すごくリラックスできるようになっていて実によかった」。
館長のクリストフバカルギエフによると、ワクチンセンターの構想を具体化することにしたのは、20年暮れにこの美術館の会長フィオレンツォ・アルフィエリが新型コロナで亡くなったからだった。館は当時、コロナ禍で閉鎖されていた。
20年の入館者は、前年より70%も減った。収入も100万ユーロの減となった。
「閉館し続けねばならないのなら、せめて地域社会の役に立ち、パンデミックをなんとかしたかった」と館長は思いを語る。
実現は、4月末までずれ込んだ。ワクチンの供給遅れが主な原因だった。
その間に、国内の他の美術館もこの動きに合流した。
例えば、南部最大の都市ナポリ。現代アートを集めたマドレ美術館は、接種開始とともに所蔵品からえりすぐった特別展を開いた。カポディモンテ美術館は、「美の魅力に感染するのはいかが」と呼びかけた。
北部の最大都市ミラノ。(訳注=工場を改装した)現代美術館ピレリハンガービコッカでは、戦後ドイツを代表する芸術家アンゼルム・キーファーの塔の形をしたいくつもの巨大な展示品に隠れるようにして接種が始まった。
リボリ市では、接種センターは市立病院と現代美術館の2カ所になった。市長のアンドレア・トラガイオーリは、できるだけ多くの人に接種を受けてもらおうと意欲的だ。「リボリ城は世界的に知られており、われわれの誇りでもある」と現代美術館の参加を大いに歓迎している。
現代美術館のセンターが開かれているのは、木、金、土の週3回。毎回、100人ほどが接種を受け、終了後は3階だけでなく、全館の展示を無料で見て回ることができる。
現代美術館の職員は、接種に訪れた人にはとくに丁寧に接するよう指示されている、と館長のクリストフバカルギエフは明かす。不安を抱えての来館も予想されるからだ。
「受けに来る人には、とても大きな社会貢献を果たしたことを実感してもらいたい。このパンデミックから抜け出すという、みんなでやらねば成し遂げられないことへの貢献だ」(抄訳)
(elisabetta povoledo)©2021 the new york times
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