はじめに
大麻取締法改正案が国会で成立し(2023年12月6日)、新法の1年以内の施行が予定されている。重要な改正点は、次の3点である。
第一に、大麻草から製造された医薬品の施用等に関する禁止及びその罰則規定を、大麻取締法から削除する(いわゆる医療用大麻の解禁)。
大麻に医療用大麻という特別な種類があるわけではなく、大麻に含まれている依存や耐性のみられない物質(CBD=カンナビジオール)に医療的効果が認められるようになったのである。
とくにてんかんに効果があるといわれている。医療用大麻へのゴーサインが出されたことについて異論はない。これにともなって、大麻取締法という法律は「大麻草の栽培の規制に関する法律」に生まれ変わる。
第二に、従来の大麻取締法は、大麻草の特定の部位を規制する、いわゆる部位規制を実施してきた。
すなわち、大麻草の成熟した茎および(樹脂を除く)その製品と、大麻草の種子およびその製品を除いた「大麻草(学名:カンナビス・サティバ・エル注)及びその製品」を規制対象としてきた(同法第1条)。具体的には、主に大麻草の花穂(かすい)や葉の部分がこれまでの規制対象であった。
今回、この部位規制から、大麻を麻薬及び向精神薬取締法(麻向法)における「麻薬」に分類して、大麻に含まれる精神活性成分であるTHC(テトラヒドロカンナビノール)を規制する成分規制へと規制の仕組みが変更された。
第三に、麻向法による成分規制に移行したことによって、従来大麻取締法に処罰規定が存在しなかった大麻使用行為が麻向法における「麻薬施用罪」(7年以下の懲役)として処罰されることになった(麻向法第66条の2)。THCは多幸感や開放感をもたらす精神活性作用をもち、乱用の危険性があるというのがその理由である。今回の改正では、この点がもっとも大きな争点となった。
具体的な改正点をまとめると、以下の通りである。
- 大麻の使用 従来、処罰規定なし→麻薬施用罪(7年以下の懲役)(麻向法66条の2)
- 大麻の単純所持および譲渡、授受 5年以下の懲役→大麻の製剤・小分け・譲渡・譲受・所持として7年以下の懲役(麻向法第66条1項)
- 大麻の営利目的での所持および譲渡、授受 7年以下の懲役又は200万円以下の罰金(併科もあり)→大麻の製剤・小分け・譲渡・譲受・所持として1年以上10年以下の懲役、300万円以下の罰金(併科あり)(麻向法第66条2項)
- 大麻の輸入・輸出・栽培 7年以下の懲役+営利目的の場合、10年以下の懲役又は300万円以下の罰金(併科あり)→大麻の製造・輸入・輸出として1年以上10年以下の懲役。営利目的の場合、1年以上の有期懲役又は300万円以下の罰金(併科あり)(麻向法65条1項)
- 栽培 7年以下の懲役→営利目的の場合、1年以上10年以下の懲役又は300万円以下の罰金(併科あり)(麻向法24条の2)
改正点をこのように整理すると、大麻事犯の重罰化以外の言葉は思いつかない。
わが国で大麻取締法を支えてきたのは、(1)大麻には薬効がない(2)大麻は乱用の危険性が高い(3)刑罰(懲罰)が薬物依存症治療のきっかけを与える――という三つの主張である。
今回、第一の点について知見が改められた。しかし懲罰による断薬が乱用を抑え、依存症治療のきっかけになるという考えは、大麻使用(施用)罪が新たに創設されたことによっていっそう強化されている。
大麻とは何か
学名
大麻草(日本では「麻」の名前の方が一般的)は、「カンナビス属」に分類される一年草である。原産は中央アジアだが、世界中に運ばれて栽培されており、少なくとも5千年以上前から、茎は繊維、種子(実)は食用として人類に重宝されてきた。
わが国でもその丈夫な繊維は、紐や綱、布などに広く利用されてきた。戦争中はパラシュートの布の材料としても貴重だった。
また、麻の繊維がキラキラと光ることから邪気を払う力があるとされ、神社のしめ縄に利用されてきた。相撲の横綱も麻で作られている。七味唐辛子には(発芽機能を削いだ)麻の実が今でも使われているし、高級車のボディやコンクリート建材を軽量でより強固にするために麻の繊維が混ぜて使われたりしている。
植物学者の間では、カンナビス属に属する種の数について、生育環境を同じにすると何世代かの後にはすべて同一になるとする「一属一種説」と、それを否定する「一属多種説」の論争があったが、現在では「カンナビス・サティバ」(C. sativa)、「カンナビス・インディカ」(C. indica)、そして「カンナビス・ルーデラリス」(C. ruderalis)の3種が存在するという「一属多種説」が多数説のようである。
それぞれ生育環境はもとより、外観、化学的特性、成分の割合、用途が異なっている。THCをもっとも多く含むのはインディカ種であるが、わが国に古くから伝わっているのはサティバ種であり、THCの含有量も少ない。そのため日本では大麻を吸引するという習慣は根付かなかった。
改正法は大麻草の定義の問題には触れず、従来と同じように「カンナビス・サティバ・リンネ」としており、一属一種説に依ったままである。最高裁判例も一属一種説である(最高裁昭和57年9月17日決定)。
しかし遺伝子解析の技術が進化した今では、この定義についても再考の余地があったのではなかったかと思われる。念のためにいえば、一属多種説からはサティバ種以外は規制の対象外だと解釈する余地が残るのである。
カンナビノイド(CBDとTHC)
カンナビノイドとは、人体に作用して特定の反応を引き起こす、大麻に含まれる化学物質である。大麻には多くのカンナビノイドが含まれているが、重要なのはCBDとTHCである。
CBDには、抗痙攣(けいれん)作用があり、筋肉を弛緩させ、脳を調整することで発作を抑えることがわかっており、特にてんかんの治療に使われる。またCBDには、抗炎症作用などの性質もある。
他方、THCは吸引すると多幸感や解放感などが生じ、多くのユーザーが求める精神活性成分である。
CBDとTHC、その他60種類以上のカンナビノイドの組み合わせにより、大麻から得られる効果の種類が決まってくる。カンナビノイドの人体への作用は非常に興味深いものだが、実はまだ十分には解明されていない。
今から30年ほど前、カンナビノイドが脳内細胞のコミュニケーション・ネットワークを刺激することで、認知や行動が影響を受けるという驚くべき発見がなされた。
つまり、脳内の敏感な受容体(たんぱく質)にカンナビノイドが結合して化学変化が生じたり、妨げられたりすることによって、認知や行動に変化が生じるのである。アクセルとブレーキの関係だと考えればわかりやすい。
この電気化学的なシグナル伝達システムは、エンドカンナビノイド・システムと呼ばれ、中枢・自律神経系、内分泌・免疫系など、ヒトの重大な生理機能を制御していることが分かった。
ただし呼吸等の生命維持機能を制御する脳の細胞には、カンナビノイド受容体がほとんど存在しないので、天然の大麻には致死的な毒性はないといわれている。あえていえば、人の身体は大麻と親和性があり、大麻の影響を受けやすいようにできているのである。
外因性のカンナビノイドとは別に、体内で自然に生成され、エンドカンナイノイド受容体と相互に作用する内因性カンナビノイドも発見されている。いわゆるランナーズ・ハイという現象はこの内因性カンナビノイドによるものだという有力説がある。
THCやCBDなどの外因性カンナビノイドは、内因性カンナビノイドや体内の受容体と連携して、人体内でのさまざまな現象を生じさせるのである。
エンドカンナビノイド・システムは、たとえば発作や脳の損傷に対処するための神経保護反応を引き起こすことがわかっている。痛みの受容体を鈍らせる効果もある。不安を引き起こす生物学的プロセスにも影響を与える。
しかしこれらの化学的な仕組みや、人類が大麻からどのような恩恵を受けているのかはまだ完全には解明されていない。
依存性と有害性
依存性と乱用
(1)依存性
大麻の特徴の一つは依存性である。しかし、アメリカ国立薬物乱用研究所(NIDA)によれば、コカイン使用は15%、アルコールは20数%、タバコは30数%が依存症に結びつくが、大麻の場合は約9%と意外に低い。
また禁断症状も大麻の場合は、他の薬物よりも重くないといわれている。さらに世界保健機関(WHO)によれば、大麻使用じたいは急性死亡とは関係がない。
THCには鎮痛や筋弛緩、抗うつ、制吐などの他に陶酔作用もあり、多幸感や開放感を生む。過度の薬物や特定の薬物による快楽は、法や社会が許容する喜びの範疇を超えるものがあり、これが厳しい規制の理由となっている。
大麻の身体的依存(離脱症状)は、アルコールやタバコと比較するとわかりやすい。
この三つの薬物は依存症を引き起こす可能性があるが、アルコールの離脱症状が最も深刻である。アルコールの離脱症状は、依存症の程度にもよるが、アルコールを止めてから数日から数時間以内に始まる。落ち着きがなくなる、震える、吐き気や嘔吐、不安、心拍数の増加、頭痛、不眠、ひどい場合は妄想、幻覚、発作などがあり、治療を受けないと命にかかわることもある。
タバコの離脱はそれほどではないが、イライラ、渇望、抑うつ、不安、認知・注意力低下、睡眠障害、食欲増進などが生じる。これらの症状は、最後のタバコを吸った後、数時間以内に始まることがある。症状は禁煙開始後数日でピークに達し、通常は数週間以内に治まるが、数カ月間続くこともある。
これらに対して大麻の離脱症状はアルコールの離脱症状のようなことはなく、医学的に危険なものでもない。タバコに似て、怒り、不安、イライラ、抑うつ、不眠、胃腸症状、食欲減退などの離脱症状があり、一般的にこれらの症状は数週間以内に治まる。
私たちの社会は薬物依存症という重大な課題を抱えているが、そのほとんどはアルコールやタバコ、市販薬などの合法的な薬物によるものである。
しかも現在の医学的知見からすれば、これらの合法薬物の方が全体として大麻よりも危険なのである。禁止される薬物とそうでない薬物の違いは何かが問題なのである。
(2)乱用
乱用の可能性についても、大麻はアルコールやタバコとは異なる。
タバコは一般に社会的乱用とはほぼ無縁である。家庭や職場で(分離喫煙が守られているなら)対人関係を決定的に損なうこともなければ、法律上の重大な問題に発展することもあまりない。
他方、アルコールは社会的乱用につながる可能性が高い。禁酒法時代、アルコールが非合法化された主な理由は、家族に壊滅的な影響を与え、アルコール依存症患者が雇用を維持するのが困難になり、普通の生活を送ることができなくなる可能性があるからだった。
これらに比べて大麻の精神作用そのものは、アルコールのように人生や家族を破壊するものであることはない。これは大麻がアルコールと違って、一般に使用者に攻撃性をもたらさないからである。
ただし、大麻を合法化している国や地域では、大麻を使用した状態での運転などの危険な行動は禁じられている。
有害性
大麻の法的地位については、日本を含めてほとんどの国でまだ違法である。司法の世界では、昭和60年に最高裁が、規制の根拠としての大麻の有害性は「立法事実」あるいは「自明の事実」であると科学的根拠もなく断定して以来、法廷での大麻の有害性についての議論は封じられている(最高裁昭和60年9月10日決定、最高裁昭和60年9月27日決定)。
しかし最近の研究によると、大麻の大量使用、とくに長期にわたって摂取した場合、統合失調症やうつ病の発症リスクが高まったり、使用者の記憶力を低下させ、さらにわずかではあるがIQの低下を引き起こす可能性があるなどといわれている。この影響は、大麻を使用する若年層に特に顕著に現れるようである(そのため、大麻を合法化する国や地域は成人のみを対象としており、未成年に対する譲渡や施用については日本よりも厳しく罰している)。
大麻の犯罪化に反対する立場も、もちろん大麻にこのような害悪がないとまで主張するものではない。根本的な問題は、成人がみずからの自由な意思によって大麻を摂取した場合に、それを処罰する根拠は何なのかということである。
アルコールに関して言えば、急性アルコール中毒での搬送件数は年々増えており、大学生や新成人の一気飲みで命を落とすケースが毎年発生している。また、アルコールの常飲はさまざまな臓器に悪影響を及ぼしているが、とくに肝臓病はもっとも高頻度で生じる病気である。
また、対人関係の重大なトラブルの原因になったり、暴力的な犯罪行為の原因になったりもしている。しかし、成人のアルコール摂取はもちろん犯罪ではない。
タバコに関してもそうである。依然としてタバコは循環器疾患や呼吸器疾患などの重大な原因になっており、1日にタバコ1箱を吸う者の4分の1は非喫煙者に比べて人生の15年以上を失っているといわれている。しかし、これを犯罪の問題として捉えずとも、タバコの害は広く認識されてきており、喫煙人口は確実に減少しているのである。
日本は大麻の生涯経験率が1%台と低いので刑罰による威嚇が第一次抑止に役立っており、逮捕や処罰が治療につながるといわれている。今回の改正に関する国会審議においても、大麻使用者を刑事司法に乗せることによって「治療につなげる」狙いがあるといわれた。
しかし一度手を出すと、薬物乱用のサイクルから抜け出せないかのような説明やキャンペーンは、酒好きの人がすべてアルコール依存症にならないように、明らかに不適切である。
かつて大麻は1961年の麻薬に関する単一条約(単一条約)で科学的根拠もなく「麻薬」に分類され、モルヒネやヘロインなどと同じように中枢神経を抑制して感覚を鈍らせ、依存症になる可能性も高いといわれてきた(60年代に入ると大麻は若者を中心に広く普及し始め、「意識を拡張する」薬物として支持されるようになった)。
しかし上記のように、大麻の依存率は他の薬物に比べてかなり低く、しかも圧倒的多数の使用者に「治療」の必要性があるかどうかは疑わしい。そうだとすると、かれらを検挙して刑事司法に乗せる根拠は何なのかが改めて問われるべきである。
大麻はゲートウェーか
大麻規制の根拠の一つに挙げられるのがゲートウェー仮説である。ゲートウェー仮説とは大麻が他の薬物乱用の入り口になるという意味であり、より危険な薬物のまん延を防ぐために、大麻は規制しなければならないとよくいわれる。国会審議でもこの点は強調されていた。
大麻が公衆衛生や社会の安全を脅かすという懸念は根強く、このようなメッセージが、その使用を規制する方法として懲罰的対応を正当化し、とくに少量の大麻を所持していた若年層に対する逮捕を後押ししている。
日本ではまだ大麻使用を深刻な薬物乱用と結びつけて議論する人が多いが、しかし海外ではこの問題に関する科学はほぼ決着がついている。ゲートウェー仮説は多くの人が支持する科学的な事実と矛盾しているのである。
ゲートウェー仮説は、大麻が覚醒剤などの入り口になるとする因果関係の議論である。このためには次の三つの条件が満たされる必要がある。
- 順序性=二つの薬物の間に一定の関係があり、大麻使用が覚醒剤使用より前に開始される
- 関連性=最初の薬物の使用を開始すると、第二の薬物を使用する確率が統計的に増加する
- 因果性=第一薬物の使用が第二薬物の使用を実際に引き起こす
しかし、この三つの条件を科学的に立証することはたいへんむずかしい。
確かに、大麻がよりハードな薬物への「踏み台」であることを示唆する研究はある。動物実験ではあるが、大麻使用が他の違法薬物を薬理学的に受容するような脳の下地を作り、その結果、より強い薬物を使用する可能性が高くなることを示唆している。
しかしアルコールとタバコにも同様の効果があることも確認されている。そして一般的に、大麻の使用よりアルコールの使用が先行し、さらにタバコの使用が先行し、その先にはカフェイン飲料の常飲がある。しかし、カフェインやタバコ、アルコールが大麻の入り口だとはだれも言わない。
海外の研究では、ゲートウェー仮説を支持する研究よりも支持しない研究の方が圧倒的に多いのである。経験的には大麻使用者がより強い薬物に手を出すことがないことではないが、要は好みの問題であって、ほとんどの大麻使用者がより強いハードドラッグを常用するに至ることはまずないからである。ワインやビールを好むひとたちが、ブランデーやウイスキーを常飲することがないのと同じである。
世界で推定2億5千万人以上いるといわれている大麻使用者の人口の多さを考えると、よりハードな薬物に移行する確率は限りなくゼロに近い。もしも大麻がゲートウェー・ドラッグならば、世界はとっくの昔にヘロインやコカインであふれていることだろう。
日本の犯罪統計もそうであり、最近は大麻事犯での検挙者は増えているが、逆に覚醒剤での検挙者は減少しているのである。これはゲートウェー仮説の支持者にとっては都合の悪い統計的事実であるだろう。ゲートウェー仮説は、もはや実証的には支持しがたいフィクションに近い理論だといえるかもしれない。
規制強化の問題
医薬品と薬物の恣意的区別
現在の世界的な薬物統制戦略は、60年以上前に国際的なコンセンサス(単一条約)で作り上げられた。それは、「医薬品」と「薬物」とを政治的に区別し、違法薬物の根絶を目指す禁止と罰による抑圧のシステムだった。
しかし、肉体的苦痛を和らげる「医薬品」の医学的必要性と、精神的な高揚感を娯楽的に「薬物」に求めることへの道義的非難、この二元的区別は国際的薬物統制が始まって以来、致命的な欠陥となっている。
大麻は世界各地で医療や宗教、習俗、慣習の中で珍重されてきた植物である。しかし、単一条約が大麻を当時なんらの科学的根拠もなく、政治的理由から「麻薬」(narcotic)に分類したことによって、こうした伝統や土着の植物学的知識を尊重、発展させる可能性を完全に削いでしまったのである。
その傾向は化学者が麻薬植物の特性を合成的に再現できるようになると、ますます強くなっていった。
THCがイスラエルの化学者によって分離されたのが1964年で、さらにアメリカの化学者が合成に成功したのが2006年であるから、1960年代になるまで、多幸感や開放感などを生じさせる大麻の精神活性作用の実体はよく分かっていなかった。
国際的な規制の裏には国内に深刻なマリファナ(大麻)問題を抱えていたアメリカの強い影響があったといわれている。つまり、ある薬物をどのカテゴリーに分類するかは、医学的問題より政治的な問題としての性格が強いのであるが、政策的次元で重要なのは薬物使用者が新たな分類によってどのような影響を受けるのかという問題なのである。
「麻薬」という言葉には、独特のたいへん恐ろしい響きが感じられ、社会では必ず否定的な意味をもって受け取られている。
しかしそもそも「麻薬」という言葉には明確な定義は存在しない。医学的には、昏睡、昏迷、または痛みに対する無感覚を誘発する物質が一般に「麻薬」と呼ばれているが、当然のことながらそこには道徳的な否定的意味は含まれていない。
しかし、これが他の分野の定義と一致しているかといえばそうではないのである。とくに法的定義はあいまいであり、規制という観点からどこの国でも「麻薬」という言葉が処罰を拡大する方向で使われる傾向がある。大麻が「麻薬」だというのは、コーヒーや緑茶を「麻薬」というほどではないが、違和感がある。大麻の「麻薬」への分類には、大麻の取締りを強化すべきだという強いメッセージを感じるのである。
大麻は心身に悪影響を及ぼすというのが規制の理由だが、物質についての害を、その物質のみについて述べることは誤解を与えるし、間違っている。
利点と欠点はすべて相対的だから、他の物質と比較して論じないと意味がない。自傷他害や社会的影響を総合的に比較した海外の権威ある研究では、アルコールやタバコの方が大麻より相対的にリスクが高いという研究成果があり、よく引用されている。
百歩譲って、かりに大麻が身体に悪いとしても、そのことで直ちに刑罰を正当化することはできない。確かに罰は、みんながやりたくなる「悪いこと」(快楽の果てにある苦しみ)を抑止する一つのありうる選択肢であるかもしれない。
しかしこれが正しい方策ならば、過食や偏食、喫煙、不摂生な飲酒、運動不足、市販薬の過剰摂取など、実際にだれも提案しない多くの好ましくない行為を罰することができるだろう。
薬物使用は基本的に自分にしか害を及ぼさない。依存になるのはそのごく一部であるのに、圧倒的多数の薬物使用者が法の網にかかっている。防ごうとする害以上の別の深刻な害を刑罰が使用者や家族に与えてしまい、その結果多くの者が苦しんでいるのである。
反抗の連鎖
違法薬物を摂取する人びとが、毎年推定で2億5千万人以上いて、植物由来の薬物や合成薬物を生産しつづける人びとが何十万人もいる。日本でも大麻が「まん延」しているといわれているが、法律がこのような規模で無視され、それに対して国家がいっそうの熱意をもって厳罰主義を実行に移せば、反抗の連鎖を刺激することになり、新たなより強力な薬物が生み出され、国民により多くの害が生じることになる。
つまり厳罰主義にもとづく禁止政策は、しばしば薬物をより強力に、より危険なものにするのである。薬物が禁止されると、低濃度の薬物の使用が減少する。低濃度であっても高濃度であっても犯罪リスクには変わりがないから、薬物が強力であればあるほど、売人や使用者にとってリスクに対する潜在的な利益が高まるからだ。
1920年代のアメリカ禁酒法時代にビールやワインの消費量が大幅に減少し、ウイスキーやブランデー、濃度の高い工業用アルコールなどの危険な不純物を混ぜたハードアルコールの消費量が急増したのはこのためである。
最近の危険ドラッグ(合成カンナビノイド)に対する規制問題もそうである。上述のように、薬物の薬理作用は、その化学物質が人の中枢神経にある特定のたんぱく質に結合して化学変化を起こすことで生じ、その人の行動や認知能力を変化させる。したがって薬物のこの結合能力の強弱を決める化学構造(すなわち三次元的な「形」)に着目して薬物を評価することは理にかなっている。これが今厚労省が採用している包括指定の基本的な考え方である。
ところが包括指定の範囲を拡張すればするほど、規制の網をすり抜けてより強力で危険な新種が出現し、流通するおそれがある。
なぜなら、地下の化学者たちが規制物質の化学構造を容易に操作して規制物質と構造的に類似していない、つまりその時点では合法な新しい物質を作り出し、法律を先取りするからである。化学構造のわずかな変化が薬理活性の大きな変化につながり、より強力で危険な薬物が生み出されることがあるからである。それが意図的にせよ、偶然にせよ。
他方、厄介なことに、異なった化学構造であっても同じ精神効果が生じる場合もある。
たとえばヘロインとナルトレキソンは、モルヒネから合成されるので類似した化学構造をもっている。
ところがメサドン(メタドン)は「ゼロから合成」できるため、ヘロインやナルトレキソンとは化学的類似性を共有していない。
しかしこれら三つの化学物質はすべて、同じ受容体のたんぱく質に結合し、同様の薬理作用をもっている(なお、メサドンも麻向法による規制薬物である)。
つまり本来ならば化学物質の薬理的作用に着目して、個別的な規制薬物の化学構造類似性ではなく物質の行動効果を基準に薬物を規制すべきだということになるが、そうすると明確であるべき刑罰規定があまりにも包括的で曖昧になり、罪刑法定主義に抵触しないのかという根本的な問題が生じるのである。
「若者の大麻汚染」がいわれているが、薬物問題を抑制するために、厳罰主義に基づく禁止政策が事態を悪化させる可能性があることを認識すべきである。より根本的には、禁止そのものが使用するリスクと興奮を高め、禁止された物質をさらに魅力的なものにしている可能性も否定できないのである。
薬物のない世界
現在、地球上には強固な薬物規制体制が築かれているが、その重要な目的は、違法薬物の使用と薬物依存症を撲滅することであり、同時に医療用や科学研究用としての薬物の利用可能性を確保することである。単一条約によって、娯楽目的の薬物使用をなくすという国際社会の決意が固められた。
単一条約という名称が付けられたのは、それまでに薬物取引を規制するために作られた多くの条約や協定を整理統合することが目的だったからである。
最初の薬物に関する国際協定は、1912年のハーグ・アヘン条約(万国阿片条約)である。これは、アヘンとコカの国際取引を規制するためのものだった。
この条約は、さらに1925年に採択された第1号条約と1931年に採択された第2号条約によって補完された。前者は大麻を国際規制対象物質に追加し、後者はアヘン、大麻、コカの医療用使用に関する生産、輸出入規則を定めている。
そしてその後、さまざまな個別の条約や協定をまとめるかたちで、1961年に単一条約が採択され、国際的に強固な薬物規制体制が築かれていった。
1990年には、国連総会は「薬物乱用に関する第1回特別総会」を、1998年には「世界の薬物問題に関する第2回特別総会」を開催した。
これらでは、薬物に対する刑罰的禁止をいっそう強化することが確認され、2008年までに「薬物のない世界」を実現することを各国が約束した。
しかし現在、この約束はまったく実現できず、目標がナイーブで、しかもむしろ「危険」であることが自覚されてきた。
危険というのは、刑罰的禁止で多くの国民が理不尽な薬物取締法に違反しているとされ、処罰されることで、薬物が使用者個人に加える害以上の害を国家が与えるからである。
大麻使用者は、刑事司法に乗せられることによって、一生涯消えない強烈な烙印(デジタル・タトゥー)をおされ、社会から疎外され、学習や雇用、住居などの面においても多くの不利益を被っている。
不寛容主義にもとづく厳罰主義は薬物の消費を犯罪化し、使用者は道徳的堕落者という汚名を着せられてブラック市場を渡り歩き、粗悪品を購入するという健康リスクを負ってきた。そして実際は、厳罰主義が反抗の連鎖を助長しながら、新たなより強力な薬物を生み、より多くの害を社会にもたらしているのである。
スローガンとしての「薬物のない世界」を支えたのは、不寛容主義にもとづく禁止と罰による抑圧のシステムであった。
しかし10年ももたずに世界は疲弊し、薬物を巡る世界の状況がこのスローガンに対する信頼を失墜させている。代わりに科学がイデオロギーに勝り、物質の健康リスクを慎重に評価するという動きが強くなっている。
進歩的な国は、よりオープンで幅広い議論を活性化し、公衆衛生、人権、ハームリダクション(薬物による害の緩やかな削減)に根ざした効果的な対応を模索しているのである。
日本の厳罰主義は大いに疑問である。日本も新たな薬物管理体制にシフトすべきではないだろうか。消費者の健康と安全を守り、効能、品質、アクセスを厳格に管理するサプライチェーンを国家が構築すべきではないだろうか。
薬物事犯にも比例原理を
犯罪と刑罰のことを考えるときのもっとも重要な原則に、比例原理がある。これは、第一に、刑罰は行為が他者や社会に与える損害の重大性と釣り合っていなければならず、第二に、刑罰は個人の権利を強く制限するものだから、より緩やかな方法があるなら、そちらを選択しなければならないという考えである。
比例原理は、処罰が不必要に残酷または非人道的にならないようにすることを目的としており、(もちろん日本を含めて)多くの国の憲法や刑法の中に浸透している。
「被害者のない犯罪」と言われている薬物犯罪でいえば、その対策は人類の健康と福祉を向上させるという薬物規制に関する国際条約が掲げる目標を追求し、この文脈でどのような対策が比例原理に合致するかを議論すべきである。
日本は伝統的に「酔うこと」に対しては概して寛容である。酒が不祥事に対する責任そのものを軽くすることも多い。しかし、精神作用物資に対する社会の態度はかなり厳しい。これを根拠づけているものが、規制薬物の「有害性」である。
「大麻が安全だ」という認識は間違っていると言われる。確かにその通りである。しかし安全性とは相対的な概念だから、大麻だけ取り出して議論しても意味がない。ペニシリンにしろ、インスリンにしろ、使い方では死に至るし、砂糖や塩にしても摂り過ぎは健康を損なう。タバコは喫煙者の人生を縮めているし、アルコールが原因で死亡する事故や重大なトラブルも多い。
上述のように、司法の場では昭和60年に最高裁が大麻の有害性を肯定して決着がついている。しかし最高裁は、大麻の有害性が「自明」あるいは(法廷での論証が不要な)「立法事実」だとして、実質的な根拠を提示できないでいる。
世界の潮流は、大麻の自己使用およびそのための所持の非犯罪化(合法化)、あるいは刑罰以外の法的制裁(交通違反の反則金のようなもの)で対応する非刑罰化であり、刑罰が論理必然的な対応だとは想定されていない。
これは、大麻規制と量刑慣行の比例チェックを行った結果である。さまざまな国際機関も大麻の有害性について見直した結果、厳しい処罰を回避することを推奨している。
しかし残念なことに、日本では相変わらず「懲罰による抑制」という不寛容主義が薬物対策の基本となっている。今回の改正の裏にも、悪いこと(過度の薬物による快楽の追求)を行った者には、この過ちを繰り返さないように厳しい罰を与えなければならないという考えが見え隠れする。薬物規制に比例原理を適用する以前に、まずこの不寛容主義を見直すことが必要だ。
要するに、健康に悪いことを承知のうえで個人が自己の身体に悪い物質を取り入れることは、確かに勧められたことではないが、そのどこに重い処罰に値するほどの犯罪性があるのかという疑問である。これはそもそも医療の問題ではないのだろうか。
むすび
大麻取締法は、1948年に戦後の日本を占領統治していたGHQ(総司令部)の強い意向によって、当時の大麻(マリファナ)に対するアメリカの世論を反映させるようなかたちで制定された。その後1961年に単一条約が国連総会で成立し、わが国も1964年にこれに加盟したことによって、国内での大麻取り締まりがさらに強化されていった。
大麻が問題になるのは、大麻を欲する人がいて、国家が望んでいないからだ。それは、〈大麻を許せばひとは依存症になり堕落する〉、そして〈依存症は社会秩序を乱し、国家を崩壊させる〉からである。だから大麻を刑罰で強力に規制しなければならない。
しかし、ここで私たちを当惑させるのは、禁止政策、禁止法の矛盾した性質である。
アルコールも依存性のある精神作用物質(薬物)であるが合法だ。しかしアルコールがいかに公序良俗に反する行動や他害行動などの原因になっているかを私たちは十分すぎるほど実感している。
同じく精神に作用する合法なタバコではあるが、タバコを習慣的に吸う人は確実に命を縮めている。
精神に作用する合法な物質とそうでない物質に薬理学的な違いがあるわけではなく、また合法な精神作用物質であっても、違法とされる物質以上に危険な場合があるのに、この規制の違いはどのように説明できるのか。大麻をせめてタバコ並みに扱うことで、どんな不都合があるのだろうか。
先日の国会審議では、「刑罰は治療のきっかけ」と述べた専門家(参考人)がいたが、実は(アルコールと同じように)大多数の大麻使用者には医療的意味において強制的な治療の必要性は認められないのではないか。
これに重罰を科すのは「数%の依存症患者」になるかもしれないからということ以外に理由を思いつかない。しかし、それは公衆衛生の問題ではないのだろうか。
地球上で何百年に渡って厳しい薬物規制が実施されてきたのに、使用される薬物も禁止される薬物のリストも増え続けてきたのはなぜなのだろうか。これが大麻を含んで、薬物問題の核心なのである。