選手たちのプレーを見守る国旗は、正式にはもう存在しない。試合前に流れる誇り高き国歌も、2年前に崩壊した共和国のものだ。
それでも、アフガニスタンの選手たちは、インドで開かれているクリケットのワールドカップ(訳注=2023年10月5日に開幕。11月19日に決勝戦)で予想もされなかった旋風を巻き起こした。
世界中で何億人もが見つめるこの大会で、前回の覇者だけでなく、優勝経験のある2カ国をいとも簡単に下し、多くの喝采を浴びた。何人かのスター選手は人気抜群で、スタジアム中から名前の連呼がわき起こった。
勝てば、選手たちはダッグアウトで歌って踊った。それは、送迎のバスでも続き、宿に帰っても終わらなかった。
アフガニスタンのクリケットチームは、スポーツの歴史の中でも類を見ないほどの速さで力をつけた。今回の成績で、それをさらに加速させている。
それは、相次ぐ暴力に沈んでしまったこの国の可能性をも示している。ただし、今回のチームが見せてくれた「継続する力」が少しでもあれば、という前提がつく。
このワールドカップに出場するために、チームは慎重に妥協を重ねてきた。アフガニスタンの政治指導者たちや、「やっかいもの国家」への転落を食い止めることができなかった多くの利害関係国が避けてきた、妥協だ。
そんな状況の異様さを、チームの成功がかき消す。
「母国では、みんなが勝利を祈りながら、この試合をくぎ付けになって見ている。クリケットは、アフガニスタンで唯一の喜びだから」。試合開始前の円陣で、Rashid Khan(25)はこういって仲間を奮い立たせた。スター中のスター選手の一人だ。そして、この試合に勝った。
Khanは、基本をきちんとすることの大切さを強調した。その上で、「最も大事なことは、笑みを絶やさないこと」と明快に語った。
負のスパイラルから抜け出せない母国では、ささやかな祝い事すら挑発的な行為と見られかねない。2021年にタリバンが政権を奪ってから、援助に頼っていたアフガン経済は瓦解(がかい)した。今では、10人のうち9人が貧困にあえぐ。これに、自然の脅威が追い打ちをかけた。地震がいくつかの村を丸ごと消し去り、何百人もが死んだ。
女性を家庭内に閉じ込めてその働く権利を否定し、女子への教育は6年生までしか認めないタリバン政権は、国際的には国家として認められていない。白が基調の国旗(訳注=現在の「アフガニスタン・イスラム首長国」の国旗)も、国際的なスポーツ大会で掲揚されることはない。
アフガニスタンのチームは、2021年に倒れた共和国(訳注=「アフガニスタン・イスラム共和国」)の旗のもとで戦う。
試合前に演奏される国歌も、同じように過去のものだ。タリバン支配下のアフガニスタンには国歌は存在しない。公の場で奏でられる音楽を、イスラムの教えに背くと見なしているからだ。
そのタリバンも、このクリケットチームの快進撃には声援を送る。政権当局者は、成果があがるようにチームを支援したと話す。首都カブールやほかの都市のファンたちは、勝利が決まるごとに街頭に繰り出して祝った。
選手のユニホームに輝き、スタジアムで声援を送るファンが手にするのは黒・赤・緑のアフガニスタン共和国国旗だが、支配者たちは国歌の演奏ともども無視して祝勝メッセージを発表した。
こうした状況のなかでも、選手たちは綱渡りを強いられている。Khanと、もう一人のスター選手Mohammed Nabiは、貧しい人々のために財団を設立。最近の地震の際は、現地に駆けつけた。
二人とも、女子教育の再建を求める声明を2022年に出している。その中でKhanは、「私たちは母国の姉妹や娘たちと連帯し、女子への高等教育及び女性への大学教育の禁止が見直されることを求める」と語っている。「教育において1日が無為に過ぎるごとに、国の未来から1日が失われていく」
アフガニスタンでクリケットが注目されるようになったのは、ここ数十年のことでしかない。きっかけは、ソ連のアフガン侵攻(訳注=1979年末~1989年)だった。初期の選手たちの中には、隣国パキスタンに逃れ、難民キャンプでこの競技を覚えた人たちがいた。国内に初めてその種がまかれたのは1990年代後半、最初のタリバン政権時代だった。
正式な競技として体制を整えるようになったのは2000年代の初め。そこからの代表チームの躍進は、まさにおとぎ話のようだった。わずか10年ほどで世界のランキングを駆け上がり、三つのワールドカップを含むいくつかの国際大会の出場権を得るようになった。
「私たちは、難民としてクリケットを覚えた」とRaees Ahmadzaiは振り返る。元選手で、今回のワールドカップに出場したチームではアシスタントコーチを務めている。「今の現役世代は、私たちが育てた。母国で鍛え上げたんだ」
毎試合が1日がかりの今大会を勝ち抜くことは、アフガニスタンチームにとっては遠い道のりだ。しかし、スター選手のKhanの歩みは、この国のクリケットがいかに長足の進歩を成し遂げたかを示している。
コーチのAhmadzaiが現役選手だった10年前、彼と同僚選手の月給は3ドルだった。試合で遠征すると、25ドルの日当が出た。
それが、Khanになると一変する。18歳の時、クリケットでは最高の報酬を得られるインドのプレミアリーグで2017年にデビューすると、60万ドルを手にした。2022年には、200万ドル近くで別チームに引き抜かれた。
今では、世界中から引く手あまたの選手だ。守備の際はボウラー(投手)として、攻撃の際は打者として、さまざまなリーグで活躍し、アジアだけでなく豪州やカリブ海、米国を渡り歩く。SNSでは1300万人のフォロワーがいる。競技中は、観衆をチラッと見やるだけで、声援や歓声が返ってくる。
インドでは、アフガニスタンチームの送迎バスが街を走ると、オートバイが競い合うように彼の座席の窓際に近づこうとする。手を振るのはまだしも、危険をかえりみず自撮りまで試みる。
練習中、夕方の祈りのために競技を中断すると、チームは競技場の一角でプラスチックのマットを広げ、Khanのうしろに選手たちが並ぶ。試合に勝つと、まずKhanが祝いの踊りを始める。手に大型のラジカセを持ち、仲間をリードする。
そのセレブぶりは、先駆者像として若い世代の選手たちを刺激し、何人かはすでに一緒にプレーするまでに成長した。
今回のワールドカップでは、チームはインド中を転戦しており、少ないながらもこれを追う同郷サポーターの一団も現れた。スタンドで旧国旗を振り、母国では禁じられているDJの音楽にあわせて踊る。
ただし、タリバンの政権奪取以来、インドはアフガニスタン人の入国を原則として禁じており、例外は極めてまれだ。スタンドに陣取るのはそれ以前から長期滞留中の難民や、留学で来たものの、帰国できなくなった人たちだ。
アフガニスタンは最初、前回優勝のイングランドに勝った。続いてパキスタンとスリランカを連破した。そのたびに、ウィニングランで競技場内を回り、アフガニスタン人ファンや何千人もの地元ファンに感謝をささげた。
パキスタンを2週間前に破ったときは、祝賀の大声援がひときわ大きく長く続いた。それには、政治的な意味合いも混じっていた。この数週間、何万人ものアフガニスタン難民がパキスタンから強制退去させられたのだ。アフガニスタンの不安定化を助長しているのは、まさにそのパキスタンの軍部だとみなされてきた。
このゲームを見るために、アフガニスタン人ファンの一人、Akhtar Mohammed Aziziは、10時間もバスに揺られてやってきた。
「ほかのことはすべて忘れるほどの最高の瞬間だった。前向きで幸せなことだけしか考えられなかった」とAzizi。経営学の学位は取ったものの、帰国できなくなり、インドに足止めされていた。「睡眠不足も空腹も忘れ、勝利に酔いしれて踊った。選手たちと自撮りもした」
祝勝のお祭り騒ぎの合間に、AhmadzaiとKhanは母国のファンに向けてパシュトー語(訳注=アフガニスタンの公用語)の詩を朗唱しながらビデオを撮った。もう何年も、チームスローガンになっている詩だ。それから、ロッカールームで再び踊り始め、送迎バスでも続けた。それは、宿泊先のホテルで深夜まで続いた。
「袖をたくし上げ、踊りに加わろう 貧者のもとに、幸せはたまにしか訪れないのだから」
(訳注=アフガニスタンの人名は原文表記。この大会で、アフガニスタンは参加全10チームによる総当たり戦で4勝5敗となり、上位4チームによる準決勝には進めなかった)
(Mujib Mashal)©2023 The New York Times
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