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5大会取材した記者が考えた「オリンピックと政治とは」

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筆者が歴代の五輪取材で携帯していたベスト。当時の大会のものや、他国の取材陣や五輪委関係者らと交換した記念のピンが多数付けられている photo : Toyama Toshiki

「五輪と国家」の関係っていったい、何だろう。普段のスポーツ観戦では記録や能力重視なのに、なぜ、人は五輪になると自国選手を優先して応援するのか。
もうすぐ韓国・平昌の冬季五輪が始まる。2年後には東京五輪が控える。その前に、じっくり考えてみたい。自戒も込めて。

日本のメディアはなぜ敗者を追いかける?

私が「五輪と国家」を考え始めるきっかけとなったのは、1996年夏のアトランタ大会(米国)だった。当時は社会部の駆け出し記者で、2年後に迫った長野の冬季大会に備えた五輪取材チームの一員として現地入りした。それまで警視庁1方面のいわゆる「所轄回り」だったのが、いきなりスポーツ取材の最前線に立たされたわけだ。

技術的な解説記事などは、スポーツ部の記者たちが担当した。私は社会部の先輩2人と、日本人選手の家族などの周辺取材のほか、主に外国人選手の話題集めに走り回った。インターネットはまだほとんど普及しておらず、外国人選手に関するデータは、国ごとのオリンピック委員会や競技団体の取材のほか、各国の記者同士による情報交換を中心に集めた。

開会式の数日前、スポーツ用品の大手企業がスポンサー契約を結ぶ有力選手を集め、アトランタ市内でイベントを開いた。顔見知りのドイツ人記者が「あそこにいる選手には物語(ストーリー)がある。一緒に話を聞こう」と指した先に、「SUISSE」のユニホームを着 た体操選手がいた。それが、当時29歳の李東華(リ・ドンファ)だった。

リ・ドンファ photo : Reuters

中国であん馬の第一人者だった彼は、その8年前に北京を旅行していたドイツ系スイス人の女性と恋に落ち、スイスまで追いかけて半年後に結婚した。スイス国籍が認められるまでの5年間は中国の体操界からも締め出され、洗車や車の修理で日銭を稼いだという。

21歳から26歳までの、体操選手として一番輝く時期を無駄にしてしまった。代償は大きかったが、「それでも愛は、挫折や失望に勝る。僕はもうリ・ドンファではない。ドンファ・リと呼んで欲しい」と、流暢(りゅうちょう)なドイツ語で明るく語ったのが印象的だった。

取材が終わりかけたとき、ドイツ人記者が「ところで、君はスイス国歌を歌えるのか」と尋ねた。隣にいた通訳が一瞬、息をのんだのがわかった。「歌えないかもしれない」と思ったのだろうか。「もちろん、歌えるよ」と答えたリは、少し悲しそうに見えた。

試合当日、リはあん馬でみごとに優勝した。スイスがこの種目で金メダルを獲得するのは、実に68年ぶりだった。スイス国旗が掲揚され、リは表彰台のてっぺんで涙を流しつつ、堂々とスイス国歌を歌ってみせた。観客席のスイス応援団が赤地に白十字のスイス国旗を振って熱狂する光景を、今でも鮮明に思い出す。

「国歌」の質問は、西欧の国へ国籍を変えた東洋人への偏見が根っこにあったのかもしれない。そして、リが「確かに歌える」と証明できたのは、五輪という大舞台で勝てたからに他ならない。あれが、「五輪と国家」を考える原点になったように思う。

初めての17日間の五輪取材で最も強烈だったのは、走り幅跳びで4連覇した35歳のカール・ルイスでも、ナイジェリアが男子サッカーで初優勝したことでもなかった。勝敗に関係なく日本人選手を追いかけ、一挙手一投足を報じる日本メディアの姿だった。

競技を終えた選手が取材に応じるミックスゾーンと呼ばれる場所では、日本人の有力選手が通るたびに日本の報道陣が殺到し、他国の記者たちが押し出されて怒号が飛び交う事態になった。

イタリア紙のスポーツ記者からは「日本のメディアはなぜ、負けた選手すらも一斉に追いかけるのか」と問われた。「イタリアのメディアだって、イタリア選手を追い回している」と反論すると、「でも負けたら、短いコメントを取るのは外国の通信社に任せる。勝った外国人選手を取材する方が、ずっと面白い記事が書けるよ」と諭された。

確かに、一生懸命取材した外国人選手の原稿が、スペースの都合でボツになったことは何度もあった。東京からファクスで送られてきた五輪紙面は、日本人選手の話で埋まっていた。「読者が求めているからだ」と説明されても、「それをあおっているのは我々メディアではないのか」と言いたいこともあった。

閉幕記事で、朝日新聞は日本のメダル数を「計14個と、前回バルセロナ大会より8個少なかった」と、やや残念そうに報じた。でも、青臭いと言われるかもしれないが、私は「国別メダル数ランキング」より、近代五輪の創始者クーベルタンが演説で用いた「参加することに意義がある」の言葉の方に重みを感じた。そもそも、五輪憲章は「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めている。

日本の読者や視聴者は、本当に五輪で日本人選手にしか興味がないのだろうか。読者から本社へ寄せられた意見の中には「(日本人の)××選手の記事が興味深かった」などの声のほか、「五輪期間中は、テレビも新聞も日本人選手の話ばかり。もっと海外の選手について知りたい」という要望もある。

アトランタ大会の閉会式で流れたのは、皮肉にも「イマジン」だった。故ジョン・レノンが「国家がないと想像してごらん。殺したり死んだりする理由はない」と歌う名曲だ。大きな祭りが終わった高揚感はあったものの、何かモヤモヤした思いが残った。

アテネで実感「五輪と政治は切り離せない」

五輪取材を重ねるなかで、「五輪と政治は切り離せない現実なのだ」と実感した瞬間があった。ローマ特派員として取材チームに加わった、2004年のアテネ大会だ。

米同時多発テロ事件後に初めて開かれる夏季五輪となったアテネ大会は、「史上最大の厳戒五輪」と呼ばれた。会場周辺にミサイルが配置される一方で、初めて200を超える国・地域が参加した。

私はアテネ入りする1カ月前まで、バグダッドでイラク戦争を取材していた。034月のフセイン政権崩壊後、イスラム過激派による駐留米軍への攻撃が激化し、日本人を含む人質事件や自爆テロも頻発した。

当時、朝日新聞バグダッド支局が入っていたパレスチナホテルも、反米・反西側メディアを掲げる過激派勢力からロケット弾などによる攻撃をひんぱんに受けた。直撃された場合の被害を最小限に抑えようとベランダに土囊(どのう)を積み、ガラスでけがをしないように窓へマットレスを立てかけた。そうやって夜をやり過ごしても、砲弾による爆音と振動の中で明け方を迎えたことがたびたびあった。

そんなイラクからアテネへ移ると、厳戒態勢下とはいえ「戦争から平和へ」を地で行く思いがした。仕事柄、気持ちの切り替えは早い方だという自信が崩れたのは、75千人の観衆がスタジアムを埋めた開会式の冒頭だった。派手に打ち上げられた花火の音がイラクで毎日のように聞いていた爆音と重なり、動悸(どうき)がして座り込んでしまった。「大丈夫、ここはアテネだ。バグダッドじゃない」と自分に言い聞かせた。

アテネ大会にはイラクも参加していたので、出発前の選手たちにバグダッドで取材した。「銃撃戦に巻き込まれるのが一番怖い。弾丸より速くは走れないから」と話した女子の陸上選手には、返す言葉もなかった。元国軍兵士でフセイン政権時代に逃亡を余儀なくされた柔道選手は、全日本柔道連盟などの協力で、大会前の1カ月を日本で合宿した。「柔道だけに打ち込めるなんて、夢のようだった」と話してくれた。

そうして臨んだアテネ取材で、忘れられない「事件」が起きた。

男子サッカーの3位決定戦が行われる日、ギリシャ北部テッサロニキの会場のプレスセンターをのぞくと、知り合いのイタリア人記者たちが深刻な表情で話し込んでいた。何事かと聞くと、「イタリア人記者がイラクで武装勢力に殺された。選手たちが動揺しており、試合できる状況ではない」という。

この日の試合は、イタリア対イラクだった。米国にとって、欧州同盟国のなかでイタリアは英国と並ぶ「有志連合」の柱だ。イラクの武装勢力はイタリア部隊の撤退を繰り返し求め、イタリア政府は拒否していた。3位決定戦は、悲劇の犠牲者の母国と、悲劇が起きた国の戦いに変わった。

イラク選手団長は、報道陣に「殺したのはイラク人ではない」と言い切った。イタリア人記者からは「どうしてイラク人が殺していないと、あなたにわかるのか」との声も出た。

一番驚いたのは、当時の国際サッカー連盟(FIFA)会長、ゼップ・ブラッターの言葉だった。試合30分前に突然、「会長が緊急会見を開く」との知らせがイタリア報道陣に流れ、私もあわてて駆けつけた。ブラッターは沈痛な表情で「非常に悲しいことが起きた」と述べつつ、何度も同じフレーズを口にした。

“Still, life and the Olympics and football must go on”(それでも、人生と五輪とサッカーを続けなければいけない)

life」とは、「生きること」そのものだ。それを「五輪」や「サッカー」と同列に並べたことに、私はショックを受けた。命の大切さは、何かと比べられるものではない。

実際、試合は予定通りに行われた。ただ、雰囲気は異様だった。イタリア選手は右腕に喪章を付けており、試合前にピッチでイラク選手からイタリア選手に黒いリボンを付けた花束が渡された。通常はチームごとに行う記念撮影で、両国選手が一緒に肩を組んだ。イタリアのサッカー関係者は「FIFAが全部、お膳立てした」と話し、「こんなのは偽善だ」と吐き捨てたイタリア人記者もいた。

試合前、イラク選手(右)から花束を渡されたイタリアのピルロ選手 photo: Takeya Toshiyuki

考えてみれば、五輪は常に政治と共にあった。1936年ベルリン大会は、ナチスの宣伝に徹底的に利用されたし、72年ミュンヘン大会ではテロでイスラエル人選手らの命が失われた。冷戦下ではモスクワ、ロサンゼルスの両大会がボイコット合戦となった。五輪の夢だけを胸に練習に耐えたあげく、不参加で悔し涙を流した選手たちの話は、世界中で何度も聞いてきた。

試合中、バグダッドにいる同僚記者に連絡し、現地の様子を聞いた。電気が完全に回復せずエアコンを切ったカフェで、満員の客が衛星放送のテレビへ「行け、イラク!」と叫んでいるという。

試合は10でイタリアが勝った。イタリアの監督は、やつれきった様子で「イラクで亡くなったイタリア人記者のご遺族の気持ちを思うと、勝利を喜ぶ気分にはならない」と話した。

両チームとも、一切、笑顔はなかった。

メープルリーフで示したカナダのアイデンティティー

「五輪と国家」の関係はいま、節目を迎えている。スポーツ界でもグローバル化が進み、自由に国境を超えて国籍を変えるトップレベルの選手が増えているためだ。「スポーツ移民」とも呼ばれる。

国際オリンピック委員会(IOC)は、一度どこかの国の代表だった選手が国籍を変更した場合、3年たてば新しい国の代表となれると五輪憲章で定める。ただし、この3年規定は、各国五輪委や各競技団体との合意などで変更も可能だ。

2016年リオデジャネイロ大会の卓球選手172人のうち、少なくとも44人は中国生まれだった。12年ロンドン大会では、英国代表の1割以上が国籍変更や二重国籍などの選手で、保守系メディアを中心に「プラスチック・ブリッツ(みせかけの英国人)」という造語も生まれた。

国際陸連は昨年、選手の国籍変更を凍結することを決めた。特にケニアやエチオピアなどアフリカの陸上選手が、高い報酬と引き換えに自国を離れ、中東諸国へ国籍変更する現状を問題視したものだ。だが、選手が国籍を変えるのは経済的な動機だけではない。「五輪に出たいが、出身国はレベルが高く競争相手が多くて無理だから」という理由で国境を超えるケースもある。

たとえば、女子陸上短距離界のスターだったマーリーン・オッティ。モスクワ大会からシドニー大会まで6回の五輪で出身国ジャマイカを代表し、その後スロベニアへ国籍変更してアテネ大会に出場した。変更前にはすでに経済的な余裕があり、家族は米西海岸に住んでいる。
もし、この先も選手の国籍変更が続けば「国別対抗」の意味が薄れ、五輪は求心力を失うのだろうか。あるいは国籍要因がなくなることで、私の「モヤモヤ感」も消えるだろうか。

多文化主義を掲げる移民国家に答えのヒントがあるかもしれないと思い、カナダへ飛んだ。1976年モントリオール、88年カルガリー、2010年バンクーバーと、夏冬あわせて三つの五輪を開催した「五輪大好き国」。さらに、札幌も名乗りを上げている26年冬季大会に、カルガリーが立候補を検討している。

最大都市の東部トロントから雪景色を眺めつつ、列車で約2時間半。ウェスタン・オンタリオ大学には、1989年に世界初の本格的な五輪研究機関としてオープンした「オリンピック研究国際センター」がある。創設者で同大名誉教授のロバート・バーニー(86)を訪ねると、1枚の古い白黒写真を見せてくれた。

CANADA」と書かれたプラカードの前に並んだ、37人の男性。そろいの白シャツの胸には、大きなメープルリーフ(カエデの葉)のデザインがあしらわれている。時は1908年、ロンドン五輪に参加したカナダ代表団だ。 

1908年のロンドン大会に参加したカナダ代表団。メープルリーフを胸にあしらったユニホームを初めて着用した Courtesy by Robert K. Barney
 

当時、カナダはまだ英国の自治領だった。開会式の入場行進で掲げた国旗は英国のユニオンジャック付きだったが、「カナダ人としてのアイデンティティーを示そうと、選手団は胸にカナダのシンボルを付けた。これがカエデの国際デビューとなった」という。英帝国会議でカナダが完全な主権国家の地位を獲得したのは、五輪から18年後の1926年。赤いカエデの葉が正式に国旗に決まったのは、さらに後の65年だ。

バーニーは、カナダの愛国心と国造りに最も大きく影響した「スポーツの事件」として、三つを挙げた。最初はもちろん、110年前のロンドン五輪。二つめは72年、宿敵ソ連(当時)との対抗戦のアイスホッケー最終戦で、競り勝った瞬間に「カナダ中が止まった」そうだ。最後は8年前のバンクーバー五輪で、米国、ドイツに次ぐ計26個のメダルを獲得し、国民に「冬季五輪ならカナダ」の自信をもたらしたという。

移民国家の多様な国民をも団結させる「五輪マジック」、恐るべしである。

五輪のこれから 難民選手団で国家の枠超えた取り組みも

アマチュアリズムからプロ化と商業主義に門戸を広げ、政治と関わりながら成長した五輪。その魔法がとけ、屋台骨になってきた「国家」が消える日は来るのだろうか。

観衆が自国選手を応援するのは、程度の差こそあれ愛国心からだ。穏健な愛国心はスポーツ観戦を楽しくするかもしれないが、排他的になれば差別につながる。五輪取材では、日本に限らず各国メディアが自国選手ばかりを報じ、国別メダル数を比較することで過剰にあおっていると感じることもあった。報じる側も自覚すべきだと思う。

カナダ五輪委員会事務局長のクリストファー・オーバーホルトは、見る側の変化を指摘した。「いまの観衆が求めているのは、自国選手の活躍だけではない。国籍に関係なく、弱者が強者に勝つ驚きや感動も求めている。ウサイン・ボルトが人気者なのは彼がジャマイカ人だからではないし、もし彼が無名選手に負けても、五輪ファンは熱心に見る」。そして、20代の息子2人の行動から、「ネット世代の若者が得たいのは、簡潔でフレッシュ、かつスマートな情報だ。冗長で愛国心をあおるだけの報道では、共感は得られない」とも語った。

IOCも「国家」の枠を超えた取り組みを始めた。2年前のリオデジャネイロ大会で初めて「難民選手団」を結成し、難民となって母国・地域から参加できない選手へ道を開いた。シリアや南スーダンなど4カ国出身の10人が五輪旗を掲げて入場行進した。東京大会でも継続する方針だ。

五輪と国家の理想的な関係とは何か。悲観的に言えば、国家が存在し続ける限り、世界のどこかで争いは続くだろう。時勢に機敏に反応しつつ、影響力を高めさえする五輪に、底知れない力を感じる。

結局、20年以上抱えてきたモヤモヤは消えなかった。ただ、五輪と国家の望ましい距離感を考えるうえで、「平和」が答えの中心にあると私は信じている。五輪が国家間の争いに利用されるようなことが決してないよう肝に銘じつつ、選手ひとりひとりの物語を追うことで、いつか答えにたどり着ければと思う。夢想家と言われるかもしれないけれど。