この店の本当の名前ではない。でも、実態からすると、「さあ、『爆弾穴の店』でストップ&ゴー!」ということになるだろうか。
周りには、なんにもない。アフガニスタンのへき地を貫く幹線道路1号線の脇に、ポツンと1軒。通りがかりの車の運転手や乗客に、燃料やスナック類などを売っている。
すぐ脇の1号線は舗装がはがれ、下の砂地がむき出しになっている。ここ20年ほどの戦争で開いた爆弾の穴だが、いつのことかは定かではない。
店を営むのはハフィズ・カディム(32)。給油もすれば、スナック類も手渡す。いささかリスクの高いこの商店に、正式な名前は付けていない。
ここは、アフガニスタン南部のカンダハル州とザブール州の境。あたりには、砂丘が続き、岩が群立し、ときにはブドウ畑もまじる。遠景の山々は、まるで恐竜の背中のようにギザギザな稜線(りょうせん)を空に刻んでいる。
そんな中で、この店は基本物資を蓄えた孤高な灯台のように見える。なにしろ、何マイル(1マイル=約1.6キロ)にもわたって、他に店はない。
「開店したのは、カブールが陥落してから」とカディムは店を指さしながら説明する。鋼鉄製の引き戸は、まだ新しい。泥れんがは、いまだに日にあてて干しているかのようだ。
首都カブールをタリバンが制圧し、この国の支配を確立したのは2021年8月だった。
店を切り盛りするのは、カディムただ一人だ。しかし、爆弾が掘ったこの穴は、ものいわぬ事実上のパートナーでもある。
ともかく大きい。乗用車やトラック、バスは速度を落とさねばならない。すると、窓ガラスが汚れていても、運転手と乗客には店の商品が目にとまる、というしかけだ。
そのまま通りすぎる車もある。でも、多くはここで休憩していく。
燃料を入れる。色とりどりの栄養ドリンクで疲れをとる。シャンプーのボトルや靴ひものいらない黒いローファーを買い求める。ビスケットの詰め合わせや缶詰、チップス、炭酸飲料も売れていく。
カディムの店と商売にうってつけのこの特大の穴は、不思議な組み合わせではある。しかし、それは二つの事実を映し出している。この国にあった長い戦争と、それが終わったということだ。
今は、とにかく平和だ。タリバンと敵対する地元の「イスラム国」や始まったばかりの抵抗運動もあり、見せかけだけなのかもしれない。
でも、かつては危険がいっぱいだった1号線に、カディムのような店ができ、畑が接するばかりに広がってきた。それが許される平穏さが生まれた。
それにしても、こうして新たな暮らしの糧を得る機会がめぐってくるまでに、どれほどの代償が必要だったのだろうか。
その答えを、カディムは今も肌で感じている。自身が、あるいは他の多くの人々が、払った代価はあまりに重い。
毎朝早く、この店に来るとき。毎晩、道路を横切って家に帰るとき。「あの日」を思い出させる現場を見て通る。
半マイルほど南の丘の上に、今は無人となったかつての警察部隊の前哨基地がある(午後になると、略奪されたこの要塞〈ようさい〉跡に日が差し込む)。そこで起きた銃撃戦に巻き込まれ、家族3人を失った。
カディムがまだ10代だった13年前。西側に支援された政府の治安部隊とタリバンは、1号線の支配をめぐって激しく争っていた。そんな銃撃戦の一つが、この前哨基地の近くで始まり、父母と姉妹の1人を失った。
「このあたりの1号線沿いに暮らしていた200人ほどが、戦争で尊い命を落とした」とカディムは苦々しく語る。
家族3人を失ってすぐ、住み慣れた家を出た。この長い戦争で農村地域を追われ、少しでも安全な都会に逃れた国内避難民は、何百万人にも上る。カディムも、その一人になった。なにしろ住んでいたザブール州は、国内の最激戦地の一つに数えられたことがあるほどだった。
主に東部のカブールで生計を立てた。南部のカンダハルや西部のヘラートにも行った。戦火が国内各地で激しくなったり、下火になったりする中で、こうした都市は「安全な砦(とりで)」と見なされていた。
結局は、トラックの運転手になった。7年間、家畜や果物、木材を運んだ。数え切れないほど何回も、今は脇で店を開いている1号線を走った。カンダハルとカブールの二大都市を結ぶその300マイルは、一時は全国で最も危険な道路とされていた。
1号線は、今は銃撃戦に巻き込まれるよりも、交通事故にあう危険の方が大きくなった。沿線に普通の日常が戻るにつれ、カディム以外の人たちも新たな仕事を始めている。
「爆弾穴の店」から北へ数マイル。ヌル・アフマド(18)らブドウ農家の人たちが、1号線に接するところまで作物を植え付けていた。少し前までは、どんな農業にも危険すぎる場所だった。
交通量の多い道路の間際にまで植えるのは、理想的とはいえないだろう。でも、この国では耕作に適した土地があまりに少ない。
しかも、この数十年で最悪とされる干ばつに見舞われ、耕地の多くはカラカラに乾き、井戸も干上がっている。それだけに、植え付け可能な土地があれば、これっぽっちも無駄にはできない。
「失業中だったんで、ここに来た」。スコップで土を掘る手を休めることなく、アフマドはこう話した。
ここからさらに1号線を車で半日ほど行くと、中部ワルダク州に着く。雪を抱く山頂とジャガイモ畑に囲まれて、ワフダト(12)と弟たちがこの道路の脇にある前哨基地の廃虚を物色していた。一家5人は、農作物の不作にあえいでいた(国連の世界食糧計画によると、この国の人口の半分以上が食糧不足に陥っている)。
「腹ペコなんだ」とワフダトはいった。
手は汚れ、握っているスコップの柄は、自分の背丈を超えそうだった。この日のお目当ては、わずかに残った基地のバリケードの金網。はがして、ニワトリ小屋を作るつもりだ。家では、8羽を飼っている。
この基地がいつできたのか、誰が使って、いつ放棄されたのか、ワフダトには分からない。でも、近づいてはいけない、といわれたことがあるのは覚えている。それが、今はこうして可能になった。
戦争と破壊の爪痕は、1号線沿いのあちこちに数え切れないほどある。砲撃で傾いたビル。壊れた橋。ひねりつぶされたような車の残骸。それに、無人の前哨基地の跡地。基地をめぐる銃撃戦は何時間にも及び、報復の空爆もあった。
しかし、なんといっても、図抜けて多い名残は爆弾による穴だ。
深いのもあれば、浅いのも。そのまま走りすぎることができるのもあれば、対向車線にはみ出さねばならないことも。中には、穴を避けて脇の溝に入って通るしかない難所もある。車軸が折れ、パンクもする。
ときには、ちゃっかり小僧たちの収入源にもなる。穴を土で埋める。そんな「よい子」に、ドライバーは小銭を渡してねぎらう。翌日には、子供たちは穴から土をかき出し、また同じ小銭稼ぎの作業を始める。
「爆弾穴の店」は、目の前の穴が頼りだ。世界の他の店なら、便利な駐車場や空気注入式の目印看板が必要になるところだ。
1号線のどちらの方向にも、土地は十分にある。だから、「店を出そうと思えば、どこにでも出せる」とカディムは周囲を見やる。「でも、この一画がやっぱりいいんだよね」と穴を指さした。
大音量で音楽を流して(タリバンは音楽を厳重に取り締まっている)、バイクが止まった。つい先日のガソリン数リットル分のつけを運転手は払いにきた。
爆弾がこの穴をいつ掘ったのか、カディムは思い出せない。いや、一度だけではなく、何度もあったのかもしれない。ここには、排水溝が通っている。その脇で、爆発は何回か起きた。
排水溝と路肩にしかける待ち伏せ爆弾は、戦争中はよくある組み合わせだった。浅い溝や排水パイプは、タリバンが爆発物を隠すのに適していた。近くに政府側の前哨基地があることが、ここにしかける意味をさらに強めた。
しかし、今は違う。排水溝は排水溝で、爆弾の穴は道にできた穴にすぎない。国民の大多数が経済的に困窮しているのに対して、カディムは生涯で稼いだお金を超える額を手にするようになった。毎月の実入りは、ざっと100ドルにもなる。
戦いの一里塚でもあるこの穴のおかげで、「爆弾穴の店」はなんにもないへき地のど真ん中にニッチな市場を開拓した。多少のガソリンと日持ちする食品、それにせっけんなんかも??それが、戦争前の交通に少しずつ戻ってきた1号線を通る利用者の需要に応えている。
「将来のことは、分からない」とカディム。「でも、今は幸せさ」(抄訳)
(Thomas Gibbons-Neff and Yaqoob Akbary)©2022 The New York Times
ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから