米ニューヨーク市で部屋を借りている人なら、思い当たる節も多いのではないだろうか。
――この日、賃貸物件の内覧は、もうこれで4軒目。不動産屋がドアを開け、キッチンに案内してくれる。一見、間取りはどうってことはない。でも、目をこらして角を見やると……「えっ、バスタブじゃない?」とのけぞってしまう。
ニューヨークっ子はさまざまなことに耐えねばならないが、これはその一例でもある。一風変わったキッチンに足を踏み入れることは、そんな住まいで人生のほとんどを過ごしてきた大ベテランと、思いがけずに入居してきた新人とを結びつける共通体験にもなっている。
壁にシャワーが取り付けられた狭苦しいキッチンのような突拍子もないものもあれば、いかめしい20世紀の旧式オーブンなどが備え付けられていて、時代錯誤な感じが漂うキッチンもある。
市内にあるこうした奇妙なキッチンの多くは、歴史の一断面を写している。「1901年のニューヨーク市共同住宅法の改正(New York Tenement House Act of 1901)」(訳注=スラムの解消を目指した法改正)で市の衛生基準が厳格になり、これを満たすために流し台とバスタブを各戸ごとに設置することが求められた。
マンハッタン南部のローワー・イーストサイドとイーストビレッジ(訳注=いずれも米国にたどり着いたばかりの移民が多かった)にある安アパートでは、バスタブはキッチンにしか置けないことがよくあった。間取りの中で、最も大きな空間であることが多かったからだ。
きゅうくつなキッチンには、通常の大きさの電化製品を一つも置けないところもある。そんな「欠陥キッチン」にもかかわらず、ニューヨークっ子はなんとかやりくりする方法を見つけ、むしろ愛着すら感じている。
小さな電化製品、大きな調理能力
フィービー・リフトン(32)とパートナーのアーサー・カニェドにとって、マンハッタンのアッパー・ウェストサイドにある共同住宅はすべての条件を満たしていた。食料・雑貨品店や公園、レストランへの近さ。並木の花が咲いた通りの絵のような美しさ。
ただし、二人が2020年に越してくると、キッチンの構造だけはいささかショックだった。
見慣れない目には、あまりに小さく映った。まるで「圧縮光線」を浴びせられたようだった。ミニチュアサイズの冷蔵庫。ガスレンジ(そもそもそう呼べるとすれば)は、調理台に小さなガスバーナーが二つあるだけ。オーブンはなかった。それでも、なんとか使えるようにしようと二人は決意した。
まず、オーブントースターを購入。さらに、なんとかしてクローゼットに小型冷蔵庫をもう1台置いた。マルチ電気圧力鍋も調達。壁にはコルクのボードを備え付け、マグカップや調理器具をぶら下げてスペースを節約した。こちらは、ジュリア・チャイルド(訳注=テレビの料理番組草創期から活躍した料理人。2004年に死去)が、手際よく調理するために器具を有孔ボードにぶら下げていたことをまねた。
数インチ(1インチ=2.54センチ)しか空間をやりくりできないキッチンだが、二人はうらやましいほどの料理をいくつもこしらえてきた。
よくつくるのは、各種の鍋料理。シャクシュカ(訳注=北アフリカ発祥の、中東一帯で食べられる料理。トマトソースの中に卵を落とす)やニンジンとサフランのリゾットなどだ。一方で、ローストチキンや、大量の自家製コンブチャ(訳注=紅茶キノコ)をつくることはあきらめた。
このキッチンのせいで、ホームクッキングの生産性が落ちたと感じたことはなかった。例外は、コロナ禍の始まりのときだっただろうか。「自宅でパンを焼くのがはやったのだけど」といって、リフトンはクスクスと笑った。「この狭さでは、どうにも参加できなかった」
パーティーにピッタリのバスタブ
エリーゼ・シャッツ(29)は、狙いをはっきり定めて2021年に部屋を探した。手持ちの予算の範囲で可能な限り広く、採光のいい住まいだ。
それで行き当たったのが、イーストビレッジにあるスタジオ(訳注=ワンルームまたは1Kの住宅)だった。北側と南側に向いた窓から日差しがたっぷり差し込む――そしてキッチンには、大きなバスタブが付いていた。「一歩足を踏み入れて、『うん、ここだ』と直感した」と振り返る。
この共同住宅では、ほとんどの部屋のキッチンにバスタブがあった。大都市にある安い共同住宅が(訳注=先の法改正の名称にある)「テネメント(tenement)」と呼ばれていた時代のなごりだ。「ニューヨークの不動産事情をよく知らない人に話すと、目をパチクリさせて笑い出す」とシャッツも笑う。
バスタブを本来の目的で使うことはまれだ。むしろ、意外な保管場所として使いたいと思っている。「パーティーをするようなときがあれば、氷をいっぱい入れて飲み物を冷やすようにしたい」
本棚代わりの冷蔵庫
エディス・ヒューズ(33)が2021年にマンハッタン南部にある今の部屋に越してくると、夜に変な音がして眠れなかった。犯人は、備え付けの背の低い脚付き冷蔵庫だった。レストランのキッチンによくあるが、一般の家庭ではあまり見かけないものだ。
頑丈そうだったが、「この狭い空間では音が大きすぎた」とヒューズ。プラグを抜くことにし、食料品の保存をやめた。本を入れることにし、代わりに小型の冷蔵庫を買い求めた。
おかげでキッチンの流しの隣にあるバスタブにひたりながら、冷蔵庫から取り出した本を読んでくつろげるようになった。古いカレンダーや書類ばさみも冷蔵庫にしまうので、装飾用の安い小間物のコレクションを棚に置くスペースを確保できた。壁をすべて埋め尽くして利用するのが、ヒューズのスタイルでもある。
キッチンと浴室と撮影スタジオが一体化
キッチンにシャワーがある。でも、マンハッタン南部のグリニッジ・ビレッジの共同住宅に住むニコール・ナロイ(23)にとっては、どうということもない。それどころか、浴室にあたる部分とキッチンに流しが一つしかないので、これまでにはなかった習慣が身についた。シャワーを浴びながら、カウンターで湯気を立てているカモミールティーにいとも簡単に手を伸ばすことができる。たくさんの汚れた食器越しにメイクをすることもある。
「変な方法かもしれないけれど、ある種のぜいたくでもある」とナロイは話す。
この部屋に入ったのは2023年の8月。フリーのカメラマンをしており、さまざまな目的で使えるスペースを知らず知らずのうちにスタジオ化させていた。汚れのないキッチンの真っ白な壁は、赤いやかんや鍋とコントラストを織りなし、変則的だが、印象深い背景となった。入居して数日後には、友人たちやモデル、いくつかのバンドの写真を撮り始めていた。みんな、当然のようにキッチンにあるシャワーのところでポーズを決めようとした。
「インスタグラムでは、見ず知らずの女の子たちによくこうせがまれる」とナロイ。「『お宅のバスタブで撮ってもらえる?』って」
時が止まったままのオーブン
市内ブルックリンのプロスペクト・ハイツにある共同住宅の部屋をスコット・ボーデナー(53)が1997年に買うと、かなりの数の骨とう品のような電化製品を受け継ぐことになった。キッチンには、建築当初からのエナメルめっきの金属製の飾り戸棚が置かれていた。超年代ものの「コールドスポット(Coldspot)」ブランドの冷蔵庫もあった。1970年代以降は製造されていないものだ。
「家中が、時が止まった世界のようで、それが現代にタイムスリップしてきたみたいだった」とボーデナーは振り返る。
借家というわけではないのに、何十年もそのままにしておいた。コロナ禍のときにキッチンをリフォームしても、最も古い1台の電化製品だけは残した。1929年製の米調理器具メーカー「ウェルビルト(Welbilt)」のオーブンだ。
点火用の補助バーナーがないので、マッチか充電式のUSBライターで火を付ける。それはまだしも、オーブン全体を稼働させるときがひと仕事。「オーブン下部に備え付けられた引き出しを抜いて、そこに手を突っ込んで着火せねばならない」とボーデナー。「まあ、なんとかできるけど、キャンプ気分みたいになるね」
リフォームをしてから、ボーデナーはキッチンを小物で飾ったり、個人的な好みを加えたりした。いずれも、彼の夫のファビオ・トブリーニと旅行をしたときの思い出にちなむ。彫刻板を何十枚も飾り、名画「最後の晩餐(ばんさん)」に描かれた人間の首から上を動物に取り換えたパロディー画も持ち出した。夫の故郷・イタリア北部のマルチェージネの噴水にならって、キッチンの流しの蛇口には金色のドラゴンの頭を取り付けた。
「うちのようなキッチンは、どこにもないと思う。でも、そんなところがあるのがニューヨークなんだ」(抄訳)
(Jess Eng)©2023 The New York Times
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