オランダ一の大都市アムステルダムが、長らく何とかしようとしてきたことがある。赤い灯がともるあの売春街(訳注=通称「飾り窓地区」)が、暴力も辞さない騒々しい観光客に乗っ取られるのを防ぐことだ。
市当局は2023年春、新たな対策を打ち出した。地元の住民からの苦情がとくに強かった騒音と薬物乱用を減らす措置だ。しかし、売春の現場に立つセックスワーカーや酒場のバーテン、関連事業の経営者からは、この地区をより安全に、より静かにするには役に立たないとの声が上がるようになった。
そこで市は、もっと思い切った手に訴えることにした。ほかの地区に合法売春街を設け、一点に集中するニーズを拡散させようという構想だ。業界関係者の反応は、割れている。
まず、この春の新対策はこうだった。閉店時間を早め、午前2時にした(客の入店は午前1時まで)。セックスワーカーの労働時間も、午前6時までだったのを3時間繰り上げた。さらに、路上での大麻の喫煙を禁じた。ところが、セックスワーカーの多くは「かえって安全性を低める」と反発した。部屋代を払うのに十分な稼ぎを上げる時間が減り、それまでなら拒んでいたような客も取らざるをえない、というのだ。
「問題は午前3時から6時という削られた時間にあるのではない」。飾り窓地区にある「Prostitution Information Center(売春情報センター)」のコーディネーターの一人、Phoebe(29)(以下、オランダ語の名前は原文表記)は、こう指摘する(自身もセックスワーカーであるとの理由からファーストネームの使用しか同意していない)。「問題は、身の安全と労働福祉についてのしわ寄せが、働く者に来る構造にある」
バーの所有者たちも不満を募らせる。閉店時間の繰り上げは、毎月何千ユーロもの収入減につながる。しかも、騒々しい客たちは依然として消えてはいない。
「これで問題が減ったなんてことはない」と地元のバーで働くBartho Makkingaは断言する。「実際にトラブルを起こす連中には、どうってことない変更だからね」
この地区は、飾り窓を通じた売春とセックス遊具の店だけで知られているわけではない。市内では最も古くからある街の一つでもある。特徴的な運河と石畳の小道が縦横に走り、家々が軒を寄せ合うように並ぶ。観光客が混乱しないよう、歩道を一方通行にし、運河にかかる橋も閉鎖。赤いチョッキを着た「ホスト」と呼ばれるガイドがあちこちにいて、質問に答え、交通ルールを説明している。
「それでも、いつも人でごった返して街は混乱している」とホストの一人、Thomas de Rijkは最近のある晩、こういって肩をすくめた。
ここでの迷惑行為や犯罪を減らそうとする試みは、とくに目新しいことではない。市は2019年に地区のツアーを禁止した。オランダの首都でありながら、2023年3月には18歳から35歳までの英国人男性を対象に、「この一角には来ないで」と呼びかけるキャンペーンが始まった。酒類の販売も、木曜から日曜までの午後4時以降は禁じられている。
「飾り窓地区があまりに象徴的な存在になってしまって、ここが住宅街でもあることがほとんど忘れられている」とアムステルダムの市長Femke Halsemaは嘆く。この地区は昔から貿易や芸術、小さな事業の中心地になってきた。今回の新対策や、市内の別のところに売春街を設ける計画は、もともとこの地区にあったこうした機能をよみがえらせるためのものだ、と市長は強調する。
市当局はもう何十年も、この地区が地元住民にとって暮らしやすくなるように努めてきた。1970年代には、ヘロイン禍と闘った。そして今は、許容範囲を超えたオーバーツーリズムという難敵がいる――アムステルダム大学で都市史を教えるTim Verlaanはこう語る。
格安航空とアムステルダム空港の拡張が、市内への訪問客を増やす要因になっている。とくに週末は、独身最後の夜を大騒ぎして過ごそうという結婚間際の男性と友人たちの団体や、飲酒目的の若者の集団が増える。「世界中のどこからでも、ここはとても来やすいところなんだ」とVerlaanは背景を解説する。
市当局によると、こうした市内への訪問客は2022年は2千万人にのぼった。人口約90万のこの市に、2030年は3千万人が押し寄せる見通しだと市長は天を仰ぐ。
だから、市内の別の地区に合法的な売春をする「エロチックセンター」をつくり、飾り窓地区に集中している負担を軽減させたい、と市長は話す。
多くのセックスワーカーは、「この地区を立ち去りたくはない」という。これに対して、市長はこう利点を挙げる――新しいセンターはより安全で、より警備が強化され、より多くの人に合法的な就労を促すことができる。現在は仕事に使う部屋を時間単位で借りることはできないが、それもできるようになる。
「新しいセンターができても、飾り窓地区から売春が消えるわけではない」と市長は説明する。「ただ、飾り窓地区が最も重要なアトラクションとして観光客にアピールする力を、そぎ落とす必要がある」
オランダでは、売春は合法化されている。といっても、どこでもできるわけではなく、許可も必要だ。例えば、自宅やホテルの部屋、路上での売春は禁じられている。一方で、アムステルダムで働くセックスワーカーの数ははっきりせず、推定数をはじくことを専門家はためらう。確かなのは、今の地区では250ほどの飾り窓が稼働していることだ。
市当局によると、新しい場所は2024年の初めまでに決める予定だ。しかし、エロチックセンターに公的資金を投入する計画はなく、実現するにはほど遠いというのが実情だろう。断固反対派もいるし、セックスワーカーに引っ越しを強制することも市はできない。
別の地区にセックスワーカーを移すというのは、「視界から消し去り、多くの人に問題を忘れさせようというだけ」と先のPhoebeは手厳しい。
一方で、この業界で働く人の支援になる、と見る人もいる。
「合法的な職場の全体数は増えるべきであって、その逆ではない」とLyle Munsは主張する。自身もセックスワーカーであり、社会活動家でもある。
合法化される以前にも、売春は今の飾り窓地区で何百年にもわたってはびこってきた。もともと、アムステルダムの港に近かったからだ。地区の商業的な性格と、世界中から人を呼び寄せる一助となった飾り窓の売春が発展し始めたのは1960年代の後半になってだった、と先の都市史家Verlaanは説き起こす。
市長のHalsemaは、この地区の活気を維持し、ここに住む人を増やしたいと考えている。「地元住民に静かな夜を返してあげたい。怒鳴り声や叫び声で、本当に眠れないのだから」
「それは、その通り」と地元住民のChrista Arensはうなずく。アムステルダムで生まれ、育った。この地区は、小さな村のようにだれもがお互いをよく知っている。「やかましさはここでの暮らしの単なる一部で、荒っぽい風潮もこの街の特徴の一つとなって染みついている」とArensは平然としていた。「粗暴さも、バーやセックスワーカーと同じ、地区の特徴なんだから」といいながら、こう続けた。
「もう何百年も、そうだった。なんで、どこかに移さなければいけないの?」(抄訳)
(Claire Moses)©2023 The New York Times
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