米ボストン・マラソンの公式マスコット犬、オスのゴールデンレトリバー「スペンサー」が2023年2月17日に逝った。13歳と6カ月半だった。
その最期をマサチューセッツ州ホリストンの自宅でみとった飼い主のリッチ・パワーズによると、がんが手術できないほどに進行していた。
スペンサーは、マラソンを沿道で見守るとても熱心な「観客」として世界中に知られるようになった。好天はもちろん、雨天でも、いてつくような土砂降りでも、「Boston Strong(ボストンは強い)」(訳注=2013年のボストン・マラソン爆破テロ事件に対してできたスローガン)の応援旗をくわえてじっとたたずみ、何万人もが走り過ぎていくのを見届けた。その中にはスペンサーのファンも多く、なでたり記念撮影をしたりするためにレースを中断した。
マラソンの主催者ボストン・アスレチック協会(BAA)は2022年、スペンサーを栄えある「大犬帥(Barkshal)」(訳注=「bark=ほえる」と「marshal=元帥」をもじった造語)として公式に認定。「VIP(Very Important Pup、とくに大切なワンちゃん)」待遇を与えることにした。
スペンサーは2009年8月8日、マサチューセッツ州アップトンにあるブリーダーの飼育場で生まれた。当時、パワーズはゴールデンレトリバーの成犬2匹を飼っていた。マンディーとミスティーで、3匹目を迎える予定はなかった。
しかし、マンディーが死んだ。偶然にもスペンサーが生まれた日だったが、一家は知るよしもなかった。残されたミスティーは元気がなくなり、パワーズはもう一匹来れば、助けになるのではと考えた。
「カボチャを選びにいこう」と偽って、妻ドリーを連れ出した。着いたのはブリーダーの飼育場だった。妻は驚いたが、カボチャ選びならぬ子犬選びが始まった。
何匹もの中から妻が見初めたのは、生後8週間のスペンサーだった。「この子がいい」とキッパリといった。
家に連れ帰ると、ものすごく利口なことにパワーズは気づいた。何とかその利発さを生かせないか、少し調べてみた。「セラピー犬という存在は知らなかったけど、ともかくこの子はみんなと分かち合うためにいるんだと思った」
スペンサーは、地元の学校や大学に出向くようになった。介護施設や病院も訪れた。飼い主としては、悲しいことや訃報(ふほう)、最悪の最終試験といった悪い知らせから心を癒やすためだけに行かせたくはなかった。だから、一緒に定期的に訪問するようになった。「毎週火曜日のところなら、『今日は火曜日のお祝い』というように」
「彼は人のところに歩み寄ると、頭のてっぺんからつま先までよく見るんだ。それでもう、その人に何が必要なのか、のみ込んでいた」とパワーズは目を細めた。「その体からは、中に満ちている活力と光が発信された。接した人はだれでも、それを感じるといってくれた」
パワーズの自宅に、天窓を直しに修理業者が来たことがあった。その業者はある日、自分の目が作業箇所と犬のところを行ったり来たりしているのに気づいた。しまいには、パワーズにこう話しかけた。「ちょっと、ちょっと。この犬のオーラは、本当にすごい。本当に」
スペンサーは、フライングディスクと泳ぎが大好きだった。好物は、干しいもとニンジン。郵便物を喜んで受け取り、パワーズを慕って影のようについて回った。
一緒に飼われていたメスのゴールデンレトリバー、ペニーとも仲良しだった。三つ年下のめいにあたった。年上の賢いおじさん役を務め、ときにはペニーの悪ふざけに悩まされながらも、いざというときには懸命に守ってあげた。
ペニーが手術を受けることになった。一緒に動物病院に行くと、「本当に大丈夫なの」と問いかけるようにパワーズの妻をじっと見つめた。その後もペニーのリハビリ療法につき合い、不安がっているときは鼻と鼻をくっつけて励ましてあげた。
2015年。スペンサーは、ボストン・マラソンの沿道にデビューした。あの爆破テロ事件の2年後だった。パワーズは、何かをくわえるのが好きなスペンサーに「Boston Strong」の旗を持たせた。スタートから約2.5マイル(約4キロ)の地点で、一緒に選手たちを応援した。
スペンサーの名は、2018年のレース(訳注=4月16日に開かれ、男子は日本の川内優輝が優勝)からよく知られるようになった。その年は、ひどい悪天候に見舞われた。毎時20から30マイル(毎秒8.9メートル強から13.4メートル強)の逆風が吹き荒れ、いてつくような雨が降った。妻とペニーは、最初から家にいると決め込むほどだった。
「おい、行こうか」とパワーズはスペンサーに呼びかけた。自分のネイビー色のレインジャケットをスペンサーに着せると、ピッタリだった。一緒にアッシュランド州立公園に近いいつもの応援場所に出向き、最悪のコンディションの中で声援を送った。
スペンサーは木箱の上に座り、くわえていた2本の旗を風になびかせた。土砂降りの雨が顔に打ちつけたが、目を細めて4時間以上も耐えた。
その様子をパワーズは動画に撮り、スマホが悪天候でダウンする前にSNSに投稿した。後で機能を回復したスマホで見ると、動画があっという間に拡散していてびっくりした。
世界中のランナーが、パワーズに電子メールで尋ねてきた。「スペンサーは来年も応援してくれるのだろうか」
「もちろん」と打ち返した。「この子はみんなと分かち合うためにいるんだから」
2020年は、旗をくわえて無人の沿道に行った(訳注=コロナ禍でいったん延期された上で中止になった)。翌2021年もコロナ禍で延期になったが、もともとの開催予定日だった「ボストン・マラソンの月曜日」(訳注=例年なら米独立戦争を記念する「愛国者の日」にあわせて4月の第3月曜日に開かれる)にいつもの場所に出向いた。そして、その年の10月11日に勝ち誇ったようにレースが復活すると、スペンサーの姿もそこにあった。
2022年の本番(訳注=例年通り4月の第3月曜日の18日に開催)までには、その人気は確たるものになっていた。「もうすぐ右側にスペンサーがいます」――見過ごすことのないよう、友人の一人がプラカードを掲げてくれたほどだった。その先には、コースの右側に寄るランナーの一団ができた。スペンサーをなで、抱きしめ、記念写真を撮るためだった。迎えるスペンサーも礼儀正しく、だれでもなめてあげた。走る方は記録が何分か悪くなっても、待つことをいとわなかった。
スペンサーはときどき水飲みの休憩を取り、ペニーが穴埋め(パワーズいわく「代役」)に入ったが、こちらはこの催し自体にあまり関心がなさそうだった。
一方で、スペンサーと過ごす一日一日は、天の恵みにも等しい日々となっていた。すでに2020年には、重さ3.5ポンド(1.6キロ弱)もの良性腫瘍(しゅよう)を切除していた。翌年、がんを宣告された。10月11日に延期されて開かれたボストン・マラソンのすぐ後だった。化学療法を受けたが、余命は数カ月と見られていた。年が明け、2022年のボストン・マラソンがめぐってきた春は、病状が一時的に寛解していた。
2022年4月13日。マラソン本番の数日前に、主催者のBAAはスペンサーの何年にもわたる貢献をたたえる式典を催した。スペンサーはリムジン車に乗って会場に着き、ボストン・マラソンの公式ゼッケンを授けてもらった。
その年の7月にパワーズは2匹のために、少し早い誕生会を開いた。スペンサーは13歳を迎えた。一時は、そこまで生きながらえるのはとても無理と思われていた。
来客は700人を超えた。「人の列が引きも切らず、4時間のお祝いになった」とパワーズ。「ちなみに自分たちの結婚式に来てくれたのは、80人だった」といって笑った。
2022年秋には、がんが再発した。しかし、手術という選択肢はもうなかった。パワーズ夫妻は注意深く見守り、スペンサーにすべてを任せた。痛みに苦しむことはなかった。最後の日々は、見舞客がたくさん訪れ、うたた寝していることがめっきり増えた長椅子は、おやつやフライングディスクで埋まった。
2023年2月15日。その姿は、目に見えて弱々しくなった。翌日、パワーズは電話をかけねばならないことを悟った。獣医が、17日に安楽死させるために自宅に来ることになった。その到着の10分前に、スペンサーは臨終を迎えた。
「あれは、彼が与えてくれた贈り物のように私には思える」とパワーズは振り返る。「『(訳注=安楽死を選んで)正しいことをしたんだろうか』と自分が終生悩まないようにね。そして、最後の10分間まで、彼はその一生を精いっぱい生き抜いてくれた」
後には、リッチとドリーのパワーズ夫妻とペニー、それにネコのギャビーとトーニーが残された。
「だれしも自分のイヌが最高だと思うだろうし、それは間違っていない」とパワーズは語る。「スペンサーは、まぎれもなく特別な存在だった。でも、そんなことは、彼にはどうでもよかったに違いない」(抄訳)
(Talya Minsberg)©2023 The New York Times
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