トミー・リバーズ・プゼイ(37)は、大きなシティーマラソンや他の耐久レースの大会で優勝や入賞を重ねたプロのランナーだ。
ところが、1年ほど前は、入院先のベッドから再び起き上がれるようになることを覚えねばならなかった。
それからわずか数週間で、体を鍛え始めた。まず、ベッドの脇に足を出して、ゆっくりと揺り動かした。そのうちに、病室の端から端まで歩けるようになった。ただし、消耗は激しく、回復するのに2、3日もかかった。
そして、2021年11月7日の日曜日。プゼイはニューヨークシティー・マラソンに出た。こうした大会での自己ベストの記録に、遠く及ばないのは分かっていた。でも、そんなことは、どうでもよかった。大半の参加者と同じように、一緒に走れるだけでよかった。完走できれば、よいおまけぐらいに考えていた。
他の人とは、違うこともあった。しばらく前まで死の淵をさまよい、出場すら危ぶまれていたことだ。
前年の7月。プゼイは、米アリゾナ州フラッグスタッフの自宅に近い病院に担ぎ込まれた。当初は新型コロナに感染したと思われていた。
診断結果は悪性のリンパ腫。それも、たちの悪い、珍しい型だった。化学療法が始まり、集中治療室に2カ月半も入ることになった。
コロナ禍で、妻のステフ・カチュダルは付き添えなかった。治療で人工的な昏睡(こんすい)状態にすることになると、短いメモを渡してもらった。
「生きていて」とあった。「愛している。ステフ」には、思いが詰まっていた。
生き続けられるかどうか。簡単な状況ではなかった。むしろ、期待できないほどだった。
それを耐え抜いた。ひとえに、並外れた体力を培っていたからだ。「担当医を始め、誰もがそう認めてくれた」と妻は、ニューヨークのレースが始まる数日前に振り返った。「あれほど徹底的にトレーニングをしていなければ、命はもうなかったに違いない」
トレーニングは入院中にも行われていた。それ以上、できなくなるまで続けた。
看護師から妻に電話がかかってきた。「ベッドの脇で腕立て伏せをしている。ベッドの上でも、上半身を起こす腹筋運動をしている」と。
「なんてこと。集中治療室でベッドから出て、腕立て伏せをするなんて」とでもいっているように聞こえた。
ただし、きつい治療に入ると、筋肉が落ちた。体重が75ポンド(約34キロ)も減り、骸骨のようになった。
数週間後、昏睡療法から目覚めた。まず、骨髄移植部門に送られ、その後でリハビリが始まった。
すべての動作を、一から学び直さねばならなかった。ものをのみ込むこと。手の使い方。体重の移動。食器や筆記具は、どう使うのか理解すらできなかった、と本人は語る。
スマホを渡されたときは、重さにたじろいだ。わが家に帰れたのは、20年11月のことだった。
プゼイ夫妻のインスタグラムには、多くの熱心なフォロワーがいる。一言一句を漏らすまいと、#TeamRivs(リブズ=リバーズの略称)の更新を待つ人々だ。
プゼイは、マラソン界では勝負強さと穏やかさのどちらでも知られている。ウルトラマラソンも含めて、レースには厳しい姿勢で臨んだ。だからこそ、何度も表彰台に上がることができた。一方で、体を動かす意味については、詩的な心情すら抱いている。
2017年のボストン・マラソン(訳注=ニューヨークシティー、シカゴと並ぶ米三大マラソンの一つ)は、2時間18分で16位になった。アリゾナ州最大の都市フェニックスを駆けめぐるマラソンや(訳注=沿道各所のバンド演奏などでレースを盛り上げる)ロックンロール・アリゾナ・マラソンでは、1位に輝いた。50キロを走る世界的なウルトラマラソン大会では、米代表チームの一人に選ばれもした。
そんな競技歴とは無縁の闘病生活を、当初は宣告されたと妻はいう。もし、生存できたとしても、残りの人生は人工呼吸器につながれたままで暮らすことになりそうだ、と医師に告げられた。それが、そのうちに酸素ボンベが欠かせなくなる、に変わった。そして、ついにこうした闘病予測はなくなった。異例の回復に、「トミーには参った」という声が聞こえてきそうだった。
復活への努力は、さらに続いた。21年4月までには、歩行器の助けを借りて2マイル(約3.2キロ)ほど歩けるようになった。5分ごとに止まっては、息を整えた。
その時間は、着実に延びた。高原にあるフラッグスタッフで、調子がよければ、6、7時間も続いた。かつてのトレーニングには、遠く及ばなかった。ただし、数カ月前より、はるか遠くまで進めるようになっていた。
自分の健康状態とトレーニングについて説明するのに、とても時間がかかるようになった、とプゼイは語る。頭の回転が、なかなか思うように回復しないからだ。
実際に、何か話そうとするときは、ゆっくりとしか文を組み立てられない。
「でも、体が動けば、生きているということ」。プゼイは、こう繰り返した。
「私がしてきたのは、一つ一つの動きをしながら、常に死と対話することだった」
空想の世界でなら、こんな風になるだろうか。
大みそかの楽しいパーティー。そこに、自分を迎えにきた運転手がいる。
車から降りたのは6時だった。でも、その運転手はもう8時に戻ってきた。
「いいや。自分はここにいたい」と乗るのを拒む。
「2時間もここにいて、素晴らしい時間を過ごしたじゃないか。さあ、行こう」と促される。
「連れていこうというなら、やってみれば。自分は、ここにいる」
――そんな対話だ。
ニューヨークシティー・マラソンは、レースとして臨もうと思ったわけではない。必ずしも、カムバックということでもない。ましてや、感動的な物語にするためでもない。
今回の参加は、灯台に導かれたのと同じだ、とプゼイは例える。自分が進む先の水平線をしばし見つめていたところ、その灯台が現れてきたという。
「どんな競技でもそうだが、マラソンは距離の問題ではない。走るということは、時間と移動空間の刻印なのだ」。今回の出場を前に、自宅に電話して取材すると、プゼイのこんな言葉が返ってきた。
「その刻印は、子供のときに過ごした実家のドア枠に残る線と似ている。背丈の伸びを記録したこの横線のように、『そのとき、その場所に間違いなく存在する自分』が刻まれていく」
ニューヨークは初めてだった。大会の数日前に現地入りした。
「まるで、魔法にかかったような気持ちだった。魔法が確かにあるとすれば、見るも、感じるも、こういうことなのだろう」
当日は、この魔法の力が引っ張ってくれた、とプゼイは話す。
例えば、応援の人が自分のために大書して掲げてくれた励ましの言葉、「リブズ、視線を上げろ」。終日、自分と並んで歩いてくれた人たちもいた。
どこまで走ったのか。見たのは距離の表示ではなかった。「こうした愛情と鼓舞と巡り合う地点から地点をひたすらたどって進んだ」
最後の数マイルは、これに妻が加わった。自分の周りで起きていることをすべて理解するのは、あまりに難しかった。
「ただ、目を閉じて動き続けた。ようやく最後の地点まで来た。たどり着くと、思わず安堵(あんど)のため息が出た」
ゴールインしたときは、日が暮れていた。観客のほとんどは、もう家に帰っていた。
タイムは、9時間19分だった。(抄訳)
(Talya Minsberg)©2021 The New York Times
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