「막장(マクチャン)」という韓国語がある。本来は「坑道の突き当り」や「物事の終わり」といった意味だが、行き詰まった状況や一線を越え後戻りできなくなった関係など、手の施しようのない状態を冷ややかに示す場合にも使われる。例えば「与野党の対立続くマクチャン政治」「犯罪者のマクチャン人生」といった具合だ。
「マクチャンドラマ」とは対極 際立つ完成度の高さ
だが、「マクチャン」の付く表現でもっともよく耳にするものといえば「マクチャンドラマ」だろう。作品の完成度より視聴率を優先し、どんなに非現実的だろうと構わず刺激的な展開をエスカレートさせていくドラマのことだ。
偶然の連発、「気づけば兄妹だった」といった出生の秘密、不倫、財閥と庶民の恋愛から嫁姑のいざこざまで、どろどろの人間関係を物語の中心軸にしているのが特徴で、あまりにもばかばかしい展開に視聴者は呆れつつも画面に釘付けになる。言ってみれば「罵倒しながら楽しむドラマ」なのだ。
近年、韓国ドラマの質やその主題の多様さには目を見張るものがあるが、一方で、2000年代に入りドラマ専門のケーブルチャンネルが本格的に登場した頃から、製作環境や視聴率競争の激しさを原因とする「マクチャンドラマ」もまた増えていった。
10年ほど前には、主要人物を突然死なせたり渡米させるといった支離滅裂な展開の果てに、登場人物が「がん細胞も生命だ」と治療を拒んだ挙句に回復してしまったりと、大炎上を起こしたドラマまであった。
そんな玉石混交の韓国ドラマ界にあって、デビュー当初から一貫して完成度の高いドラマを書き続け、多くのファンを獲得してきた人物がいる。女性シナリオ作家、ノ・ヒギョンだ。
1995年にデビューし、家族に尽くしてきた末期がんの母とその家族を描いた2作目『世界でもっとも美しい別れ』は、1996年の放送後、映画化(2011)やリメイク(2017)も登場するなど高く評価されているほか、ヨン様ことペ・ヨンジュンが出演した『愛の群像』(1999)、精神科医とベストセラー作家が互いの心の傷を癒す『大丈夫、愛だ』(2014)など、30年近くにわたり第一線で活躍を続けてきた。
刺激的な物語や善悪の二項対立的なキャラクター設定は極力避け、人間そのものを温かい眼差しで観察し、心の傷や痛み、些細な感情の動きを洗練された言葉で描き出すのを特徴とし、マクチャンからは遠く離れたところで視聴者に寄り添う「ノ・ヒギョンワールド」は多くの共感を呼んでいる。
中高年の男女の愛と友情を温かく愉快に描いた『ディア・マイ・フレンズ』(2016)では、長年にわたり韓国の映画・ドラマを牽引してきた大御所俳優が一堂に会し、病気や熟年離婚、認知症といった現代の高齢化社会が抱える様々な問題を描きつつも、彼らが互いに支え合いながらそれぞれの生を肯定する姿が明るく時に痛快に描かれていた。
若く美しいスター俳優も、きらびやかな金持ちの世界も一切登場しない作品だが、豊富な人生経験と確かな演技力に裏打ちされた俳優たちによる、人間味あふれるキャラクターが何とも魅力的なドラマであった。
ノ・ヒギョンはそこで、家父長制の犠牲になってきた女性たちに「人生はマクチャン(ドラマ)だ!」という台詞まで吐かせている。
視聴者の反応を見ながら脚本を進めていくドラマとは異なり、ノ・ヒギョンが結末まで書き上げてから撮影に入る手法もまた、マクチャンとは大きく異なる点だろう。
「人生では誰もが主人公」豪華俳優陣によるオムニバス
今回紹介するのは、ノ・ヒギョンの現時点での最新作であるドラマ『私たちのブルース』(2022)である。
元々、イ・ビョンホンを主演に準備していたドラマ『ヒア(here)』が、新型コロナウイルスの影響で延期を余儀なくされた際、イ・ビョンホンから「延期は残念だが、何か他の作品を一緒にできないだろうか」と言われたのをきっかけに、短めの作品のつもりで書き始めたのが、最終的に全20話の連続ドラマとなった。
『ディア・マイ・フレンズ』からの流れを汲んだ群像劇で、済州島を舞台に、そこで暮らす平凡な人々の人間模様をオムニバス形式で描いている。
「すべての人生には価値があり、生まれた以上、人は幸せになるべきだ」「主役と脇役を区別せず、自分の人生においては誰もが主人公であると伝えたかった」というノ・ヒギョンの意図を受け、約15人の登場人物たちがエピソードごとに主役と脇役を行き来しながら、ドラマ全体の物語を完成させていく構成になっている。
彼らは、自分の物語では主人公としてエピソードの前面に出るが、他者の物語では脇役として背景に後退しながら、まるで版画の陽画と陰画のごとく、それぞれの人生(物語)を立体的に作り上げていく。
このような意欲作が成功した背景には、豪華なキャスティングも一役買ったといえるだろう。
名実ともに今の韓国を代表するイ・ビョンホンをはじめ、国民的大女優であるキム・ヘジャやコ・ドゥシム、『パラサイト 半地下の家族』をきっかけに日本でも広く認知されたイ・ジョンウン、バラエティーでも活躍するチャ・スンウォン、若手実力派俳優のハン・ジミン、キム・ウビン、シン・ミナなど、そうそうたる俳優たちが顔を揃え、それぞれの役柄を的確に把握し、絶妙なバランスで繰り広げる演技のアンサンブルがあってこそ成立するからだ。
親子、友人、恋人の間で繰り返される「対話と和解」
本作では、義理人情に厚い魚屋のウニ(イ・ジョンウン)を狂言回しに、置かれている立場や抱えている事情の違う人々が、日々の生活を必死に営みながら、親子や友人、先輩後輩、恋人、隣人同士といった関係の中で葛藤し、すれ違い、怒りや喜び、悲しみ、希望といった様々な感情を分かち合っていく姿が描かれていく。
同時に、中年世代を中心にその親や子どもまで幅広く射程に収めながら、教育のための親の献身、妻による夫へのDV、障がい者をめぐる社会の不寛容、鬱病や高校生の妊娠といった現代的なキーワードも散りばめられているが、やはりドラマの肝と言えるのは、人物同士の関係性をめぐる物語であろう。
彼らは互いを思いやりながらも、大事なことを口に出せないためにわだかまりを残し、それでも最後にはぶつかり合って思いを吐き出して和解に至る。
貧しさゆえに進学もままならなかったウニは、がむしゃらに働いて成功するも親族からは金の無心が絶えない。銀行の支店長として故郷に凱旋したハンス(チャ・スンウォン)は、娘のゴルフ留学費用のために借金を繰り返し、心ならずもウニを利用しようとしてしまう。
そしてウニは、貧しい学生時代に助けてもらった恩義から、ソウルに暮らすミラン(オム・ジョンファ)に尽くすが、彼女にとって自分が都合の良い存在に成り下がっていると感じている。
母への恨みと初恋のソナへの思いを心の奥で抱えているトラック行商人のドンソク(イ・ビョンホン)、うつ病を患い、愛する息子とも離れて苦しむソナ(シン・ミナ)、ダウン症の双子の姉を持つ海女のヨンオク(ハン・ジミン)、ヨンオクに純粋で一途な愛を注ぐ船長のジョンジュン(キム・ウビン)。
生計のために愛人になり、息子のドンソクに一生恨まれてきたオクドン(キム・ヘジャ)、夫と二人の息子に先立たれ、一人残った息子まで交通事故に遭ってしまう海女のチュ二(コ・ドゥシム)、思わず言い放った一言で親友のホシクの心を傷つけたイングォン(パク・ジファン)、そんなイングォンがどうしても許せないホシク(チェ・ヨンジュン)、そんな親たちを尻目に秘かに愛を育み妊娠に至ってしまうヨンジュ(ノ・ユンソ)とヒョン(ベ・ヒョンソン)。
登場人物たちはみな、思い通りにいかない人生を送りながら、最後には相手に耳を傾け理解し合うことで互いを取り戻していく。
とりわけ、逃れられない死を前にしたオクドンとドンソクの旅では、最後まで多くを語らない母の代わりに、立ち寄る場所のひとつひとつが母の人生を明かしていく。二人が再び親子になっていく過程は、悲しくも感動的だ。
人気観光地の済州島 多すぎる死者に「4・3事件」の影
このように多彩なエピソードを描きつつも、「対話と和解」というキーワードが全体を貫いていることに加え、登場人物たちの家族に、あまりにも死者が多いこともまた本作の特徴と言える。
夫と二人の息子を失っているチュ二、夫と娘を海で亡くしたオクドン(ドンシクにとっては父と姉)、父が自殺したソナ、事故で両親を失ったヨンオク…もちろんこのドラマがやたらと人を殺すマクチャンドラマだと言いたいのではない。なぜかくも愛する人が失われているのだろうか。
そのことに思い当たった時、私の頭をよぎったのは本作の舞台が「済州島」であることは必然だったのではないかということだった。「田舎」や「島」といった記号ではなく、本作は「済州島」だからこそ成立し得たのではないだろうか。
温暖な気候と豊かな自然ですっかり人気観光地として定着している済州島だが、かつてこの島が凄惨な虐殺の舞台となったことは、最近ではヤン・ヨンヒ監督が自身の母にカメラを向けたドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』(2021)などを通して、少しずつ日本でも知られるようになっただろうか。
日本の敗戦によって日本の植民地から解放された後、朝鮮半島はアメリカとソ連の軍政が敷かれ、南の李承晩(イ・スンマン)と北の金日成(キム・イルソン)が激しく対立していた。
そのため、朝鮮民族による新生独立国家を作るという夢は、本土においては次第に遠のいていったのだが、その希望がまだ残っていた済州島では、南北分裂を助長する李承晩に対し島民たちが抵抗、「アカ」と見なされて無差別に虐殺されたのである。
1948年4月3日の勃発から1957年に最後の武装隊員が逮捕されるまでの間、実に多くの民間人が殺された。
政府の記録によれば、少なくとも2万5千から3万人が犠牲になったということだが、全貌はいまだ解明しておらず、実際にはその倍以上が殺されたとも言われ、「済州4・3事件」は韓国現代史におけるもっとも忌まわしい事件として歴史に刻まれている。
当時、島の住民は次々と安全な場所を求めて命からがら逃げだし、日本に定住した人も多かった。在日コリアンの中には、出生地や思想的な理由で朝鮮籍を維持するのではなく、「韓国という国家を憎んでいる」ために韓国籍を持たない人も多い。
関係の修復へ タブーだった声に耳を傾け始めた人々
2000年、犠牲者や遺族の名誉回復と真相究明を約束する「済州4・3特別法」が成立し、2003年には当時の廬武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が初めて国家的暴力を認め、犠牲者に対して正式に謝罪をした。さらに21年、国は被害者と遺族に対する国家責任を認め、必要な補償を行う特別法の全面改正案が国会で成立した。
73年もの年月が経ってようやく、国はそれまで抑圧してきた済州島の声に耳を傾け始めたのである。
と同時に、済州島の痛ましい歴史を知りながらも口をつぐんできた国民も同罪と言えるかもしれない。光州事件と同様、ごく近年までタブー視されていたために、事件が映画やドラマで描かれることもほとんどなかったからだ。
本作は「済州4・3事件」に直接的にも間接的にも言及していないし、登場人物たちを取り囲む数々の「死」も虐殺と関係するものではない。その意味でこのドラマと済州島の歴史を結びつけるのは正しいとは言えないかもしれない。
だが、悲しい記憶を持つ島に生まれ育ち、今もこの島で生活を営む彼らを繋ぐ連帯感、ありのままの姿を受け入れる懐の深さ、死と隣り合わせの仕事に従事し、近しい人の死を抱えながらも生をまっとうし、新たに授かる命を慈しむ姿勢。
本作でのこうした描かれ方を考えたとき、実際に済州島に移り住んで本作のシナリオを執筆したというノ・ヒギョンが、無意識のうちにこの土地の記憶を作品に刻み込んだように思えた。
登場人物たちの関係性が「相手の話に耳を傾け、相手を受け入れ、共感し理解し合う」ことで修復され、和解に至った背後には、国家レベルでのそれを望む、作り手の思いを汲みとらずにはいられない。
素晴らしい作品は、見る者に幾重もの思考を与えてくれるものなのである。