今年も「終戦の日」(8月15日)がやってきた。この時期になると決まって思い出す取材の記憶がある。「紙のランドセル」についてだ。
ランドセルは明治時代に誕生し、全国に普及した。当初は牛革だったが、戦争の時代が訪れると、物資を軍需品生産に集中させるために民間での革製品の使用が制限され、紙や竹で作られるようになった。
私が紙のランドセルを知ったのは読者の新聞投稿がきっかけだった。2008年12月28日付の朝日新聞の「声」欄に、次のように掲載された。
私は昭和18年、岡山県の村の国民学校に入学。物資は不足し、買ってもらったのは赤いボタンの花の模様が描かれた厚紙のランドセルだった。雨に当たると色が流れ、端の方が溶けた。優しかった1年の時の担任は、私たちが2年になる前に結核で亡くなった。両親から「薬がなかったばかりに」と聞いた。 子どもたちは真剣に聞いてくれた。人の命も暮らしも教育も奪ってしまう戦争のむごさを感想文に書いてくれた子らがいた。私は「語り部」とまで言える者ではない。しかし、その時代を生きた者の話は心に響いたのだろうか。後日、劇が上演された。真剣な演技に涙がにじんだ。
2008年12月28日付の朝日新聞(朝刊)の「声」欄
投稿主は、岡山県早島町に住む光畑香苗さん。当時70歳。
このとき私は大阪社会部に所属し、新聞記者になって10年。毎年のように戦争体験者の話を聞いては記事にしてきたが、紙のランドセルについては初めて知った。
子どもにとってはかけがえのないランドセル。素材が粗末になっていく様を通じて、戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えられないかと思い、光畑さんからじかに話を聞こうと思った。
本人の了解を得て声欄の担当者から光畑さんの連絡先を聞き、電話で取材の依頼をした。光畑さんは恐縮しながらも快く承諾してくれ、その翌年、彼女のもとを訪ねた。
早島町は倉敷市に近く、歴史的建造物が多数残る地域だ。JR早島駅に着くと、光畑さんが自ら運転する軽乗用車で迎えに来てくれた。
光畑さんは、紙のランドセルの話を子どもたちに話した早島小を案内してくれた。
光畑さんはこの10年前、長年勤め上げた小学校の教諭を退職したが、その後も「スクールサポーター」として、教諭の指導を補助したり、不登校児を支援したりしていた。
紙のランドセルの話をしたのは、この学校の4年生約130人だった。
光畑さんによると、子どもたちにまず見せたのは自らが描いたランドセルの絵だった。ふちが赤で、ふたにには赤い花の模様がある。
一見、今にも通じるおしゃれなランドセル、と子どもたちは思っただろう。だが光畑さんが「実はね、これ紙でできてたんよ」と明かすと、教室は一斉にどよめいたという。
光畑さんは岡山県北部の香々美南村(現鏡野町)で両親、姉と暮らしていた。ランドセルの思い出について、私にも次のように話してくれた。
光畑さんは「戦争は人々のかけがえのない命を奪い、暮らしを壊していきました。なぜ紙にならざるを得なかったのか。背景にも関心を持ってほしいです」と、紙のランドセルについて語り継いでいきたいと話していた。
大阪に戻った私は、ランドセルの歴史を研究しているカバンメーカー勤務の男性にも取材し、実物の紙のランドセルを見せてもらった。
大阪朝日新聞が1938年6月19日付で「消えるランドセル こんどは皮の使用ご法度だ」という記事を掲載していたことも調べ、最終的に記事に仕上げた。記事は英訳され、英字新聞にも載った。
掲載紙を光畑さんに送ると、とても喜んでくれた。この取材がきっかけで、光畑さんから時々手紙をもらうようになった。実に達筆で、のちに知ったのだが、光畑さんは毎年、地元の小学校や中学校から卒業証書の名前書きを頼まれるほどの腕前だった。
手紙をやり取りするうち、光畑さんが実は読者投稿欄の常連であることもわかった。過去の記事を調べてみると、光畑さんが「心の教室相談員」として不登校の生徒に手紙を書き続けていたことや、聴覚に障害がある人をサポートする「要約筆記」の養成講座を受けていることなどか書かれていた。常に人のために役立ちたいという思いであふれていた。
その後、私はモスクワ支局に転勤したのをきっかけに「文通」は途切れたが、帰国後の2017年、ネットメディア「ハフポスト」に出向していた際、「終戦の日」に合わせてもう一度「紙のランドセル」の話を記事にしたいと思った。
久しぶりに電話をした光畑さんはやはり取材を快諾してくれた。この年、小学校に入学したばかりの長女と、保育園児の次女も連れて行った。
再会した光畑さんは8年前と変わらなかった。優しい笑顔と年齢を感じさせない快活さ。ランドセルの自作絵も大切に保管してあり、娘たちに見せてくれた。
取材後、光畑さんとの文通が再開した。手紙だけでなく、子どもたちにと、自身のお孫さんに読み聞かせていた絵本も送ってくれた。お正月には、自宅でついた岡山名物の「豆餅」も届いた。筆まめの光畑さんからは毎月のように手紙や絵本が届いた。
2018年の暮れには、光畑さんの自宅で餅つきに参加させてもらった。子どもたちにとっては初めての体験で、とても喜んだ。
光畑さんと私の家族とで集合写真を撮り、再会を約束して別れたが、その後は新型コロナウイルスの感染拡大もあって文通と電話でのやり取りが続いた。手作りのマスクをもらったこともあった。
今年の初めも、光畑さんから餅と絵本をいただいた。お礼の電話を入れると、光畑さんは「コロナが落ち着いたら会いましょう」と言ってくれた。家族が春から広島に移住することになり、「今度は近くなりますね」と言って電話を切った。
けれど、光畑さんの声を聞いたのはこれが最後だった。
3月中旬。自宅にはがきが届いた。光畑さんのご長男からで、光畑さんが急逝したことが書かれていた。85歳だった。涙をこらえながらご長男に電話をすると、死因は大動脈解離だったという。
「いつも朝ご飯の支度をしてくれているのですが、その様子がなかったので部屋に行ってみると、ベッドに腰掛けた状態で亡くなっていました。パジャマのボタンを外そうとした姿勢で横に倒れていて。お医者さんによると、ほとんど苦しむことなく逝ったということで、それがせめてもの救いでした」
前日まで元気で、県外の大学に通う孫たちが帰省し、久しぶりに家族だんらんで夕食を取ったという。突然の発症だったらしい。
遺体は岡山大学医学部に「献体」されたことも、ご長男から聞いた。献体とは、医学や歯学の研究や教育のために無条件、無報酬で提供することで、光畑さんは生前、亡くなったときはそうするよう希望していたという。亡くなってもなお、人の役に立とうとする思いに涙があふれた。
これもあとでわかったことだが、光畑さんは献体について投稿欄でも書いていた。2007年、70歳だった。
献体を申し込んで4年、会員登録の通知が届いた。確実に訪れる生の幕引きの準備の一つができたと、ほっとしている。
ビジネス化した葬送にはなじめず、見送りはきょうだいや子どもたちだけで十分だと思っている。
40年の教職生活で病気休暇は1日だけという健康な体に産んでくれた両親。放任に近い子育てにも我慢してくれた子どもたち。何かと助けてもらった姑(しゅうとめ)と母。そして、お世話になった多くの人たちへの感謝の念を新たにした。
振り返ってみると、うそもつき、ごまかしもし、人も傷つけ、決して褒められた人生ではない。だが、孫にも恵まれ、仕事も続けられた私に、思い残すことはない。別れは心静かに迎えたい。
通知に添えられていた冊子を読んだ。医学がどんなに進んでも、人体の不思議さやすばらしさを知るのに、献体に勝るものはないのだろう。私の3分の1の胃袋も役に立つのかな。 歯科医になりたいらしい孫娘とババが解剖実習で「ご対面」、なんてことを想像して笑えた。
2007年3月20日付朝日新聞朝刊の「声」欄
8月上旬。ようやく家族を連れて早島に行くことができた。コロナ禍の中、無理を言って少しだけ立ち寄らせてもらった。
仏壇に手を合わせるものの、ご遺骨が戻ってくるのは早くても1年半ほどかかるという。ご長男によると、亡くなる直前まで光畑さんがよく口にしていたのは、コロナとウクライナ侵攻の話題だったという。特にウクライナ侵攻については、「何でこの時代に戦争なんて…」と嘆いていたという。
光畑さんがご存命なら、きっと戦争の愚かさと平和を願う気持ちを文章にて新聞に投稿していただろう。
それがかなわぬ今、せめてこの記事によって、「紙のランドセル」の話とともに、光畑さんの平和への思いが皆さんに伝わればと思う。