2020年5月25日、首都ワシントン近郊のネイルサロンで働く黒人女性ブレオナ・ヒントンさん(Brayonna Hinton、当時23歳)は、新型コロナの影響により、朝になってシフトが急遽キャンセルされた。仕事に出る必要がなくなったヒントンさんは、娘のマイオナちゃん(当時4歳)を連れ、ワシントン南東区にある母親のアパートへ行った。マイオナちゃんはいつものように、お気に入りのピンクのケースに入ったiPadでゲームをしたり、TikTokのビデオを見ながら踊ったりしていた。「何の変哲もない、いつも通りの日だった」と、ヒントンさんはその日を振り返る。
母親の家にはヒントンさんの親戚の男の子(当時7歳)がいた。マイオナちゃんと男の子は歳が近いこともあり、2人はきょうだいのように仲良しだった。歩けるようになってからというもの、マイオナちゃんはいつもこの男の子の後を追いかけては一緒に遊んでいた。
ヒントンさんはこの日、母親のアパートに数時間だけ滞在する予定だったが、ネイルの常連客が母親の家に来ることになり、一日を過ごすことになった。夕飯のピザを食べ終えると、時計は夜7時半を回っていたが、外はまだ明るかったので、男の子とマイオナちゃんは外に遊びに出た。常連客のネイルを仕上げたヒントンさんは、続いて妹の友達の髪をセットすることになり、リビングルームでコーンロー(三つ編みを頭皮に付けて平行に配置するアフリカ系の伝統的な髪型)の作業をしていた。
■「わざとじゃない、事故なんだ」
外で男の子とマイオナちゃんを見ていたヒントンさんの母親がトイレに行こうと、一旦アパートに戻ってきた時のことだった。アパートの隣の棟に住む友達が「見せたいものがあるからおいでよ」と男の子を誘った。マイオナちゃんは、いつものように親戚の男の子の後を追いかけた。
友達のアパートは空っぽだった。7歳と9歳の兄弟の母親はピザをピックアップするため外出し、母親のボーイフレンドは外で話をしていた。その間に友達がこっそり男の子に見せたかったものとは――寝室の鏡台の引き出しにある、「ready to shoot(銃弾が込められロックが外された、撃つ準備が完全に整った状態)」のピストルだった。本物の銃器を見たことがなかった男の子は、渡された銃を手に「おもちゃでしょ?」と言った。次の瞬間だった。男の子の持つピストルから銃弾が飛んだ。発砲の勢いでピストル後部が胸を打ち、男の子は痛みと衝撃を感じた。
まだ妹の友達の髪をセットしていたヒントンさんの前に、動揺した様子の親戚の男の子が姿を見せた。水色のTシャツとデニムの半ズボンが真っ赤な血で染まっている。「交通事故?」。とっさに不吉な思いがよぎる。マイオナちゃんがいない。「マイオナはどこに?」と聞きたいのに、声が出ない。そんなヒントンさんに男の子はしきりに叫んだ。
「本物だなんて知らなかった!わざとじゃない!事故なんだ!」
ワシントン首都警察の書類によれば、子供たちが建物の中に入ってから銃撃事件が起きるまで、わずか数分だった。「2人が外で遊ぶと出て行ってから血まみれの親戚の男の子を見るまでも、10分足らずだったはずだ」とヒントンさんは振り返る。
■「なぜ私は動けないの?」
ヒントンさんが外に飛び出すと、男の子の友達が「こっち、こっち」と隣の棟を指さした。アパートの一室に入ると、マイオナちゃんが奥の部屋に一人で横向きに倒れていた。目を開いていたが、頭がだらんと傾き体は全く動いていない。床には大量の血。後を追ってきたヒントンさんの妹(当時17歳)は、その光景に思わず悲鳴をあげた。「ここから出ていって!」。ヒントンさんは取り乱す妹に大声で言った。「娘を怖がらせたくなかったし、妹にトラウマを負わせたくもなかった」
ヒントンさんはキッチンのタオルを掴み、血があふれ出るマイオナちゃんの首を必死に押さえた。すると、まだ意識があったマイオナちゃんがかすれるような声でささやいた。「親戚の男の子が私を撃ったの」
ヒントンさんは震える手で携帯を取り出し救急車を呼んだ。この時、銃弾がマイオナちゃんの首を貫通していたことは知らなかった。首の反対側にあった射出口の傷からも血が流れ続けていた。「娘を助けようと必死だったが、床、服、体中についた血の臭いだけは今でも忘れられない」
ヒントンさんは救急車に乗り込もうとしたが、拒否された。「私はこの子の母親なんです!」と何度も叫んだが、そのままパトカーに乗せられ、警官に事情を聴かれた。事情聴取は1時間以上に及んだ。「警察は銃が私のものだと思ったか、私が事件に関与していると疑ったに違いない」。当日を振り返るヒントンさんの声は震え、目から大粒の涙が次々とこぼれた。
救急車とヘリコプターでワシントンの大規模病院へ搬送されたマイオナちゃんは、二度の大手術を経て命を取り止めた。医師たちから、脊髄を損傷し「もう歩けないかもしれない」と説明されたが、ヒントンさんはそれをマイオナちゃんに伝えなかった。「少しでも可能性があるのなら、『歩けない』という考え自体を娘に植え付けたくない」。そう思いながら、マイオナちゃんの髪にまだ付いていた血を丁寧に拭きとった。
数日後、マイオナちゃんはまだ集中治療室にいたものの、口に取り付けられたチューブが外された。自分の下半身が動かないことを実感したのもちょうどこの時だった。チューブが取れ、やっと話せるようになると、ヒントンさんに言った。「なぜ私は動けないの?」。「それは銃弾に撃たれたからよ」と説明するヒントンさんにマイオナちゃんは悲しそうな顔でこう返した。「銃弾がどうやって私を歩けなくするんだろう?」……まだ4歳のマイオナちゃんは、自分の体に一体何が起こったのか、理解できなかった。
■母親からケアテイカーに
ヒントンさんは、首都ワシントンの黒人居住区として知られる南東区の出身。子供を生める体ではないと信じ込んでいたが、19歳の時に思いがけず妊娠し、娘のマイオナちゃんを出産した。父親についてほとんど何も知らないマイオナちゃんに寂しい思いをさせないよう、シングルマザーとして一生懸命育てた。モデルのように写真を撮られることが大好きだったマイオナちゃんをモデルエージェンシーに登録し、たくさんの写真を撮ってはソーシャルメディアに投稿した。
夢は陸軍に入ることだった。「娘のために、少しでも安定した収入が得られると思った」。入隊の試験に合格したが、マイオナちゃんの事件後、辞退した。約半年に渡る入院生活を終え帰宅したマイオナちゃんの面倒を、24時間見なければならなくなった。
週3回リハビリをするため、車で1時間以上かかるワシントン郊外までマイオナちゃんを毎週連れて行く。リハビリは、腕や足など各部分によって異なるセラピーが必要なため、朝9時から夕方4時までの時間を要する。家では覚えきれないほどたくさんの薬を処方箋通りに日々3回飲ませ、数時間おきに尿の管を空にする。マイオナちゃんは手で何かを掴むことができないため、食事をする時も助けが必要になった。マイオナちゃんの両手の指は真っ直ぐ伸ばすことができず、いつも曲がったままだ。右手は特に弱いため、右利きのマイオナちゃんは左手を主に使うようになった。
事件後、ネイルサロンでの仕事を辞めたヒントンさんは、マイオナちゃんが寝ている夜の時間に働こうと、ビルの警備員の夜勤を始めた。だが、マイオナちゃんをみてくれるはずの看護婦やケアテイカーが突然来られなくなることが続き、この仕事も辞めなければならなくなった。「どうすれば仕事と看病の両立ができるのかわからない。四六時中娘の面倒を見なければならない。一番大変なのは、お風呂に入れ、リハビリに行く際に車椅子から抱き上げて車に乗せなければならないことだ。今6歳になった娘の体は前よりも重くなっている」。「でも……」とヒントンさんは続けた。「この仕事ができるのは母親の私しかいない」(つづく)