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日米開戦の日、「悲惨な敗北」予期していた近衛文麿 終戦工作重ねた末の「A級戦犯」

揺れる世界 日本の針路
近衛文麿が1945年12月16日に自殺した荻外荘の書斎=牧野愛博撮影

■アメリカに抱いた幻想と読み誤り

11月下旬、近衛研究も手がけた防衛省防衛研究所の庄司潤一郎研究幹事とともに、JR荻窪駅近くにある荻外荘を訪れた。

近衛は1937年から45年までの間をここで過ごした。日独伊三国同盟締結につながる荻窪会談(1940年7月)や、対米開戦の回避を模索した東条英機陸相らとの荻外荘会談(41年10月)など、日米開戦につながるさまざまな節目の舞台だ。山本五十六連合艦隊司令長官が40年9月、対米戦の見通しについて「それは是非やれと云はれれば、初め半歳か1年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と近衛に語った場所でもある。

所有者の杉並区は戦後、豊島区に移築された客間と玄関部分を再び戻す準備を進めている。3年後には全面公開される見通しだ。私たちが訪れたのは居住棟と別棟の部分。当時は池だった南側に面した位置に、「とのさまのへや」と呼ばれた書斎があった。近衛は1945年12月16日早朝、青酸カリを飲んで自殺した。GHQ(連合国最高司令官総司令部)がA級戦犯として逮捕指令を出した出頭期限の日だった。

東京都杉並区にある荻外荘=牧野愛博撮影

近衛は遺書のなかで米国について多くを割いた。そのうえで、「所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは堪え難い」と明かした。

庄司氏は「近衛は、米国に多くの幻想を抱いていた。米国は大国だから、生存権に基づく日本の正当な行動を理解してくれるだろうという甘えがあった」と語る。41年7月、日本は南部仏印に進駐した。近衛の楽観的な予想に反し、米国は在米日本資産の凍結と石油の対日全面禁輸で応じた。日米は一気に戦争という危機的状況を迎えた。

近衛は中国についても見誤った。1937年7月、第1次近衛内閣の組閣から1カ月後に盧溝橋事件が起きた。内閣は当初、事態不拡大方針を取ったものの、結局は華北派兵を決定。戦火が上海に及び、全面戦争へと広がった。庄司氏は「近衛は、強烈な戦意を示せば、中国は譲歩するだろうという見通しの甘さがあった」と語る。

庄司氏によれば、当時の日本では、西安事件などを受けて、今日の中国は昔の中国とは違い、統一に向かって強化されつつあるといった「中国再認識論」も見られるようになっていた。しかし、近衛はそのような中国の現状を理解しておらず、蔣介石らの実力を過小評価していたという。

また、盧溝橋事件当時、近衛の取った政策は「近衛の先手論」と呼ばれた。近衛は「軍人に先手を打って強硬な政策を唱えれば、陸軍の信頼を得ることができる。そうすれば、政治の主導権は政治家の手に戻り、陸軍を抑えることができる」と考えていたとされる。近衛は41年10月の荻外荘会談で、東条英機陸相の説得に失敗し、内閣総辞職に追い込まれた。庄司氏は、近衛について「その場の空気に流されて、最後まで信念を貫き通せない。思想家や評論家としては、ある程度評価できても、政治家には向いていなかった」と語る。

■日本は情勢を読めているか

近衛文麿

「国際情勢を見誤る」「決断できない」という当時の日本の過ちは、近衛だけの問題ではなかった。

当時、日本が開戦に傾いた理由の一つに、欧州でのナチス・ドイツの進撃があった。41年6月には独ソ戦が始まり、ソ連を仮想敵と考えてきた日本のなかで、開戦論が強まった。ただ、米政府は41年11月には、ソ連への武器貸与などの物資援助を決めていた。ソ連が大規模な反攻作戦を始めたのは、真珠湾攻撃の直前だった。

近衛は、行き詰まった日米交渉を打開するために、ルーズベルト米大統領との首脳会談に期待を寄せて尽力したが、結局、米国側が消極的な姿勢に終始して実現しなかった。庄司氏は、もし日米首脳会談が実現していれば、仮に合意に至らなかったとしても時間稼ぎになり、日米開戦の時期が遅れ、独ソ戦の情勢変化もあって、日本は簡単に開戦できない状況になっていた可能性があると指摘する。

日本外務省の元高官は「陸続きで戦争を繰り返してきた国と比べ、日本はどうしても国際情勢を把握する力が劣る。中国との間で緊張が高まっている現代に置き換えてみても、グローバリゼーションが進んだ世の中で経済制裁を加えることの限界や、中国自身が持つ巨大な経済力への洞察がきちんとできているだろうか」と語る。日本の安全保障政策は憲法問題や財政の問題からなかなか進まない。同時に中国との外交も、中国を猛烈に批判する強硬論者の声に押され、こちらも進展がみられない。

■「この戦争は負ける。どう負けるかだ」

荻外荘を背景にした防衛研究所の庄司潤一郎研究幹事=牧野愛博撮影

12月8日午前6時、米英との戦争開始を告げる大本営発表が行われた。午前7時、ラジオの臨時ニュースで放送されたが「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と告げるだけで、具体的な場所も戦果も伝えられていなかった。

庄司氏によれば、この時点では市民は戦争を告げる報道に緊張し、状態を見極めようとする空気が強かった。むしろ、知識人は歓喜して迎えた。例えば、同年詩集「智恵子抄」を刊行した詩人の高村光太郎は12月8日、「頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた新しい時代の到来だ」と記していた。庄司氏は「泥沼に陥っていた同じアジア民族の中国との戦争の意味について苦悩していただけに、英米との戦争には大義があるという考え方だった」と語る。

その後、8日昼前後から、ハワイやマレー半島、香港、グアムという地名が伝えられ始め、午後には「大戦果」という報道が流れる。国民は狂喜した。朝日新聞は12月9日付夕刊(12月8日夕発行)の1面に「帝国の対米英宣戦」と題した社説を掲載し、「宣戦とともに、早くも刻々として戦捷を聞く。まことに快心の極みである。――いまや皇国の隆替を決する秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである」と述べていた。

近衛は望まなかった対米戦争が始まったことから、真珠湾攻撃を冷めた目で眺めていた。開戦直前に首相職を辞した自分を「臆病者」「卑怯者」と呼ぶ政界やメディアに対し、「やはりこのまま勝つと信じているのですかな。来年(1943年)の年賀式には何と僕に挨拶することだろう」と反論した。

また12月8日、真珠湾攻撃の当日、「この戦争は負ける。どうやって負けるか、お前はこれから研究しろ、それを研究するのが政治家の務めだ」と、側近に語っていた。翌42年1月、近衛は木戸幸一内大臣に、戦争終結の時期を早急に検討すべきであると強調した。木戸は、2月5日天皇に拝謁、「大東亜戦争は容易に終結せざるべく、一日も早く機会を捉へて平和を招来することが必要」と上奏している。

近衛は1943年夏ごろから、積極的に終戦工作に乗り出す。45年2月には天皇に宛てた近衛上奏文で、一日も早い戦争終結を訴えた。庄司氏は「五摂家の筆頭として、天皇制を守りたい意識が働いたのだろう。東条内閣の打倒や終戦に、近衛が果たした役割は大きい」と語る。
そして、近衛は終戦後の45年9、10の両月、マッカーサー連合国最高司令官と面会した。マッカーサーは近衛に対し、憲法改正の必要性に言及。近衛は天皇の了承を得て、憲法改正作業に着手した。

だが、同年10月ごろから、近衛の戦争責任を問う論調が新聞報道で散見されるようになり、近衛に対する批判は国内外に波及していった。GHQもこうした流れを受け、近衛をA級戦犯として逮捕する方針に変わった。庄司氏は「近衛は、最後の瞬間まで米国に一縷の望みを抱いていた。戦犯指名は信じていた米国に裏切られたという思いも大きかっただろう」と話す。検視のために荻外荘を訪れた米軍将校が、近衛の遺体を睥睨した写真が残されている。

近衛は遺書にこう書き残していた。「僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知己が存することを確信する」

近衛文麿の自殺後、荻外荘に土足で上がり込んで警戒する米兵=1945年12月16日

■先の戦争をどう呼ぶか

庄司氏によれば、日本の学界では戦後80年近く経った今も、先の戦争をどう呼ぶかについて論争が続いている。
一部の専門家は、近代以降の日本の大陸政策の帰結として米国との戦争に至ったとその連続性・一貫性を強調する立場から、一連の戦争を「アジア太平洋戦争」と呼び、近年、「太平洋戦争」という名前に代わって普及しつつある。一方、近衛文麿のように、中国での戦争を支持する一方、対米戦争の回避に動いた政治家らもいた。対米戦までにはいくつかの岐路・選択肢があり、そのいずれかを選ぶことによって開戦に至ったとして、連続性を批判する見方もある。
また、「アジア・太平洋戦争」とする場合、戦争がいつ始まったかについて、満州事変、盧溝橋事件、真珠湾攻撃など諸説がある。表記もアジアと太平洋の間に・を挿入するか否か統一されていないなど、歴史用語として問題点を抱えているという。
庄司氏は「戦争の実態など総合的に勘案して、1941年12月8日に始まった戦争を、原点に戻って『大東亜戦争』と称することも、戦争肯定という意味合いではなく、一定の妥当性を有しているのではないだろうか。いずれにしても第2次世界大戦中の戦争の名称が決着していないのは日本くらいだ。戦争をどのように認識するのか、依然、論争が続いているという証拠だろう」と語った。