10年前の東日本大震災により発生した津波は、環太平洋火山帯の反対側に位置するカリフォルニア州北部のクレセントシティにも達しました。岩手県立高田高校の実習ボート「かもめ」が太平洋を横断し、サンフランシスコから車で7時間ほど離れたクレセントシティに流されてきたのは、震災から2年もたった2013年4月。海岸をパトロール中のビル・スティーブン巡査が泥だらけとなったボートを発見しました。地元デルノート高校に当時通学していた息子のジョンにボートの清掃を提案すると、ジョンは協力してくれる友達を募り6人でボートにブラシをかけ始めました。
Facebookを通じて高田高校の海洋システム科の実習に使用されていたボートだったということが判明。そこで、「ボートを返してあげよう」プロジェクトが立ち上がり、高校生たちが募金を集めて日本郵船の輸送協力のもと無事高田高校に返還されることとなりました。当時の関係者曰く、「ビューティフル・エピソードとしてそこで話が終わる予定だった」のですが、このことがきっかけとなり2018 年4月、陸前高田市とクレセントシティは 姉妹都市協定を締結します。
姉妹都市のモデルケース
高田高校とデルノート高校の高校生が相互に訪問する交流が始まりました。在京アメリカ大使館などから助成金を獲得し、訪問する人数も規模も大きくなっていきました。そのうち地元ビール醸造所が「かもめ」にちなんだKamome Aleを発売。カリフォルニアで最も古いチーズ製造会社のルミアノ・チーズが、自然な材料で作るオリジナルチーズ「Kamome」 の製造にとりかかります。売り上げの一部は両市の高校生の交流に使おうという目的です。「せっかくなので、チーズを作るのに必要な塩は陸前高田の塩で」と望まれるも、陸前高田では塩の製造をしていないため、岩手県野田村産の塩で開発が進められました。
東日本大震災後に陸前高田市に移住した坪井奈穂美さんがこの話を聞き、「このチーズは陸前高田の塩でなければいけない。子供たちの交流に役立てたい。産業面でも高め合い、何かビジネスに繋がることができたら」と一念発起。クラウドファンディングで資金集めに成功し、まきストーブで海水を煮詰めて塩を作り、11キロの塩がクレセントシティに送られました。一部の塩は、陸前高田に「磁石のように引き寄せられ」英語をボランティアで時折教えに行っていた、シリコンバレー駐在中の神谷佳典さんと友人によって直接届けられました。
この両市が姉妹都市関係のモデルケースとして評価が高いのは、主役が高校生なこと、そして、高校生から始まった交流が自治体間の交流に発展し、具体的なビジネスに繋がっていること、つなげようとしている試みの側面が大きいと言えます。
瓜二つ?陸前高田とクレセントシティ
クレセントシティは、サンフランシスコから車で7時間離れたカリフォルニア北部に位置した海沿いにある人口7,000人弱の小さな町です。「地形的にも産業的にも、カルチャー的にも私たちは瓜二つ、違うのは言葉だけ」と陸前高田を訪れたクレセントシティの住民は口を揃えて言います。山があり、海があり、大都市から遠く離れている。そして、両住民の地元愛が非常 に強い。この二つの市の友好が深まったのはとても自然な流れだったそうです。
クレセントシティには、2年制の小さなカレッジはありますが、4年生の大学は近くても車で3時間はかかります。クレセントシティの高校が卒業後に4年生の大学に進学するのは全体の約20%程度。残りの80%は、2年制の地元のカレッジに進学するか、オンラインで勉強を続けるか、ほとんどが地元で就職します。酪農、林業、国立公園などの政府系機関、建設業、そして、最大の雇用主はペリカンベイ州刑務所と病院です。若い世代への雇用創出は両市の抱える課題です。
「この話は美談すぎる」。私は最初、そんなうかがった視点で関係者に話を聞き始めました。高校生がなぜブラシを持って掃除しようと思ったのかも疑問でした。自分の子供や周囲の高校生に同じ話をもちかけても乗ってきてくれたかどうか分かりません。大学に出願する際には成績や共通テスト以外に課外活動で何をしていたかがポイントとなるので、有利に評価されるためかな、と憶測したりました。でも、デルノルト郡・教育委員会事務局長のジェフ・ハリス氏に話をうかがった際、その疑問が解けた気がしました。
クレセントシティは70%が貧困層で経済的に決して豊かな市ではありません。経済格差が激しいので、シリコンバレーから2時間も車で離れるとそういった地域は多くあります。それでも、クレセントシティでは個人、企業、非営利団体などから毎年三千万円以上の募金が集まり大学に行きたいと希望する生徒全員が進学できるシステムを構築しています。ハリス氏は数年前に他の地域からクレセントシティに赴任してきたので、住民の寛大さとコミュニティーの結束に驚いたそうです。クレセントシティと陸前高田の住民の温かい人柄、寛大な心というのが最大の共通点の一つです。実際に陸前高田を訪れた高校生たちも、「Google 翻訳を使うときもあったけど、自然と高田高校の高校生とはコミュニケーションできた」と言っていました。
クレセントシティにも津波到達。住民は夜中から避難開始、湾岸施設と船舶が破壊
東北から遅れること10時間後、クレセントシティを襲った津波は、湾岸施設と船舶を破壊し、約34億円規模の被害をもたらしました。そして、1名が津波の犠牲となりました。夜中にサイレンがなり、低地のダウンタウンに住む住民は深夜2時ごろから避難を開始し、朝方になって津波が到達した後ほぼ1日避難を続けました。東日本大震災では、関東にかけて東日本全体が影響を受けました。電車が止まって10キロ歩いて帰宅した、高層階の会議室で揺れを感じ机の下に隠れた、急いで子供を学校まで迎えに行ったり「10年前、あのとき何してた?」という記憶は自身が混乱を体験した分、鮮明に残っている人が多いように思います。クレセントシティの住民も実体験として同じ津波、同じ恐怖を体験したことによって、陸前高田への共感と絆がさらに深まりました。クレセントシティもまた、1964年の津波では北米最大の被害を受けています。
姉妹都市とこれから
カリフォルニアは60都市以上と姉妹都市協定を結んでいます。姉妹都市によくありがちなのが、締結したあと2、3年は盛り上がり交流があったとしても、時間がたつにつれフェードダウンしていくパターン。お互いの市長や教育委員会のトップが変わった、基本的にボランティが運営していることが多いので活動できる人がいなくなった、など要因はいろいろですが、クレセントシティもそのことを懸念し、継続的な交流を構築したいと、次の一手を考え始めています。
例えば、陸前高田の若い世代がクレセントシティの農園や牧場で働きながら1年間ファーム留学し、日本ではまだ普及していない大規模な商業レベルのオーガニック農園の技術を持ち帰り、地元で活かしてもらうという案。これはとてもナイスアイデアだと思います。外食産業を展開するワタミが陸前高田に整備を進めている、東京ドーム5個分の広さの農業テーマパーク「オーガニックランド」の事業ともしっくり馴染みます。継続的に高校生たちが1年ごとに行き来する機会があるのも素晴らしいです。ボートを清掃したオリジナルメンバーの一人のジョンは、「陸前高田を訪問したのは、自分の人生の中で一番大きなできごとだった。世界の見方が変わったと思う」と語ります。若い世代というのは感度も感性も高いので、大人の強力なバックアップのもと姉妹都市の主役は我々の将来を担う若い世代が中心になるべき、と実感しました。
それにしても、日本とはそれまで何の縁もゆかりもなかったアメリカ人が大人も高校生も、陸前高田との姉妹都市について熱量高く語るパワーには圧倒されます。ニューヨークで国連の行事に参加したり、キャロライン・ケネディー元大使と面会したり、NBCが製作したドキュメンタリーKamomeでインタビューを受けたり、陸前高田を何度も訪れたり、小さな町の中でボートのかもめに携わった住民の生活は大きく変化しました。彼らは言います。「僕たちがかもめを見つけたのではなく、かもめが僕たちを見つけたんだと思う」