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被災地を歩く  「司令塔」は何をしたか

かさ上げ工事が進む宮城県南三陸町。高台には、かつての街並みを示した写真が掲示されていた=江渕崇撮影

■「司令塔」は何をしたか

三陸の津々浦々が、土煙にかすんでいる。山々は削られ、平地にはうずたかく土砂が積み上がる。浜には城壁のような防潮堤が姿をあらわし始めた。道路敷設に河川の護岸、トンネル掘削。土木工事が、視界を覆う。

江渕崇撮影

私は宮城県で生まれ育った。小学生のとき、釣りや海水浴に連れていってもらった三陸海岸は、ひなびた街並みや海水の澄んだ青が記憶に残っている。

いま目の前にあるのは、高度成長期のニュータウン造成を思わせるような異風景に見えた。あらたな都市の創造に近い大事業が、高齢化し人口も減っている被災地のあちこちで進んでいる。「安全なふるさとに住みたい」。多くの被災者の願いを、形にするために。

内陸に点在する仮設住宅をいくつか回った。「今日は暖かいですね」。岩手県陸前高田市で、ベンチでひなたぼっこするお年寄りに声をかけた。水野直(ただし)さん。今年で93歳になるという。「お茶っこでも飲んでいぐが」。部屋のこたつに入れてもらうと、妻の常子さん(85)が白菜漬けやお茶菓子を食べきれないほど並べてくれた。

■仮設住宅に63000人

関東大震災のあった1923年に東京で生まれた水野さんは、戦時中に疎開してきた。市内を流れる気仙川の河口に近い今泉地区に70年近く住んだ。そしてあの日、高さ約15メートルの大津波が家を押し流した。

壁の薄い仮設暮らしは、小さな物音をたてるのもはばかられる。「そりゃあ、家にいだようにはいがんよね」。日の光があまり入らず、縁側もない仮設の部屋は牢屋みたいだ、とも言った。今泉では、宅地の造成が進む。そこに家を建て直すつもりだったが、難工事で何年もかかると聞き、あきらめた。来年できるという復興公営住宅に入るつもりだ。

東日本大震災からもうすぐ5年。復興には10年間で計32兆円が使われる見込みだ。単純計算で被災者1人あたり約6800万円になる。それでも、原則2年間とされたプレハブ仮設住宅にまだ6万3000人が暮らす。

震災の後、「復興の司令塔」を期待されて発足した復興庁は、何をしてきたのか。そもそも、どんな体制や権限を備えていたのか。冬を迎えた被災地と、東京の官庁街を行き来しながら、この復興のありようを考えた。(江渕崇)
(文中敬称略)

震災から5年、東北地方三陸沿岸の津波被災地を歩いた(撮影:江渕崇、機材提供:BS朝日「いま世界は」)

■「査定庁」と呼ばれた復興庁

かつて仙台藩の出先が置かれ、白壁の蔵が立ち並んだ陸前高田・今泉の街は、大津波があらかた流し去った。市全体で1757人が亡くなったり行方が分からなくなったりした。全半壊した住宅は、全世帯の半分の約4000戸にのぼった。

市は、高さ120メートルあった今泉の山を45メートルまで削って宅地をつくり、その土砂で津波をかぶった低地もかさ上げすることにした。川の向こう側の旧市街地も土盛りしようと、橋を架けて東京ドーム4杯分の土砂を運んだ。計300ヘクタール、今回の復興で最も大がかりな土地区画整理事業だ。約1100億円の費用の大半は、復興庁が窓口になる「復興交付金」でまかなう。

2015年12月、陸前高田。今泉地区の高台から海側を臨む。中央やや右に「奇跡の一本松」が見える=江渕崇撮影

「原資は税金です。現実を直視してほしい」。復興庁が問題にしたのは、震災のあった11年末に市がまとめた復興計画だった。復興後の人口目標を、震災直前の約2万4000人よりも多い2万5000人台と定めていた。

市長の戸羽(とば)太に、わけを尋ねた。「みんなぼろぼろになって泣いていたんです。住む人を元気にするのが復興の目的。人口が増えるぐらいがんばろうよ、と」

ただ、足元では人口流出が続き、ほぼ2万人にまで減った。復興庁の幹部らが何度も訪れ折衝した。高台の区画は元の1047戸から15年初めには659戸まで縮小した。住民に意向を聴くたびに、高台に移りたい人が減っていった。市長の戸羽は、いまも割り切れないようだ。「元の計画がムダだったわけではない。復興の先が見えないから、待っていられない人が出てきた」

復興交付金は、国の復興予算全体の2割に満たないものの、被災自治体が街づくりを進めるための中核となる仕組みだ。

最初の配分が決まった12年3月、宮城県知事の村井嘉浩は、前月に発足したばかりの復興庁を「査定庁」と呼んだ。申請額の6割しか認められなかったことを批判したのだ。「国を突き動かすには、インパクトのある言葉で世論を味方に付ける必要があった」と村井。その狙い通り、「憤る被災地」と書いた朝日新聞などメディアは復興庁に批判的に報じた。自治体の苦情も殺到した。

「どうしてここまで言われないといけないのか」。初代の復興相となった平野達男は、担当幹部が涙を流して訴えてきたのを覚えている。平野は「たたかれてもいい。いらんものは全部切れ」と命じていた。自治体の要望はその後も多岐にわたった。観光用のロープウェー。大型の野球場。ある首長は打ち明ける。「正直に言えば、復興の名の下に、いろんなものをつくろうとした」

災害復興は、元の状態に戻す「原状復旧」が基本だ。復興庁はその大原則は維持しつつ、元の場所が危険な場合はよそで再建することや、金額が大きく変わらない限り、以前より高度なものをつくることを認めた。ただ、どこから先はダメなのか、線引きははっきりしていない。

宮城県気仙沼市は、用地を整えないと企業誘致などおぼつかないと考え、津波をかぶった土地のかさ上げを相談した。しかし、復興庁の担当者は「先に誘致企業を見つけてほしい」と求めた。空き地のまま放置されることを恐れたからだ。

■「かけ声は復興、実際は復旧」

気仙沼市長の菅原茂は言う。「かけ声は復興だが、実際には復旧を超えていない。正当な事業だと認めてもらうために、時間を費やしてきた」。自治体には「査定庁が、復旧庁になった」と揶揄する声がある。一方、以前復興庁の幹部だった官僚は「自治体の声が強く、結局は押し切られることが多かった」と言う。

攻防の背景にあったのが、復興費用を全額国が負担するという仕組みだ。阪神・淡路大震災では、がれきの処理にも地元自治体の負担があった。地方負担ゼロは異例の対応だった。

阪神大震災のとき兵庫県幹部で、自民党が政権復帰した12年に復興副大臣に就いた谷公一は在任中、ある自治体幹部の要望に思わず語気を強めた記憶がある。復興交付金でつくった市町村道の維持管理費も、国が全額出し続けてほしいという。「自分の施設すら自ら維持できない自治体は、存在意義が問われますよ」

潮目が変わったのは14年の夏。自民・公明両党の復興加速化本部が8月に出した提言は、「住民や企業が自らの力で発展する『自立』を目指さなければならない」とうたった。9月の内閣改造では、福島県選出の根本匠に代わり、島根県選出の竹下亘が復興相に就いた。被災地選出でない復興相は初めてだった。(江渕崇)
(文中敬称略)

■象徴としての地方負担

2014年秋の朝。東京・紀尾井町のホテルニューオータニにある日本料理屋「なだ万」に、復興相に就いた竹下亘、副大臣の長島忠美、副大臣から大臣補佐官に転じた谷公一ら与党議員たちの姿があった。政治家だけで早めに話をしておきたいと、竹下が開いた朝食会だった。

「すまんが、君らは悪役になってもらう」と竹下が切り出した。「私の在任中に地方負担を入れる。恨まれるかもしれないが、協力してほしい」

長島はかつて、新潟県の旧山古志村長として新潟県中越地震からの復興を指揮した。谷も阪神大震災の復興にたずさわった。2人とも、自治体も負担しながら復興したという自負がある。異論は出なかった。

竹下は建設会社幹部からこんな話を聞いていたと語る。「国のお金で道路も橋も公民館もつくれますよ」と被災地を営業して回ると、「タダなら全部やって下さい」という自治体もあった──。

一方、復興庁の官僚たちも水面下で準備を進めていた。「自己負担があれば、必要な事業を真剣に選んでもらえると考えた」と当時の幹部はいう。地方の負担額を「スズメの涙ほどでも」と表現した。

■受け入れやむなしという本音

「集中復興期間」の5年を総括し、その後の5年間の枠組みを固める時期が近づいた15年の春先、復興庁は動き出す。まず竹下が国会や記者会見、テレビ番組で「地方負担」を小出しにしていった。非難が相次ぐ。「被災地を切り捨てるのか」「傷口に塩を塗るつもりか」

長島や谷らが、「説得役」として被災地を回った。首長や議長も、一対一で会えば「いつまでも全部国費が難しいのは分かっています」という反応だったという。谷は3月末、A4で4枚の独自の調査結果を竹下に伝えた。被災3県の財政が震災後もさほど悪化していないと、阪神大震災時の兵庫県と比べて市町村別に示した。

地方負担を求める方針は5月に正式に発表された。河北新報(本社・仙台市)は社説で「被災地には失望と困惑が広がっている」と批判。岩手日報も「復興のブレーキになる」と論陣を張った。

受け入れやむなしという本音と、被災地世論の間で揺れる自治体。流れを決めたのは、宮城県知事の村井嘉浩だった。

5月26日、被災3県の知事と復興庁幹部らが勢ぞろいした復興推進委員会。議事録によると、地方負担について「遺憾」と述べていた村井は、会議の最後に突然こう呼びかけた。「十分納得していないけれども、その方針で合意したと記者発表できないか」。岩手県知事の達増拓也、福島県知事の内堀雅雄からは、その場で「違和感がある」など異論が出たが、1カ月後、3県知事は地方負担の受け入れを決めた。

その理由の一つは、「実際の負担額がそれほど大きくないと分かった」(宮城県沿岸部の首長)ことだ。宅地や市街地の造成、公的施設の再建など中心的な事業は、引き続き全額国費でみる。青森と宮城を結ぶ三陸沿岸道路など巨大道路の建設まで、地元の負担なしで決着した。対象となる地域振興などの事業も負担率は1~3%ほど。新年度から5年間の復興予算6.5兆円のうち、地方負担は計220億円程度にとどまる見込みだ。

■しわよせは被災地の若い住民に

それでも、「震災5年」を総括した結果の地方負担導入に、自治体には不満がくすぶる。

自治体職員は、土地区画整理などを進めるのに必要な地権者全員のハンコを得るため、いまも全国を飛び回る。「国が法律を改正してくれれば」(岩手県宮古市長の山本正徳)と首長たちは口をそろえる。「5年たってここまでしか復興できていないことも総括してもらわないと、気が収まらない」。陸前高田市長の戸羽はまだ納得しきれない様子だった。

自治体との約100日の攻防の間、復興庁は「復興には支障を来さない」(前復興相の竹下)と言い続けた。地方負担は「被災地も身銭を切った」ことを示す象徴的な意味が大きいと、多くの関係者が認める。大がかりな土木工事で安全性を高め、被災者がふるさとに再び住めるようにする、という大枠自体は変わっていない。

エコノミストの原田泰(現・日本銀行審議委員)や、一橋大学のマクロ経済学者、齊藤誠らは、政府が震災直後に出した被害推計(16兆?25兆円)が実態に比べて過大だと指摘してきた。この推計も根拠にはじき出された復興予算は、当初の5年間19兆円から、自民党の政権復帰を経て25兆円、そして10年間32兆円へと膨らんでいった。

齊藤はこう警告する。「費用対効果を考えない事業に、社会の資源を浪費した。一番の被害者は、過大な施設の維持管理コストを将来負担させられる被災地の若い住民だ」(江渕崇)
(文中敬称略)

■なぜ時間がかかるのか

陸前高田市の今泉地区は、みそ・しょうゆ造りが盛んだった。100年続く小島麹店もその一つ。代表の小島智哉(39)は、自宅兼工場が流され、途方に暮れていた。半年ほどして、警察から電話がかかってきた。津波で流されたカバンが見つかったという。約500人分の顧客名簿や預金通帳が入っていた。「これで、みそ造りを再開できる」と喜んだ。

津波で流された小島麴店の顧客名簿=小島麴店提供

市から仮設工場を借り、補助金で設備も新調。14年春にみそをつくり始めた。「昔と同じ味だね」という得意客の笑顔に、今泉で本格再建する決心がついた。

ところが、街づくりに思ったより時間がかかるとわかった。土地が整うのは18年度。家や工場を建てるのはそれからだ。一方、仮設工場を借りられるのは18年12月まで。造成が間に合わなければ、廃業するしかないと小島は言う。

被災地全体では、高台移転しない地域を中心に産業復興が進みつつある。なぜ、陸前高田のように時間のかかる場所も残るのか。復興の大枠を定めたのは、民主党の菅直人政権が設けた「復興構想会議」だ。震災3カ月後の11年6月、防潮堤や土地のかさ上げ、高台移転などで安全を確保するという提言をまとめた。

いずれも大規模な土木工事を伴い、費用も時間もかかる。避難道を整えたうえで元の場所に住む、被災者にお金を配って自力での再建を促す、といった選択肢は示さなかった。自治体も提言に沿って復興計画を練った。この時点で、復興の長期化は避けがたかったというのが、今回話を聞いた関係者のほぼ一致した見方だ。

宮城県石巻市の県道沿いに連なる仮設住宅=江渕崇撮影

構想会議の議長を務めた政治学者、五百旗頭(いおきべ)真は「何度も津波が命を奪ってきた地域で安全な街ができつつある。歴史上でも画期的な成果だ」と話す。ただ、被災地で目の当たりにした工事の規模は「想定を超えていた」とも語った。「10年かかる復興で人がいなくならないよう、魅力的な街にできるかが問題だ」

震災翌年に発足した復興庁にとって、構想会議の提言は「バイブル」(事務次官の岡本全勝)に等しい。立命館大学の都市工学者、塩崎賢明は「公共工事に巨額予算を流す路線が敷かれたところに、やっと復興庁が登場した。司令塔といっても、権限は限られていた」とみる。

高台で土地の造成が終わった岩手県宮古市の田老地区=江渕崇撮影

「高齢者も多い被災地に、大がかりな復興が本当によかったのか」。復興庁で参事官を務めた他省庁の幹部は、その思いを表だっては言えなかったという。

いま、首長たちは人口流出への恐怖を口にする。岩手県大槌町は、人口が震災前から2割以上減った。約1000戸の復興公営住宅も、いずれ空き家だらけになるおそれがある。町幹部だった平野公三は、昨年の町長選で復興事業の見直しを訴え、現職を破って当選した。

「震災直後は、一寸先は闇という怖さにおびえていた」と平野は言う。「でもいまは現実が見えてきた怖さがある。今の方が、よほど怖い」(江渕崇)
(文中敬称略)

■この道に「次」はあるか

私は震災の10日ほど後、宮城県女川町に入って取材した。印象に残ったのは、押し倒されたビルやぺちゃんこの自動車といった破壊の傷痕よりむしろ、軍手をして自宅や路上のがれきを黙々と片付ける人たちの姿だった。

今年1月4日、女川を再び訪れた。駅前は整備され、海を望む通りを人が行き交う。「フラワーショップ花友(はなゆう)」では、店主の鈴木千秋(57)が忙しそうにピンクのバラと薄紫のスイートピーでアレンジメントをつくっていた。向かいの飲食店の開店祝いだという。

新年の「初売り」を迎えた宮城県・女川駅前の商店街「シーパルピア女川」=江渕崇撮影

震災から4カ月後、5坪ほどの仮設店舗で営業を再開した。「瓦礫に埋まり色彩を失った街に彩りを取り戻す」と誓った。娘は大学を退学して手伝ってくれた。昨年末に街開きした商店街に20坪の店を構え、同時に住まいも仮設から復興公営住宅に引っ越した。「いろいろな人たちに支えられて、やっとここまで来ました」

女川では、中心市街地のかさ上げ工事が進んでいる。企業への補助も含め、街の復興には計2500億円が投じられる。「国民から2000円ずついただいた。その価値があったと思ってもらえる街づくりをする」と町長の須田善明は話した。震災前の約1万から6300まで人口が減り、「時間との戦いだ」と言う。

「500年後にまた多くの人が死なないように」

巨額の費用と時間をかけて街を造り直す。復興の枠組みが固まったのは、行方不明者の捜索が続いていた頃だ。与野党や多くのメディアにも、大きな異論はなかった。ただ、震災から5年が経とうとする被災地を歩いて、疑問がぬぐえなかった。「この道」しかなかったのか、と。

意外だったのは、防潮堤の増強や高台移転を訴えてきた宮城県知事、村井嘉浩の答えだった。街を丸ごと造りかえなくても、元の土地での再建を認めれば、人が今ほど流出せず、圧倒的に早く、安く復興ができただろう。そう、あっさり認めた。それでも「500年後にまた多くの人が死なないように」と今回の道を選んだという。

ただ、日本で想定されている「次の大災害」は東北だけではない。例えば南海トラフ巨大地震。最悪で死者は約32万人、経済損失も220兆円に達すると国は推計する。東日本大震災の10倍以上だ。関東から九州に及ぶと想定される広大な範囲の復興を、今回のような方法でやり通すのは難しい、と多くの関係者が口をそろえる。

村井はこう言った。「また場当たり的にやったら、おそらく前にならえになる。それでいいのかどうか、被災者の声をもう一回聴いて、今回の復興をよく検証しておいたほうがいい」(江渕崇)
(文中敬称略)