――どんなNPOですか?
この地域は9つの町が合併して2005年に登米市になりました。だから、ナイン・タウン。漫画家・石ノ森章太郎さんのふるさとである旧中田町で、このNPOが2010年に設立された当初は、公共施設の指定管理を受けたり、介護事業所を運営したりすることを想定していました。しかし、結局どちらもやらず、コミュニティづくりの活動をするようになりました。
――復興とはどう関わり始めたのでしょう?
震災直後、知り合いを通じてNGO「公益社団法人アジア協会アジア友の会」から、「被災地に支援に入りたいので、受け入れ先の手配をして欲しい」という要望がありました。そこで、社会福祉協議会や県合同庁舎、NPOセンターなどに振ればいいだろうと思って動いたのですが、たらい回しされてしまって……。「だったら、ナイン・タウンの事務所で引き受けるしかないな」と腹をくくった途端、地元の区長さんが「体育館を使えばいいよ」と言ってくれた。未経験のことでも自分事にすると、物事が進むことに気づかされました。
――被災地ではどんな活動を?
3月19日に隣の南三陸町歌津地区に入り、炊き出しや配食などの活動を始めました。1年間はNGOの登米事務所長として雇用されていたのですが、その間、NGOのプログラムリーダー、松井聡子さんらの熱い志と行動力や創造力には大いに刺激を受けました。
緊急支援を続ける中でモノのニーズが満たされてきて、次第に自立に向けた地域コミュニティの再建が地域の声として出始めました。そこで、持続可能な仕組みを創るために、海産物や野菜など地場産品の直販所「みなさん館」と農産物加工場「石泉ふれあい味噌工房」を立ち上げるお手伝いをしました。資金は、ジャパン・プラットフォーム(国際協力NGOをサポートする中間支援組織)を通じて提供を受けました。いま、運営は、地元住民で組織してもらったNPO「夢未来南三陸」が担っています。
――地元でも、被災者支援をしているのですか?
昨年2月の調査では、南三陸町を中心とした沿岸部から、登米市に1000人を超す方々が移転しており、仮設住宅にはまだ300世帯以上が残っておりますが、すでに出た人も沿岸部には戻らずに移住を決めた人が多い。しかし、市としては状況を把握しておらず、市民として受け入れる体制も整っていない現状なのです。
私も、被災者と地元住民との間に見えない壁があるように感じていました。交流を図る必要があると考え、耕作放棄地を使って一緒に農作物をつくる活動を立ち上げたのです。こうしたコミュニティ形成を、いずれ行政と一緒にやっていけたらとも考えていました。
――そこで、復興庁との接点ができたのですね。
そうです。最初は、復興庁の「被災者の健康・生活支援に関する総合施策」の中の「心の復興事業」を登米市に申請してもらえるように交渉しました。ところが市役所の担当者が交付金の情報を知らない。また、市の予算編成のサイクルとずれているという理由で、申請は難しいと……。
そこで、復興庁と直接、委託契約を結ぶ「心の復興事業」に応募して、今年度は400万円の業務委託費を受けて事業に取り組んでいます。ただ、国との委託契約というのは、事業が終わった後にしか委託費が払われない。このため事業をしている間の資金繰りが大変なのです。半分でもいいので、概算払いしてくれると助かるのですが。
――地元自治体との協働は課題が多いのですか?
行政と接点を持つ難しさを痛感しています。復興庁の交付金は、地元負担のないお金。ところが、これを使って市役所がNPOと連携するための「要項」がないので、つくってもらわないといけない。行政では「前例がない」ことは大きなブレーキになってしまう。ですから、市民の方から「できる方法」と「受け皿づくり」を提案していく必要があると思います。どこの自治体も職員を削減していて大変なのはわかります。でも、だからこそNPOを育てるために地元人材に投資して、協働する仕組みを創って欲しい。私たちは地域のために働く意欲とスキルがあるのですから。
私たちの地元でも人口が減り、みんな総論では「対策を打つべきだ」「賛成だ」と言います。ですが、いざ「空き家の活用」や「直売所設置」といった各論になると、他人に振ろうとしてしまう。復興庁に限らず国は、「地方創生」に力を入れていて、「NPOや住民グループと連携してやってください」という補助事業をつくっている。まずは受け皿を作ってどんどん活用し、行政と市民が総力をあげてコミュニティ形成のスキルを上げていくしかないと思うのです。