1円携帯電話発売、1900円のユニクロのフリース大ヒット、ヨン様(ペ・ヨンジュン)がけん引した韓国語学習ブーム。最近、日本のテレビや新聞に連日登場しているのは、過去30年を象徴する社会現象だ。
東京の街中を歩くと、過去に戻ったような感覚にとらわれる。どこに行っても、平成時代の懐かしさを刺激するようなマーケティングであふれている。山崎製パンは1990~2000年代にはやったヒット商品を集め、限定販売。芳林堂書店には、故小渕恵三元首相が官房長官だった1989年1月7日の写真がかかっている。この日、小渕官房長官は新しい元号「平成」を発表し、今上天皇が即位した。
今上天皇が来月30日に退位すれば、平成時代が終わる、30年間、日本が歩んだ道を平和、デフレーション、災害の三つのキーワードで整理してみよう。
近代化以降、唯一の「平和」時代
元号は特定の天皇の年代につけられる称号を意味する。天皇一人に対して一つの元号をつけるが、これを「一世一元」と呼ぶ。645年、大化から元号が使われるようになった。平成は「平和を成す」という意味だ。国の内外、天地の平和が達成されるという意味が込められている。日本人が挙げる、平成の30年間の最も大きな特徴も「平和」だ。明治(1868~1912)、大正(1912~1926)、昭和(1926~1989)時代、日本は戦争をした。平成は、日本の近代化の最初である明治維新以後、約150年の間で唯一戦争のない時代だった。天皇陛下も、先月24日、最後の在位記念式で「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」と述べた。
5日、神奈川県の川崎市平和館を訪ねた。展示館の2階の天井には、太平洋戦争時、米国が大量に投下したM69焼夷弾の模型が火の粉を散らして落ちてくる状況が作られていた。両側には1945年4月の大空襲で倒れた川崎市の建物の模型もあった。記者を案内した専門調査員の暉峻僚三さんに「平和博物館なのに戦争の資料が多い」と言うと、暉峻さんは「訪問者に平和という概念を深く理解してもらうために、わざと戦争の資料を展示している」と、ずっしり重い答えが返ってきた。さらに「全世界には120余りの平和博物館があるが、このうち30余りが日本にある。日本は加害者と被害者の歴史を両方持っているため、平和に対する思いが強い」と話した。
団体で訪問した小中学生もたくさんいた。学校の授業の代わりに平和博物館を見学しているのだという。小学生の頃から自然に平和の大切さを学んでいるのだ。
日本の政界にとっては、平成はどういう意味を持つのだろう。官房長官時代に日本軍の慰安婦の強制募集について公式的に認めた「河野談話」を発表した元自民党総裁の河野洋平氏(82)は5日、朝日新聞のインタビューに「この30年の政治を大づかみに言うと、よかったと思っています。戦争をしなかったからです。91年の湾岸戦争で米国からの要請で前のめりになった場面もあったが崖っぷちで踏みとどまった」と話した。
デフレ後登場した新人類「ワンマイル族」
平成が始まった1989年、日本は天を衝く勢いだった。世界2位の経済大国となった日本は、米国の不動産や大きな会社を家電を買うように買った。米国の企業も先を争って「日本に学ぼう」と、ソニーやトヨタの工場を視察した。しかしながら、1990年代初め、バブルが崩壊し、日本は非常に長いデフレーションを経験することとなった。
1989年に生まれた子どもたちは、今年30歳だ。生まれてからずっと日本の経済が委縮していた時期を経験してきた「新人類」のような存在だ。デフレは家族の形態も変化させた。未来が不確実な中、結婚して子どもを産み育てるのは、いわゆる「コスパ(コストパフォーマンス)」が悪いという思考に至った。
単身世帯は、日本の市場の主要消費者だ。食品企業は相次いで1人前食品の発売を増やしている。日本人が好きなカレーを見ても分かる。ある調査によると、2017年、初めて1人前レトルトカレーの販売額が家族用サイズのカレールーを上回った。NHKの代表的な料理番組「きょうの料理」も時代の変化を反映している。2000年代半ばまでは4人分を基準にしていたが、2009年には2人分、今は1人分のメニューも紹介している。
「小さくても確実な幸せ」を追求する雰囲気も広まった。2008年、ある日本の民間放送は、デフレ後、海外旅行などを夢見ることなく、自身が生まれた場所からあまり離れずに暮らす日本の若者を「ワンマイル族」と呼んだ。自身が住む所から半径1マイル(約1.6km)以内で生活するという意味だ。
観光ガイドブック「るるぶ」は、2000年代初め、「日常生活で見過ごしていた地域の再発見」というモットーを掲げ、地域版を出した。反応は期待以上だった。若者たちはこの本を手に町のおいしい店や名所を回った。日本の若者たちは「ワンマイル族」という言葉に満足している。東京のある中堅企業に勤める渡邊光助さん(29)は、記者に「わざわざ飛行機に乗って海外に行くよりも、うちの近所の方がいい。海外に行ったことのない同僚もいっぱいいる」と話した。
「災害」の深い傷
2011年3月11日、東日本大震災の津波で、岩手県陸前高田市は大きな被害を受けた。住宅約8千世帯余りのうち半数以上が津波による被害を受けた。住宅の残骸があちこちに散らばって、どこが道路でどこが畑なのか見分けがつかないほどだった。当時、現場を訪れて目撃した残酷な光景に茫然としたのを、今も生々しく覚えている。
8年がたった。陸前高田の宅地は今はきれいに造成され、道路も整備された。しかしながら、住民の姿はあまり見られない。造成作業者たちのためにいち早く開かれたスーパーや商業施設の隣には、「分譲中」という案内が出ているだけで、町は復興できていない。
福島原発の放射能汚染問題も、現在進行形だ。除染作業を続けてきた結果、民間の居住地域は原発から半径10km内外に広まってきた。昨年4月、避難指示が一部を除いて解除された地域で小学校8校と中学校6校が再開した。復興には若い世代が必要と判断した日本政府は、93億円をかけて学校の施設を新設、改修した。制服や給食も無料で支援する。
しかしながら、14校に入学したのは135人。震災前の約3%にとどまった。住民たちも見えない放射能の残骸を怖がっている。
平成時代は、東日本大震災のみならず、阪神・淡路大震災(1995年)、御嶽山噴火(2014年)、熊本地震(2016年)など、大規模な被害をもたらした自然災害が特に多かった。しかしながら、日本はここで学んだ。陸前高田では宅地が10mも高くかさ上げされ、津波が再びやってきても、問題のないように作られた。建築基準も強化された。「災害に倒れない日本」を作ろうという強い意志が込められている。
(2019年3月9日付東亜日報 東京・川崎=パク・ヒョンジュン特派員)
(翻訳・成川彩)