「ともが何歳になろうとも、お母さんの大切な宝物には変わらないよ」
宮城県南三陸町の高野慶子さん(57)は昨年6月、東日本大震災で亡くなった長男智則さん(当時22歳)の誕生日に手紙を出した。宛先は、岩手県陸前高田市の「漂流ポスト」だ。
2011年3月11日。自動車整備士の長男は、沿岸部にある工場から昼食をとりに自宅に戻ってきていた。介護施設職員だった慶子さんはその日夜勤で、夕方から出かける予定だった。昼食を一緒に食べて午後1時ごろ、仕事に戻る長男をいつもどおりに送り出した。夜勤の前に買い物に行こうと思っていたところに大地震が襲った。
建設会社に勤める夫は湾をはさんで反対側の建設現場にいた。慶子さんは夫の両親と次男を車に乗せて高台に避難した。だれかが「警察署の3階まで津波が来た」と話していた。自動車整備工場は警察署の裏にある。「ともは大丈夫だろうか」。携帯電話に繰り返し電話をかけたが、つながらない。
翌日、歩いて戻ってきた夫と次男と手分けして探し回った。そこらじゅうにがれきや車が積み重なり、線路はぐにゃりと曲がっていた。やっとたどり着いた避難所の名簿にも見当たらない。
智則さんが遺体で見つかったのは4月3日。警察から連絡があり、遺体安置所に駆けつけると、整備士のつなぎに青いジャンパーを着て横たわっていた。「顔もきれいで寝ているようだった。目にはうっすら涙がたまっていて……」
子どもの時から何でも話してくれた。3月11日も、「明日のデート、どこに行ったらいいかな?」と相談された。夜勤を終えて帰宅する朝には、出勤する智則さんと車でよくすれ違った。笑顔で手を振っているつもりだったのに、「夜勤明けのお母さん、怖いよ」とからかわれた。
車を運転していると、そんなことが思い出されて、ふいに涙があふれてくる。年格好が似ている人がいると目で追ってしまう。車を止め、ハンドルをたたいて「なんでいないの!」と泣き叫んでしまうこともあった。
そんなころ、新聞で「漂流ポスト」の記事を読んだ。震災から4年を迎えた3月11日。初めて手紙を送った。「会えなくて悲しい。さみしい。会いたい」。思いを素直に書いた。
ある時は智則さんになりきって、漂流ポストに手紙を送った。「先日、母が来ていましたネ。ボクは小さいころから母の笑った顔が大好きでした。だから笑っている母を見ていて、ボクもうれしかった」
慶子さんは思う。「手紙は漂流ポストに送っているけど、空にいるともにちゃんと届いている感じがする。だから手紙を書くと気持ちが楽になる」
亡くなった人への思いを託した手紙が全国から届く漂流ポストは、喫茶店をしていた赤川勇治さん(71)が2014年3月11日に始めた。よく喫茶店に来ていた被災者に家族の死を打ち明けられたこともあり、「悲しみやさみしさを胸にしまいこんでいる人が多いのではないか」と考えたからだ。
亡き人への思いが詰まった手紙は想像していた以上につらいものが多く、読むうちに苦しくなった。近くの寺で手紙の供養をしてもらうことにし、毎年10月ごろにその年に届いた手紙の供養をしている。届いた手紙はファイルされ、10冊を超えた。赤川さんは「手紙を書きたくても、ペンを持つまでにたどりつけていない人が多いようだ。1行でいいので心を出してみてほしい」と訴える。
慶子さんは智則さんになりきって送った手紙にこう書いた。「赤川さんがポストをつくってくれたから、ボクたち空の住人は、地上で涙を流しながらもがんばっている人たちの思いを知ることができるんだ。大切な人たちが少しずつ、少しずつ歩きながら、笑顔になれていくのを知ることができるんだヨ」(星野眞三雄)
〈手紙の宛先〉
〒029-2208 岩手県陸前高田市広田町赤坂角地159-2「漂流ポスト」
*手紙は原則公開されるが、匿名や非公開も受け付けている