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ドイツの少女像で思うこと 歴史認識の折り合いをつけるのは見果てぬ夢か

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
ベルリン市内の公園前に置かれた慰安婦を象徴する少女像=2020年10月9日、ベルリン、野島淳撮影

少女像は9月28日、ベルリン・ミッテ区から1年間の許可を得て、住宅街にある公園前に置かれた。日本政府は不適切だとして、ドイツ政府に撤去を要請。区は10月8日、設置許可を取り消し、14日までに撤去するよう市民団体に求めた。

これに対し、市民団体は撤去を求める区の決定の差し止めを行政裁判所に申請した。区は13日、「当面の間、置かれたままになる」と発表。裁判所の判断が出るまでは新たな決定はしないとした。日本側はドイツの司法手続きを見守る姿勢を示している。

今回、ミッテ区の判断が揺れた背景には、市民団体の姿勢に対する不信感があった。フォンダッセル区長は声明で、少女像の設置を承認する過程では戦時中の性暴力に反対する趣旨と受け止めていたが、実際には「旧日本軍の行為のみを対象とし、日本やベルリンでいら立ちを招いた」と指摘した。ミッテ区には100カ国超の出身者が住んでおり、地域の調和を損なわないために「国同士の歴史的対立について、特定の立場を取るのは慎まねばならない」とした。

元々、少女像は2011年12月にソウルの日本大使館のそばに、日本の謝罪を求める韓国の市民団体が無許可で設置したことが始まりだった。この市民団体は、元慰安婦に「償い金」を送るため日本が主導して作った「アジア女性基金」はもちろん、日韓両国政府間の慰安婦合意にも一貫して反対しており、像が政治的主張のシンボルとされてきた点は否めなかった。

同時に市民団体は、国際的な共感を得るため、戦時下の性暴力や女性の人権問題として、慰安婦問題を取り上げてもきた。慰安婦問題で日本がしばしば厳しい立場に追い込まれるのは、世界がこの問題を、女性の人権問題として扱ってきたという背景もある。

日中の歴史共同研究に関わったことがある防衛研究所の庄司潤一郎研究幹事によれば、こうした韓国の市民団体の動きについては、慰安婦問題に尽力した日本人も違和感を感じており、最近では、韓国国内でも市民団体の活動を批判する動きが出ている。例えば、戦争責任問題に向き合い、アジア女性基金にも参画した大沼保昭氏は、「自己の主張以外認めない独善性と狭量さがあり、さらに反日ナショナリズムと結びついている」と批判していた。

庄司氏は「少女像は、芸術作品、あるいは平和や人権のシンボルというよりは、政治性が強い作品といえる。ドイツの行政当局が公共地での建立を承認することは、議論の分かれる問題で一方を支持することにもつながり、中立的ではなく、好ましい態度とは言えないだろう」と語る。

防衛研究所の庄司潤一郎氏=牧野愛博撮影

とはいえ、少女像の撤去を求めている日本政府の動きが国際社会で広く共感を得ているとは言いがたい。慰安婦問題を巡る論争では、米下院が2007年に日本政府に謝罪を求める決議を行ったこともある。

庄司氏は「日本は1990年代から慰安婦問題に対応してきた。世界で戦場下での性暴力問題、さらに植民地支配の問題に向き合ってきたのは日本だけだ。逆説的だが、取り組んでいるが故に、葛藤が生じていると言っても過言ではない」と語る。国際社会では、日本の謝罪が不十分だとする見方や、韓国の主張が頑迷すぎるという意見が混在しているという。

そのうえで、庄司氏は「日本が国際社会で展開している論戦は、中韓両国の事実に関する主張の否定に力点を置いている。大枠では日本はドイツと同じように『加害国』として位置づけられているため、欧米社会から『歴史修正主義』ではないかと見られているのが現実だ」とも語る。

日本側で目立つ「強制連行などない」という主張が、国際社会に「日本はこの問題に取り組もうとしていない」という不必要な誤解を与えてしまっているわけだ。米下院決議の際も、日本の保守系団体が米紙に「慰安婦は公娼だった」という趣旨の意見広告を出したことが逆効果になったという。

国際社会を舞台にした、日韓の歴史認識を巡る論争は両国の評価を下げる一方だ。ミッテ区も声明で「日韓が折り合える妥協案を望む」としている。

庄司氏によれば、東アジアには3種類の歴史認識があるという。

1)主に中韓両国でみられる、政治的、社会的に造られた「集団の記憶」
2)日本の一部にある、「集団の記憶」を否定し、矮小化しようとして国際社会から「歴史修正主義」と批判される主張
3)歴史的な史料に基づく検証を経た認識

の3つだ。庄司氏は「史料に立脚しつつ、物語と事実を峻別する作業が必要だ」と指摘する。

この作業の先駆者と言えるのが、ドイツと、ナチスの時代にドイツの侵攻を受けたポーランドだ。

「働けば自由になれる」と書かれた標語が掲げられたアウシュビッツ強制収容所の入り口=2020年1月25日、ポーランド南部オシフィエンチム、野島淳撮影

両国は歴史共同研究を1972年に始めた。史料を収集し、相違点を洗い出して議論する作業には長い時間が必要で、共通の歴史教科書が完成したのは2016年だった。

両国の担当者は国家を背負わず、歴史学者としての良心に沿って対等な形で議論を進めたという。第二次大戦後、両国の国境が画定して領土問題がなくなったことも大きく影響した。

ドイツは同じくナチスドイツの侵攻と占領を経験したフランスとの間でも戦前から長い間歴史対話を行っており、2006年には共同の教科書を刊行している。

日韓の間でも、歴史共同研究は2002年から2010年にかけて2回行われたことがある。ただ日韓の場合、竹島を巡る領土問題を抱えている。共同研究は「自国の政権の代弁者としての論争」(出席者の一人)に陥り、いずれも短い期間で終わった。

庄司氏は日本と中国の間の「日中歴史共同研究」近現代史分科会委員を務めた。日中共同研究は2006年から10年まで続いた。冷静で対等な議論が実現したが、日中それぞれの主張を併記する形に終わった。

日韓は報告書すべてを公開したが、日中は古代史と近現代史の報告書だけ公開し、戦後史を巡る報告書は公開されなかった。庄司氏は「中国共産党の正統性にかかわる問題であり、2つの認識が併記されることを中国側が嫌がった」と語る。

結局、日韓も日中も、ドイツとポーランドが行った異なる史実を付き合わせて追究する作業にまで至らずに終わっている。

庄司氏は、日本や韓国など東アジアにおける国ごとに分断された「歴史の記憶」を克服し、和解を実現するするためには、それぞれが史実に基づいた事実を受け入れる勇気を持つことが大切で、少女像を設置することは和解につながらないのではないかと指摘した。