【前編の記事】『パンデミックを生きる指針』藤原辰史氏が語る「コロナで見えた本当の危機」
■給食が止まった影響は大きい
――構造的暴力でいえば、日本では、満足に食べることができない子どもたちの問題があります。
一人親世帯は、どんな病気であっても、親が罹(かか)ってしまうと子どもがひとりぼっちになってしまう恐怖と日々戦っています。そんな中で公共交通機関に乗って働きに出ないといけないのは相当なプレッシャーになるのですが、そのような母親たちを取材したウェブ版の「現代ビジネス」の記事が掲載された際のヤフーのコメント欄を見ると「くれくれ、ばかりいってないでもっと自分でできることを探したら?」「まず東京に住むのをやめては? 仕事を選ばず働けばいい」という差別的な発言がありました。やっぱりこれは今までの政治経済のツケだと思います。「何かあったときは自己責任でご解決下さい」、「シングルなのはあなたたちの今までやってきたことの宿痾(しゅくあ)でしょ」というような勢いでコメントが書かれている。
日本の差別構造とリスクの大きさが重なっていると思っていて、そんな家庭の子どもたちを救っていたのが学校給食です。給食は、少なくとも栄養価の高い食べ物を、長期の休みと土日祝日をのぞき毎日食べさせてくれる貴重な機会でした。コロナで学校が休止して、給食も止まってしまったというのは、子どもの健康にとって、とくに貧困家庭の子どもにとって大変大きかったと思います。
そして、子ども食堂はひとり親の世帯や低所得者の家庭の子どもたちをある種、救ってきたと思うんです。でも、それが「密だから」ということで難しくなっている。子ども食堂が政府の福祉政策のまずいところを補うような形で存在していたのに、できなくなった。食べ物を通じた福祉的な支援が今回機能しなくなったというのは、逆に言えば、改めてそれがどれだけ多くの人の最低限の生活を支えていたのか、政府がそこにお金を使ってこなかったかに気付かされたという感じはしましたね。
■あまりにも家族に押しつけている
――みんなで楽しく給食が食べられないということもありますし、大人や学生も会社やサークルの飲み会などを自粛しています。そういったことが与える影響にはどんなものがあるのでしょうか。
(オンライン会議システムの)ズーム飲みは、杯と杯を合わせられないので、もどかしい「共食」の形だと思うんです。ただ逆に言うと、そうまでしてでもみんなと食べたい、とい本能の裏返しであって、これは食べることが持っている本質ですよね。
また、自分で料理したり買い物したりする人が増えたということも聞きました。「このメニューにどういう肉が使われているのか、料理を始めてようやく分かった」という学生もいて。一人で食べる「孤食」であっても、食というのは孤独では成り立ち得ない。肉は誰かが殺してくれるから食べられるし、野菜も誰かが収穫してくれるから食べられる。孤食でも何かにつながりながら、ネットワークの中にある食べ物なんだという意識が芽生えるチャンスではあったと思います。
食となると、家族だんらんというイメージがありますけど、家族以外と食べる場所という食の「かたち」も世界史の中で大きな役割を果たしてきました。ヨーロッパの居酒屋は、地域の情報コミュニケーションの場所だったし、ボーリングやボクシングの場所、ひげをそる場所、誰かを雇う場所でもあった。子ども食堂もそうですけど、家族では子どもを食べさせきれないときに、そういう場所があるからこそ食べられる。こういう機能は世界各地にこれまであったわけです。
そう考えると、実はいろいろな矛盾を家族に全部任せてしまっていますよね。疲労の回復は家族で、ご飯も家族で、それでこの低賃金でやりくりして耐えてくれ、と。あまりにも家族に全部押しつけていて、全部そのメンテナンスを担当している人、とくに主婦のせいにしてしまう。そういう社会をもうやめる一つのきっかけが、おそらくそういう場所にあります。食べる場所をもうちょっと緩やかに連携していくといったようなことを、ポストコロナを見据えていくと考えてしまいます。
■日本はすでに移民国家
――今回の特集では、外国人実習生が収穫を担っている現場も取り上げました。限界を迎えつつある日本の農の現状についてはどうお考えでしょうか。
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日本はすでに移民国家。かなりの数の低賃金労働は(外国人実習生ら)「移民」によって成り立っていて、農業も漁業もその例外ではないんですね。問題は、ものすごい安い賃金で日本の食を何とか賄おうとしてきたところだと思うんです。よく指摘されるように、お年寄りが農業の中心的な担い手となってしまっていますが、これが日本の農業政策の致命的な弱点で、担い手を形成することに失敗してしまったわけです。
食が移民に支えられているのは、日本だけでなくて、アメリカやドイツやフランスやスペインでもそうなんですね。例えばドイツですと、収穫のためにルーマニアやブルガリアなど東欧の季節労働者を雇っているんですが、国境封鎖で来られなくなってしまった。それでは大変だということで例外的に入国を許可しましたが、感染リスクの高い場所で働かされ、住まわされています。農業は屋外で風が吹いているから感染しないという人がたまにいますが、多くは施設園芸ですから、ビニールハウスや温室の中の高温多湿な、労働条件が厳しい環境で働いています。
アメリカでも食肉工場がコロナの感染で次々と閉鎖になって、そこで働いている人の多くが黒人やヒスパニックの労働者。ドイツでもルーマニア人の労働者が低賃金で働いていた国内最大手テンニースの食肉工場で大規模なクラスターが発生しました。できるだけ低コストでやろうという経済システムの矛盾がそこに全部現れています。
日本は災害が多い国ですから、柔軟に生命の基盤をきちんと整えられるよう制度設計を根本からし直すときが来たと思います。国の食料自給率を上げる上げないのレベルではなくて、本当に大事な産業として農林漁業にてこ入れしていかないといけないですね。
■生命基盤の「メンテナンス産業」
――日本の言論人は食に無頓着すぎる、とかつて書いていました。
超無頓着だと思っています。結局、私たちは暮らしの中で根本的に一体何にお金を払ってきたんだろうか、何によって生を維持しているかってことですよね。
コロナで注目されたエッセンシャルワーカーたち、例えば地下鉄の掃除をしている人もそうですよね。私たちの生命基盤を維持、メンテナンスしている人たちです。私は、拙著『分解の哲学』(青土社)でも論じましたが、メンテナンスという言葉が好きなので、「メンテナンス産業」と言いましょう。
人類学者のデヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)という本を書いています。グレーバーはメンテナンス産業で働く労働者たちの低賃金を指摘したのち、じゃあお金をたくさんもらっている人たちは何をしているのだろうと証言を集めたり、証言者と対話をしたりします。そうしたら、低賃金労働者の何十倍もの報酬をもらっている人たちは、一日のかなりの時間をSNSなどに費やしていて、自分でもそれが他者の助けになっていると思えないような仕事を、グレーバーは「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」と呼んだのです。
私たちは、リモートでどこでだってできるような仕事にものすごい給料を払っている。一方で、この人がここにいないと私たちが生きていけない、という仕事にはものすごい安い賃金を払ってきた。農業労働者も、食肉工場の労働者も、看護師もそう。何が私たちのメンテナンスを繰り返し繰り返し保っているのかに目を向ける時期が来ています。医療従事者に拍手だけしていても何も変わりません。そういう方たちにどれだけの賃金を払ってきたんですか、どういうふうに賃金の制度を変えていきましょうか、とそうならなければ拍手はただの自己欺瞞(ぎまん)です。
――都市労働者についてはどうでしょうか。
一番重要なメンテナンスは掃除です。掃除がなければ病原体が増殖し、住み心地が悪くなり、衛生状態が悪化します。感染リスクの高いティッシュペーパーなどを入れたゴミ袋を集めたり、そういうごみが落ちている駅構内をきれいにしたり。これだけ感染が広まったときでも、全くごみが停滞しなかったですよね。リスクが高い仕事ですけど。
そういった点で都市のメンテナンス労働も改めて注目されたと思います。しかし、よく考えるとコロナ以前からそういう仕事にリスクはありました。串やようじ、中には注射針とかも入った袋が捨てられていて危ないんですね。そういう職業に対してのリスペクトを持たないまま今にいたっているんだと思います。
■もう気付かなくていいとは言えない
――どうして私たちはそういうことに対して何も考えずにただ過ごしてしまってきたのでしょうか。
今自分で言っておきながら、全部自分にブーメランで返ってくる話だと思っています。歴史学的な視点から考えると、近代的な経済制度、近代資本主義って、毎日のメンテナンスの仕事をできるだけ低賃金で賄うように経済制度を発明する。それから、そのような仕事に差別意識を持たせてメンテナンスの賃金をできるだけ下げていく。その構造に乗っている限り、私たちは見なくて済むんですよね。
差別構造と経済システムってすごく仲のいいものだと思っています。でも、いざ危機が起きたとき、災害や地震が起こった時にその差別構造が目の前に出てくるのです。しかしそれが元通りになると、また見なくて済むようになる。この繰り返しだと思うんですね。
――緊急事態宣言が解除されて、徐々に日常に戻り始めると、やっぱりそういうことをとたんに考えなくなってしまう自分がいます。
構造的利益を私たちは享受しているので、それに慣らされてしまっているんです。全自動のATMみたいなものから利益を得ているので、ATMの機械自体を疑わなくなっているんですね。でも、もうそれに気付かなくていいとは言えませんよね、というのがポストコロナの思想だと思うんです。
■「退場しろ」と突きつけられる大人
――今回の特集では、どうやってこの世界を作り直すか、という点も考えています。地球温暖化の問題もありますが、スウェーデンのグレタ・トゥンベリさんのように、気候危機を訴えている学生の話も聞きました。「今変えないと間に合わない」と強い危機感を持っていますが、それがなかなか大人の世界には伝わらない。この辺も構造と関係があるのかもしれません。
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いまグレタさんで思い出しましたけど、構造の問題は単に下層労働に行くのではなくて、未来にも行くんですよね。未来から借金して、未来の環境から私たちは石油などの天然資源を奪い取って、こういう暮らしをしている。この構造もある種、未来への構造的暴力だと思います。
福島の原発事故の時もそうでした。政治や社会が変わってほしい、変わるんじゃないか。でも結局、中央は変わらなかった。変わらないことを選んだ大人は、若者から「退場しろ」という意見を突きつけられて当然ですから、また環境に負荷をかけ続ける経済をやっていこうという人たちは、それだけの覚悟を持っていただきたいですね。
もっと言うと、コロナだから変えるのではなくて、グレタさんたちの行動にもあるように、もとから未来の環境を壊すことでしか生きられないような社会になってしまっていたんですね。コロナだから変えよう、というのは全く違っています。問題はずっと前からあったわけですから。
状況を変えてほしいと思っている人の中にも、「誰かが変えてくれるだろう」と思っている人もいるかもしれません。でも、スーパーヒーローは世の中には現れてきません。個人個人の小さな積み重ねでしか、歴史は動かないので。今、旧態依然とした社会構造を根本から変革するすごく大きなチャンスが日本を含め世界各地に到来しているけど、こういう時に立派な政治家が出てきて善政をするなんていう安易な希望は捨てた方が良いと思います。そういう変革というのは、むしろ私たち一人一人が政治に働きかけていく中で、おのずから生じてくるものなのです。
いまは「私たちを支えてきたと思ってきたもの」を問い直す時期です。大事だと思ってきたものが本当に大事か。目をつぶっていたり、あるいは忌避したりしてきたものが本当に忌避すべきものなのか、ということも問い直す時期です。だって、コロナでみんなが驚くほど動揺したのですから、今までの当たり前だと思っていたシステムが。