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最高指導者の異変、関係国はどこまで迫ったか 北朝鮮めぐる情報戦

北朝鮮インテリジェンス
平壌のビデオ会社を視察する金正日、金正恩父子。朝鮮中央通信が2011年9月に伝えた=朝鮮通信

2020年春。関係国の視線は、北朝鮮の最高指導者金正恩(キム・ジョン・ウン)朝鮮労働党委員長の健康状態に集中した。4月15日、祖父、金日成(キム・イル・ソン)国家主席の生誕記念日に遺体が安置された平壌の錦繡山(クム・ス・サン)太陽宮殿を参拝しなかったからだ。関係国の情報収集活動は、正恩氏が5月1日に公開活動を行うまで続いた。

その間、メディアでは、死亡説や植物人間説、静養説など様々な説が飛び交った。韓国政府は一貫して健在説を強調したが、日米両政府は沈黙した。

複数の情報関係筋によれば、情報衛星や偵察機の情報から、正恩氏が日本海側の江原道元山付近の別荘に滞在している事実は確認されていた。

同時に、平壌からのヒュミント(人的)情報で、「1号提議書」と呼ばれる、最高指導者の指示を仰ぐ文書が党や政府内で出回らなくなるという情報も届いていた。定期的に行われていた党幹部たちへの正恩氏の政策方針の伝達も途切れたことがあった。ただ、党の中堅幹部たちもその理由はわからず、平壌でも正恩氏の安否を巡って様々な噂が乱れ飛んでいた。

だが、そこまでだった。正恩氏がすでに高血圧の既往症があり、遺伝的に心臓に疾患を抱えている可能性が高いというのは、関係国の情報関係者なら誰でも知っている情報だった。しかし、正恩氏の健康状態に異変が起きたという、はっきりした根拠がなかった。

関係筋の一人は「スコープは広く持つべきだ。情報に踊らされてはいけない」と語った。様々なメディア情報のうち、「特に発信源が中国にからむ情報は疑うべきだ」とも指摘した。「北朝鮮が最も警戒する国は中国だ。最高指導者の健康状態というトップシークレットを、やすやすと中国に流すことはあり得ない」

5月1日に金正恩氏が公開の席上に現れたことを朝鮮中央通信が報じ、この騒ぎはいったん、終息した。別の情報関係筋は「北朝鮮がスパイをあぶり出すため、わざと攪乱情報を流したのかも知れない」と語る。北朝鮮では数年に1度、スパイが飛びつきそうな情報をわざと流し、情報の流れを追ってスパイ狩りをするのだという。

■父、金正日氏をめぐっても

厚い情報の壁に囲まれた北朝鮮。関係国は75年の長きにわたり、北朝鮮の真実をつかむための情報活動を続けてきた。

2008年9月9日。この日は北朝鮮の建国60周年だった。関係国の視線は平壌の金日成広場に注がれていた。理由は、金正日(キム・ジョン・イル)総書記の健康問題だった。

2004年、平壌で日朝首脳会談に臨む北朝鮮の金正日総書記(代表撮影)

金総書記は同年8月15日、脳卒中で倒れた。数日後、フランス軍の軍医が急きょ、平壌に入った。フランスからの情報提供により、日米韓は8月末までに、金総書記の体に異変が起きた事実を知った。

ただ、詳細はわからなかった。フランスからの情報提供があるのみだった。確かに8月14日付の朝鮮中央通信が軍部隊を視察したと報じて以来、金総書記の公開活動は伝えられていなかった。各国は、金総書記の異変を尋ねるメディアの質問にもあいまいな答えを続けていた。

確かな証拠が欲しい。そう願う各国は9月9日の建国記念日に目をつけた。「金総書記の健康に問題がなければ、建国記念日に出てくるはずだ」

建国記念日は、労働党創建記念日(10月10日)や金日成主席生誕記念日(4月15日)と並ぶ、重要な政治イベントだった。特に、「5周年」「10周年」といった節目は重視される。金総書記は1998年の建国50周年、2003年の同55周年の記念行事にも出席していた。

事実、日米の情報衛星は平壌近郊の美林(ミ・リム)飛行場に、大勢の軍人や兵器が運び込まれた事実を確認していた。上空から見た美林飛行場は、金日成広場とそっくりに似せたセットが配置されている。北朝鮮が9月9日に大規模な軍事パレードを予定していることは明らかだった。金総書記が倒れた8月半ば以降も、美林飛行場では予行演習が続いていた。

そして迎えた9月9日。日米韓は金総書記の健康状態の異変を確信した。9日午後、金日成広場に現れたのは、北朝鮮の正規軍ではなく、民兵組織の労農赤衛隊だった。弾道ミサイルなど大型の兵器の展示もなかった。平壌放送(ラジオ)は同日、金総書記がパレードに出席しなかったことを認めた。飛行場で行われていた大規模な予行演習は、国内の異変を知られたくない、北朝鮮による欺瞞行動だった。

実は日米韓は、平壌放送が公式に報道する少し前に、平壌で起きたこの小さな変化に気がついていた。

このとき、米軍は情報衛星や高高度無人偵察機グローバルホーク、U2偵察機などを投入していた。日韓も北朝鮮内で起きている通信傍受やヒュミント情報の収集を行っていた。

2017年5月、横田基地で公開された米軍の無人偵察機グローバルホーク=恵原弘太郎撮影

情報衛星は平壌上空から金日成広場の様子を撮影できる。関係筋によれば、衛星写真で行進する兵士の服装までは分析できない。だが、行進する兵士の規模や大型兵器の有無程度は把握できる。

グローバルホークは高度2万メートル近く、U2は高度2万5千メートル以上を飛行できる。自衛隊関係者によれば、日本列島の場合、高度1万5千メートル上空であれば、日本海と太平洋の両方を上空から眺めることができる。南北軍事境界線近くに飛べば、150キロ以上離れた平壌も視界に入る。

もちろん、距離が離れているので詳細はわからないが、グローバルホークには電波収集の装備もある。

そしてヒュミント情報も合わせ、日米韓は公式発表の前に、労農赤衛隊が行進した事実をつかんでいたという。

金正日総書記を巡る異変は公のものになった。韓国政府高官は3日後、韓国メディアに対して「金正日は自分で歯磨きをするくらいに回復した」と語った。歯磨きは脳卒中で倒れた患者の回復具合を診る方法の一つだという。この情報もフランス軍医からの情報を根拠にしていた。

北朝鮮による人権侵害に強い嫌悪感を持つフランスは、欧州諸国では珍しく北朝鮮と国交を結んでいない。ただ、パリには国連教育科学文化機関(ユネスコ)の北朝鮮政府代表部がある。

そして、北朝鮮の高位層は代々、国内で治療できない難病にかかると、主にロシアかフランスでの治療を望んだ。金総書記の妻、高容姫(コ・ヨン・ヒ)氏も、パリで乳がんの治療を受けた末に客死した。金正恩朝鮮労働党委員長の妹、金与正(キム・ヨ・ジョン)氏はかつて偽名を使ってユネスコ北朝鮮代表部員の肩書で、母親の看病にあたったという。

フランスは、高英姫氏や金与正氏の指紋などの身体情報を持つほか、北朝鮮との間で医療分野での信頼関係を築いた。08年も、張成沢(チャン・ソン・テク)国防副委員長ら北朝鮮首脳部が当時のサルコジ大統領にかけ合い、医師派遣の特別な許可を得たという。

フランスは平素、関係国にこうした情報を開示することはなく、08年の金総書記の健康に関する情報提供は例外的なケースだった。

時代は流れ、12年後の今年春。金正恩氏の健康異常説が流れた。

日本政府で長年、北朝鮮問題を担当した元政府当局者は過去の経験を踏まえて語る。「最高指導者の健康状態は最高機密だ。08年のケースはフランス医師団が入ったことが幸運だったが、そんなに簡単にわかるものではない」