――コロナ禍にある日本社会の現状をとらえるために、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの著書「監獄の誕生」(1975年)を再読することを勧めていらっしゃいます。それはどうしてでしょうか? いまの日本社会に重なるところがあるのでしょうか?
「監獄の誕生」の訳者解説によると、原題を直訳すると「監視すること、および処罰すること」だそうです。監獄というと、塀の中に閉じ込めるというイメージがありますが、フーコーの力点は監視のほうにあります。
この本に、「パノプティコン(一望監視装置)」というものが登場します。イギリスの法学者ベンサムが考案した監獄で、フーコーのこの本以降、監視社会論などでよく使われるようになりました。
一望監視装置の特徴は、監視する側(看守)からは監視される側(囚人)が見えるけれども、囚人からは自分が監視されているかどうかわからないことです。だから、囚人は常に監視されていることを前提にして生きなければならない。看守にとっては、常時監視しなくても監視しているのと同じ効果がある。
常に監視されていると、振る舞いは規則に沿ったものになっていきます。「習い性となる」という言葉があります。中国の古典「書経」の言葉だそうですが、まさに規則に沿った振る舞いが習慣化していって、囚人自身にとっては、まるで自分で選択した行為、自発的な行動であるかのように思われてきます。
同調圧力も似たようなものだと思います。国が「自粛」を「要請」するだけで、その「要請」に沿った行為をしようとする。ただし、今回の場合、監視するのは国家権力ではなかった。わたしたちそれぞれが監視者になった。あるいは「自分以外のみんな」が監視者である、監視者であるかもしれないと感じるようになったのだと思います。
――ご指摘の通り、「監視」というと、国家・政府(または企業)が、人びとを監視するイメージで受けとめられてきたように思います。コロナ禍の日本では、「あの人はマスクをしていなかった」「外出自粛の中、お隣さんは車で出かけていった」などと、一般の人がお互いに監視しているかのようです。どうして、このような状態になってしまったのでしょうか?
もともと、日本は相互監視社会だと思います。同調圧力は、相互監視の別名ですよね。「ムラの掟」みたいなものがいたるところにあります。監視し、ムラの掟を守らせることは、ムラの平和と安全を守るために必要だ、と認識している人が多いのです。逆に言うと自由とかプライバシーとか個人の尊厳よりも、ムラの秩序が優先されます。
コロナの問題では、それが健康問題に直結するので、より過激に出てくるようになりました。でも、珍しいことではないと思います。ハンセン病でも忌避と隔離がおこなわれましたし、エイズでもそうだった。文学の中で、結核はロマンチックでセンチメンタルに描かれがちですが、やはり感染者とその家族は世間から監視されました。
新型コロナウイルスの特徴によるところも大きいと思います。軽症者・無症状感染者が8割といわれると、だれもがみんな感染者に見えてくる。冷静に考えると、たとえ軽症者や無症状感染者から感染したとしても8割はたいしたことなく済むわけで、ほかに疾患があったり高齢だったりする以外は、そこまで過敏になる必要はないのだけど、なんだか街を歩いている人が全員(ウイルスの)保有者みたいに思えてきてしまう。テレビをはじめとしたメディアのあおりにも原因があると思います。
――日本の各地では、「自粛警察」というものまで登場しました。その背景を、どう見ていらっしゃいますか。自粛警察になる人びとの心理とは、どんなものなのでしょうか?
今回のコロナのことで、いちばん気持ち悪いのが「自粛警察」です。戦時中の「隣組」とか「愛国婦人会」とかとも似ている。当人たちは正しいことをしているんだと思っている。ちょっとした世直し気分かもしれません。
自粛警察の人と話したことはありませんが、彼らをそうした行動に駆り立てているものは、そう単純ではないと思います。いろんな要因が複合しているのではないでしょうか。
ひとつは恐怖心。飲食店が営業することによって感染者が増え、自分や家族も感染してしまうかもしれない、という恐怖で冷静な判断力を失っている。ふたつめは正義感。「お上が自粛を要請しているのだから、それに従わないのは非国民だ。お上に代わってオレが成敗してやる」という感覚。それと、「みんなのルールに従わないやつは許せない」という異端者排除の感覚。そして、「自粛」という錦の御旗を掲げてプチ権力を行使する快感。もちろん自粛要請でストレスがたまっていることも大きいと思います。ストレス解消のための娯楽として誰かを傷つけたいのかもしれません。いじめと同じマインドです。
自粛せずに営業を続ける店よりも、衛生用品を買い占める人のほうが、よほど迷惑な行為だと思うのですが、買い占める人を攻撃する自粛警察って、聞いたことありませんね。
――もともと、日本人(日本社会)は、いまの中国人(中国社会)などと比べると、「監視」というものに抵抗感を持っていたようにみえます。コロナ禍におびえる状況で、いまの日本は監視社会化が進んでいるということでしょうか?
日本人が監視に強い抵抗感を持っていたとは思いません。むしろ防犯カメラ・監視カメラの導入に積極的ですよね。防犯カメラに反対するのは犯罪者だという人もいます。「うしろめたいところがないなら、監視されても平気なはず」と。
あおり運転事件をきっかけにドライブレコーダーも普及しました。コンビニなどさまざまな施設の監視カメラだけでなく、Nシステムや街頭の監視カメラに、わたしたちはすっかり慣れてしまっています。
しかし、考えてみれば、交番というのも独特の文化ですね。あれって、監視でしょう。警察官は道案内のために立っているわけじゃない。昔の商店街では、四つ角にたばこ屋があって、店主が見守りという名の監視をしていたわけです。
アップルとグーグルが共同で開発した、感染者との濃厚接触を通知するアプリ提供がはじまりましたね。ユーザーが任意でインストールするものとはいえ、反対よりも期待する声のほうが大きいように感じます。
デイヴィッド・ライアンは「監視文化の誕生」で、フーコーのいう一望監視装置はもう古いんだ、いまは人びとが進んで自分の情報を提供する時代なんだ、といっていますね。これも背景は単純ではないけれども、ポイントカードの普及なども大きいと思います。プライバシーを提供しても、かわりにお金(ポイント)をもらえるならいいじゃないか、と。
――ミシェル・フーコーが、いまの日本社会の「相互監視」ともいえる状況を見たとしたら、どう思うでしょうか?
国家が強権を発動しなくても、人びとが自主的に相互を監視する、そしてそれについて不満の声があまり上がらない、ということに興味を示すでしょう。他者に管理されることの快楽とは何なのか、と。フーコーは著書「言葉と物」(1966年)を、「賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」という言葉で締めくくっていますが、「ほら、予言したとおりになっただろう。君たちはもう『人間』であることをやめたんだよ」と言うかもしれませんね。
――日常の生活を見ると、「子どもの帰宅を知らせる通知メール」「学校の防犯監視カメラ」など、いろいろな監視があります。ただ、これらは見方によっては「見守り」ともいえます。「監視」なのか、「見守り」なのか、その境界はどこにあるのでしょうか?
「監視」と「見守り」は同じものでしょう。それを「監視カメラ」と呼ぶか「防犯カメラ」と呼ぶかの違いであって。監視は権力が抑圧的に使うもので悪いもの、見守りは人びとの安全のためにおこなう良いもの、と二分するのは無理です。そこにあるのは、たんに言葉の使い方とイメージの違いだけです。たとえば、「プールの監視人」とはいうけれど、「プールの見守り人」とはいいませんね。でもあれは安全のために監視しているわけですから。
監視されることで安心感がある。それを見守りと呼ぶ。子どもが「ママ(パパ)、見ててね」といいますね。親は、子どもを見守ると同時に、ルールから逸脱しないかを監視しています。けがをする心配のない行為でも「ダメ」っていいますよね。フーコーに倣うなら、規律と訓練です。
――監視というものを議論するとき、「社会の安心・安全か、プライバシーか」「利便性か、個人の権利か」など、二項対立的にとらえられがちです。立場の異なる人どうしが、より建設的な対話をするにはどうしたらよいでしょうか?
難しい質問ですね。ほんとうは、そういう議論のために国会や地方自治体の議会があるはずなのに機能していません。
監視と見守りの本質は同じであっても、誰が「監視・見守り」をするのか、そのシステムはどこまで透明性を保たれているか、「監視・見守り」をされる側に選択権はあるかなど、議論しなければならないことが山ほどあります。
時代によって感覚も変わります。たとえば1970年ごろだったら、「監視カメラなんてとんでもない」と思う人が多かったと思います。60年安保、70年安保の経験があったし、国家は国民を監視してコントロールしたがっている、と考える人も多かったでしょう。
でも、いまはどうか。たとえば携帯電話を持つということは、自分の居場所情報を誰かに把握されるのを許容することだ、とみんな知っていますよね。小説や映画で、そういう場面が出てきます。あるいは、ポイントカード、ポイントアプリなどで、自分の購買履歴を企業に提供することにも慣れてしまっている。自由とかプライバシーの価値が、相対的に下がっているのかもしれません。「百億円積まれてもプライバシーは譲らないぜ」と言える人がどれほどいるか。それが百億円どころか、百万円でも売りかねない。
それは個人の価値観の問題でもある。たとえばアメリカでなぜ銃規制が進まないのか。わたしなんかは信じられない思いだけど、でも、命より自由が大切だ、と思う人がいるわけです。トランプとその支持者たちは経済再開を叫びますが、あれもおカネ優先ということだけでなく、「命より自由を」という部分があると思います。
日本でも今回の感染症拡大で、まるで「コロナにかからないためなら死んでもいい」と思っているんじゃないかと疑いたくなるような人たちもいます。「自粛警察」の人なんかはそうですよね。でも、自粛によって経済的に追い詰められ、あるいは精神的に追い詰められ、死に至る人もいるわけです。
こういう議論は、問題が起きている渦中だと冷静に判断できませんから、とりあえず保留にしておいて、結論は先延ばしして、もっと落ち着いたときにじっくり話し合うのがいいと思います。
永江朗(ながえ・あきら) 1958年北海道生まれ。書店員、雑誌編集者などを経てライターに。著書に「私は本屋が好きでした」(太郎次郎社エディタス)など。