【前の記事を読む】1日2回、政府から抜き打ち電話 シンガポールで隔離を経験、これは監視か見守りか
■コロナ対策に活躍する監視カメラ
英国の調査会社の推計では、シンガポールの公共空間の監視カメラは人口1千人あたり15.25台、世界の都市でも11番目に多い。監視カメラは、コロナ対策でも力を発揮している。コロナの流行が始まると、シンガポール政府は徹底的に感染経路を追いかけ、濃厚接触者をあらかじめ隔離することで感染拡大を封じ込めようとした。
追跡は感染者への聞き取りから始まる。いつどこへ行ったか。誰と会ったか。しかし人間の記憶は不十分で、覚えていないことも多い。そこで威力を発揮したのが監視カメラの映像だ。
たとえば、感染者が運転していたタクシーの乗客をどう見つけるか。地元メディアの報道によれば、服装と乗車地点をもとに大量の監視カメラの映像を分析し、乗客の発見に成功した例もあった。
だが、こうしたやり方は人手も時間もかかる。3月に入り、欧米からの帰国者を中心に感染者が増え始めると対応が追いつかなくなった。結果的に外国人労働者の宿舎での感染拡大を防げず、約2カ月にわたり、大幅な外出制限を迫られることになった。
■安全とプライバシーの間で
6月からの段階的な経済再開の中で、政府がさらに期待するのが、スマホアプリなどのテクノロジーの力だ。
政府は、早くからテクノロジーの導入に積極的だった。3月20日には、感染者と接触した人を追跡するための「TraceTogether」というスマホアプリを発表した。
このアプリは、プライバシーに配慮したものだった。そもそもスマホは基地局を通じて、常に位置情報を携帯電話会社に伝えている。シンガポールでは政府はデータ保護法制の対象外だから、こうした情報を一手に吸い上げれば、すべてのスマホの持ち主の居場所を解析できる。
だが、政府はこの手法は取らず「非中央集権型」のしくみにこだわった。
アプリは近距離無線通信のブルートゥースを使って信号を出し、アプリを入れた別のスマホとすれ違うと、自動的に信号を交換して日時と接触時間を記録していくものだ。この時点では、データは個人のスマホに記録されているだけだ。
政府は、アプリの利用者の感染が疑われる段階で初めてデータの提出を求める。そして長時間接触していた相手のスマホに電話で連絡し、必要な情報を集めることにしていた。
だが、アプリは期待した効果を上げられていない。政府によるとダウンロード数は人口の25%程度。利用者はさらに少ないとみられる。利用者が少ないと、そもそもアプリを入れたスマホ同士のすれ違いがあまり生じない問題がある。政府は「力を発揮するには、人口の75%の利用が必要だ」と説明している。
特に問題が大きかったのが、アップルのiPhoneだ。アプリが操作画面の裏側(バックグラウンド)で動き続けることが、仕様上できなかった。利用者はアプリを目に見える形で動かしておく必要があるが、バッテリーの消耗などを嫌い、アプリを切ってしまう人も多かった。
■アップル=グーグル型を採用しないワケ
解決策のひとつは、アップルがグーグルと共同で開発したしくみを採用することだった。5月下旬、両社は感染者に接触していた人に通知を送るしくみの提供を始めた。当初はシンガポールを手本にアプリの開発をめざした日本も最終的にこのしくみを採用した。
だが、シンガポール政府はこの道は採らなかった。テクノロジーなどを管轄するビビアン・バラクリシュナン担当相は6月15日、「慎重に検討したが、我々の地域の文脈では効果が劣ると判断した」と表明した。単純に言えば、アップルやグーグルのしくみは、プライバシーに配慮しすぎていて接触者の追跡の役には立ちにくいという判断だ。
大きな違いは、政府が感染者が接触した相手を把握できるかどうか、だった。
アップル=グーグル型もシンガポール型と同じで、ブルートゥースを使った「すれ違い」を記録する。だが、スマホが出す信号の内容が定期的に変わるため、信号からは誰のスマホかは判別できない。自分がどんな信号を出したかを記録しているのは、自分のスマホだけだ。
感染が発覚した利用者は、すれ違った相手から受け取っていた信号のリストをサーバーにアップロードする。他の利用者のアプリは、そのスマホから出してきた信号がリストにあるかどうかを定期的に確認し、リストにあった場合は「接触していた」と通知を受け取るしくみになっている。
つまり、通知を受け取った人が病院に行ったり、名乗り出たりするかどうかは本人に任される。政府は感染者が誰と接触していたかが分からないので、受診や隔離を命令することはできない。
「(アップルやグーグルのしくみでは)いつ、どのように、誰から感染して誰を感染させたかといったことを知りようがない」「接触者追跡は、人間の判断を必要とする人的取り組みだ」「患者は診断や説明、取り得る選択肢などについては、人間の口から伝えられるべきだ」。医師でもあるバラクリシュナン担当相はそう訴えた。
結局、アップルとグーグルのアプリの採用をあきらめたシンガポール政府が採ったのは、iPhoneの代わりとなるデバイスを配ることだった。「TraceTogether Token」と呼ばれる小型のブルートゥース端末が開発され、6月末に高齢者向けの配布が始まった。スマホを持っていない人も多いとみられるからだ。
プライバシーに配慮して非中央集権型のアプリをつくった政府だったが、結局は中央集権型のしくみも登場している。「デジタル入館証」システムだ。
スーパーやビルでは、スマホでQRコードをスキャンするなどして電話番号や身分証番号を登録し、デジタルの「入館証」を発行することを義務化。これにより、いつ誰がどのビルに出入りしたかのデータを政府のサーバーに集めている。
政府は「サーバーには、担当者が接触者の追跡が必要な時にのみアクセスする」と説明している。アプリも身分証番号と連動させるようにし、身分の特定ができるようなしくみになった。
■監視強化への懸念は
徐々に強まっているように見える監視のしくみ。国民の間には警戒感もある。そもそもアプリの利用が増えなかった背景には、スマホのバッテリー消耗の問題と同時に「政府にデータを渡したくない」といった不安があった。
「トークン」と呼ばれるスマホ代わりのデバイスをめぐっても議論は起きた。バラクリシュナン担当相が国会で「私たちはウェアラブルデバイスを開発している。もしうまくいけば、これを国内全員に配りたい」と表明したのは6月5日。「これで私たち全員が守られることになる」と胸を張った。
だが直後から、「国民の常時監視システムだ」といった批判が続出。ネットでは撤回を求める署名活動が始まり、賛同者が続々と集まった。
政府は火消しに追われた。「新たなデバイスは、誰かの行動を追跡するものではない。GPSデータも集めないし、ネットにもつながらない」。国会での表明から3日後、担当相らは記者会見を開いてそう訴えた。最終的には「外出の際、ポケットやカバンに入れておけるようなもの」として「ウェアラブル」という表現も避け、こう強調した。「私たちは、健康を守ること、そしてプライバシーを守ることのバランスを正していく」
それでも世論は分かれているようだ。英国に本拠を置く調査会社YouGovは6月、1115人のシンガポール人への調査の結果を発表。「トークンを持ち歩くか」という問いに対しては、57%が持ち歩きたい、43%が持ち歩きたくない、と答えたという。
一方で「自分の個人データの扱いについて、政府を信頼する」という意見については44%が賛成、22%が反対で、賛成がはっきりと上回っている。
シンガポール国立大学のチュア・ベンファット教授(社会学)は、監視はシンガポールを含めたすべての政府にとって「習性」だという。だとすれば、考えるべきは「私たちはどうすれば監視を任せられる、信頼できる政府を持ちうるのか」ということなのかもしれない。