1. HOME
  2. LifeStyle
  3. 韓国の大御所イム・グォンテク監督 「アカデミー賞は厳しかった」

韓国の大御所イム・グォンテク監督 「アカデミー賞は厳しかった」

東亜日報より
釜山国際映画祭後援社だったエルメスが特別制作し、献呈したイスに座るイム・グォンテク監督。「トロフィーや賞状などすべての資料を東西大イム・グォンテク博物館に送った。唯一このイスだけを手元に置いている」と話した。

第92回アカデミー賞授賞式が中継された10日、生まれて初めて3時間以上テレビの前から動かず見守った。ポン・ジュノ監督が監督賞や作品賞まで受賞し、立ち上がって「ワー!」と声を上げて手をたたいた。1970年代から海外の映画祭を回ってきた記憶がよみがえった。共にテレビを見ていた妻は涙を流していた。2002年、「酔画仙」でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞したイム・グォンテク監督だ。海外の映画祭にいち早く呼ばれた映画人、イム監督に、京畿道龍仁市の自宅で会った。

自宅のソファーに座ったイム監督は、特有のゆったりとした口調で「韓国映画が目指した頂点にポン・ジュノ監督が到達した」と話した。昨年、「パラサイト 半地下の家族」を見た後、ポン監督に電話をかけ、褒めたたえたという。

「普段は映画を見て監督に電話することはないが、『パラサイト』は作品性が非常に優れていた。レベルの高い人たちの力量がたっぷり詰まった映画です」

さらに「殺人の追憶」(2003年)を見た時を振り返った。

「ポン監督は大物になると思った。だから『母なる証明』も『スノーピアサー』も見ました。私が好きなスタイルの映画ではないんですが(笑)」

昨年、カンヌ映画祭でポン監督がパルムドールを取った時もお祝いの電話をした。アカデミー賞の後はまだ通話できていないという。イム監督は「春香伝」などで何度かアカデミー賞に挑んだが、門戸を開いてはもらえなかった。

「アカデミーは、本当に厳しかった。あまりにも無視されたので腹が立った。あいつら、ポン監督にもひどくあたるんじゃないかって心配したけど、『パラサイト』が勢いがあったので、それなりの成果を出すと思った。とはいえ、あそこまで痛快に四冠を果たすとは」

イム監督の表情がパッと明るくなった。イム監督は、アカデミー賞の投票権を持つ米国の映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の会員だ。2015年、ポン監督と俳優のチェ・ミンシク、ソン・ガンホと共に韓国の映画人としては初めて、アカデミーの会員になった。しかしながら、投票したことはないという。

「アカデミーからは資料がたくさん送られてくる。投票するには、候補の作品をすべて見て、勉強もしなければならないが、正直大変でそこまでできない。他は一つも見ていないのに、『パラサイト』だけに票を入れるのもだめじゃないですか。代わりに心の中で応援していました」

「パラサイト」が、優秀な通訳者と共に体系的に海外キャンペーンを展開している様子に、歳月の流れを実感したという。「自分の作品がいったいどれほどのレベルなのか知りたくて」海外の映画祭に出品したイム監督は、当初は政府の職員とたった二人で外国へ行った。映画祭の組織委員会が準備したホテルで3、4日過ごした後、お金がないので路地裏の小さな宿に泊まったことも少なくない。通訳も私費で雇うことが多かった。そのため、通訳のレベルもまちまち。イム監督は「私が英語ができないので、本当にもどかしくて困った」と話す。

「シバジ」(1986年)でカン・スヨンさんがヴェネツィア国際映画祭で主演女優賞を受賞した時、授賞式にはイム監督もカンさんもいなかった。政府の職員が代わりに受けた。賞を受けるか分からず、カンさんは映画祭に参席せず、イム監督は別の日程で先に出国してしまったからだ。「主催側は呆れたでしょうね」と笑う。

韓国映画に対する無関心も実感した。「キルソドム」(1986年)でベルリン国際映画祭の本選に進出した時だ。

「映画の試写を終え、質疑の時間に誰一人映画について質問しませんでした。『韓国では軍人たちがどうやって政治をやっているのか』『映画の検閲はどの程度、どうやっているのか』というような質問ばかり。その時感じた屈辱は言葉で表現できない」

当時の状況を思い出し、イム監督の表情は硬くなった。再びアカデミー賞の話に戻ると、表情も緩んで、ポン監督はやっと重荷が下りただろうと、喜んだ。周りの期待がどれだけ負担になるのか、誰よりもよく知っているからだ。

「2000年、『春香伝』がカンヌ映画祭に進出した時、受賞の可能性が高いと連日報じられました。記者たちもカンヌにたくさん取材に来て。『これで受賞できなかったらどうしよう』と心配でした」

結局受賞できず、イム監督は「風の丘を越えて/西便制」(1993年)を作る時にやめたタバコを再び吸い始めた。「酔画仙」で2002年にカンヌ映画祭で監督賞を受けてやっと、心の荷が下りたという。

イム監督は、「海外映画祭開拓第一世代」という表現を強く否定した。

「海外映画祭への道を私が作ったというのは間違っている。韓国映画が注目を集めるようになったのは、韓国の人たちと一緒に作ったからで、私一人でできたことではない。韓国映画のレベルが高くなったのは、映画を作る人たちのレベルが高くなった結果です」

イム監督は102本目の映画「火葬/化粧」(2014)まで50年以上映画作りに専念してきた。イム監督の特有のこだわりや執念があってこそ、可能だったのでは。イム監督は首を振る。

「こだわりではないです。好きなことをこれと決めて、ずっとその中でやってきた、それだけです」

今後の計画を問うと、イム監督は後進の養成に力を注ぎたいと言う。東西大イム・グォンテク映画映像芸術学部教授として、特別講義の形式で学生を教えている。

「映画を作りながら経験してきたことをたくさん話してあげたい。振り返ってみれば、私は映画を作るのが本当に好きな人間だったんだと改めて感じます。生涯、スランプもなく映画を作り続けてこられたのが大きな幸せでした」

(2020年2月17日付東亜日報 ソン・ヒョリム記者)

(翻訳・成川彩)