縦ノリのリズムがファンキーすぎる。
ガタンガタンではない。ゴンゴンゴンとビートを刻む。ミャンマーのヤンゴン中央駅から北へ620キロ。首都ネピドーを経てマンダレーへと結ぶ南北回廊を走る列車は、跳ねる。跳ねる。腰が浮く。ときに横ノリも加わる。座席のスプリングはキュウキュウと音をたてている。脱線しないか、心配になってくる。
鉄道愛好家の間で「暴れ馬」とも呼ばれる列車に乗ったのは、2019年10月半ばのこと。早朝5時、日が昇る前の1番ホームは熱帯のなま暖かい空気に包まれていた。プォーンと出発の汽笛が響く。牽引するディーゼル機関車は中国がミャンマーで生産したDF(東風)号。ピューピューと高音の警笛を鳴らしながら進む。客車の乗り降りする扉は常に開いている。運賃9300チャット(約690円)の1等車の天井では、中国国鉄の赤いマークをつけた扇風機が回っている。
物売りが次々に車内に現れる。うずらの卵、魚のフライ、鶏かカエルか判別できない飴色をした肉。子ども服やティッシュペーパーなども売りに来る。時間をもてあましていた私は3度、食事を調達した。ゆでたトウモロコシ、野草の佃煮がのったごはん、目玉焼きのせごはん。どれも500チャット(約37円)だった。
車窓を通り過ぎる風景はずっと緑色。南国の木は枝を大きく広げている。時々金色に光る仏塔が遠く頭をのぞかせる。窓からディーゼルのススや野焼きの煙が入ってくる。夜になると、閉まらない窓から虫があかりをめがけて寄ってきて、白い麻のシャツにへばりついた。
乗客は眠気と疲れで口数が減っていく。エビの唐揚げやミカンをくれた隣の席の親子も寝入ってしまった。いくつかの駅に停車しながらマンダレーに着いたのは深夜0時半。19時間半もかかった。4時間半も遅れた。アジアの鉄道旅行をまとめた世界的ベストセラー『鉄道大バザール』(訳・阿川弘之)の著者、米国人作家ポール・セローが、同じ路線を走る急行に乗った1975年。45年近く前にもかかわらず、13時間半で着いている。外貨がなくて新しい車両が買えず、4度も途中で故障し、定刻から1時間半ほど遅れた「のろい列車」だったはずなのに。
ミャンマーの鉄道は、英国の植民地時代の19世紀末に開業した。第2次世界大戦中は日本が戦争に使った。跳ねるのも揺れるのものろいのも、鉄路が古びてしまったからだ。ミャンマーの大動脈で、日本で言えば東海道本線と位置づけられる複線区間ヤンゴン―マンダレー間ですら、例外ではない。日本政府は円借款約2600億円を投じて、路盤や軌道、信号などの改修に取り組んでいる。新しい日本製の車両も投入する予定だ。将来は最高時速100キロで駆け抜け、所要時間も8時間まで縮めるという。現在のざっと半分である。
この沿線には約2000万人が暮らす。ミャンマーの人口の3分の1を上回る。ヤンゴンに次ぐ第二の商業都市マンダレーは、隣国中国にとって要衝である。習近平政権の巨大経済圏構想「一帯一路」の一角を担っていることは言うまでもない。
中国政府は雲南省昆明からマンダレーを抜け、インド洋を臨む西部ラカイン州チャウピューまで新しい鉄道を敷きたがっている。線路の幅も在来線の1000ミリではなく、中国の1435ミリを採用する方針だ。中国は2017年、このルート沿いに石油・ガスを運ぶパイプラインを開通させた。米国の影響が強いマラッカ海峡の迂回路とするためだ。鉄道も、旅客も運ぶが、貨物を重視した戦略である。
中国は布石を打っている。首都ネピドーとマンダレーで車両工場を2018年に立ち上げた。総額約1億ドル(約110億円)規模の資金をミャンマーに貸し、4年がかりで整えた。中国から輸入した部品を組み立てて、10両の機関車と20両を超える客車(19年春時点)を製造し、ミャンマー国鉄に納めている。中国の国有車両メーカー中国中車は「現地化に努め、数百人の鉄道人材を養成した」と胸を張る。中国とってミャンマーは1993年にディーゼル機関車を初めて輸出した相手でもある。さらに、中国人民解放軍がミャンマーの国防軍に対して、防災活動に使われるディーゼル機関車と貨車や客車をプレゼントしたこともある。
ミャンマーは1950年、非共産国としてはいち早く中国と国交を結んだ国だ。その後曲折はあったが、軍事政権下で先進国から制裁を受けるなか、中国への依存が強まった。民政へ移管した2011年以降は、先進国との関係の再構築に取り組み、中国と距離が生まれたかのようにも見えた。ただ、少数派イスラム民族ロヒンギャの難民問題で再び欧米から批判を浴び、国連安全保障理事会常任理事国の中国に外交的に頼る場面も増えている。さらに国境2000キロを接し、最大の貿易相手でもある中国は、ミャンマー経済には重視せざるをえない相手なのだ。とりわけ秋に予定される総選挙を控えて、アウンサンスーチー国家顧問率いる政権にとって、経済成長はより重要な課題となっている。
昆明―チャウピュー間の新線については、中国とミャンマーの間の首脳会談で事業化調査に合意している。ただ、中国側から見れば思うようには動いていないようだ。ミャンマー側の国境近くのムセ近郊で散発する少数民族問題にからんで、治安が安定しないことなどが背景にあるとみられている。中国の協力で進めるチャウピュー港の整備も、ミャンマー側の意向で規模を縮小し、中国国有企業の関与も引き下げる方向だった。返せないほどの借金を重ねる「債務の罠」への警戒もある。年明けの習氏の訪問を受けて、ミャンマー政府がどう対応するか、注目されている。
日本が在来線の改善を進めるヤンゴン―マンダレー間についても、中国は新線の構想を持つ。ミャンマーの運輸相は日本の外交官にこう、明かしたという。「日本になぜやらせるのか、我々ならもっと早く造れると、中国政府から持ちかけられたこともありましたが、断りました」
ミャンマーの中国傾斜を警戒する日本政府は、ロヒンギャ問題で距離をおく欧州とは違った対応をとる。ODA(政府の途上国援助)などを通じて関係の強化に努め、米国にも連携を働きかけている。日本からみれば、ミャンマーに対する援助の総額(2016年)はインドやベトナムなどに次いで5位。「ミャンマーは(日米で主導する)『自由で開かれたインド太平洋構想』の一丁目一番地」。ミャンマーに長くかかわってきた外交官、丸山市郎大使は言う。「日本の援助は中国を排除するためではないが、ミャンマーが持続的で健全に発展するためには、中国への依存を減らし、日本を含む先進国ときちんとつきあうことが大事だと考えている」。その脈絡に、鉄道支援もある。
ミャンマーを鉄路で旅すると、日本の中古車両にしばしば出くわす。とりわけ日本の愛好家に根強い人気を誇るのは、気動車「キハ」の姿である。日本でローカル線を中心に活躍していた車両が、日本語の表記を残したまま走る。ミャンマー国鉄によると、日本から海を渡ってやってきた249両が活躍する。エンジンを搭載し自走できる気動車は、日本では引退が相次ぐいっぽうで、電化が進んでいないミャンマーでは重宝がられているのだ。ネピドー駅のそばにはキハの模型も置かれていた。
そのキハも走るヤンゴンの環状線。1915年に敷設され、全長46キロと山の手線より10キロ長い。日本政府は円借款を投じて、老朽化した軌道やホーム、信号など設備の改善や新たな車両の導入に向けて支援する。現在は1周走れば3時間近くかかるところを、110分まで縮めることができるという。38駅を抱え、中心部をめぐる貴重な路線だけに、効率的な運用ができれば市民の便利な足としてさらに活用される可能性を秘めている。家族3人でヤンゴン近郊を乗り鉄していた英語講師という男性は(40)は、「10歳の息子が列車に乗ると喜ぶんだ。改善されたら環状線を家族で1周したい」と期待する。
JR東日本出身で日本コンサルタンツの松尾伸之さん(51)は、技術指導に飛び回っている。ミャンマー国鉄にとっては複線の片方だけ列車の運行を止めて、もう片方を動かしながら工事をする経験は初めてのこと。「6月には軌道の土木工事を終える予定です。ヤンゴンは今後も都市化が進み、公共交通がより重要になるはず。工期を間に合わせるためには残業や休日返上もいとわない日本とは、時間の流れは異なりますが、より良い鉄道を造るという共通の目標に向かって力をあわせて取り組みたい」と話す。
ただ、ミャンマーでは鉄道は運賃も安く、収入の低い人々の乗り物というイメージがあるそうだ。目下のところ、移動手段としては中国などから輸入したバスの方が好まれている。いっぽうで、一部の区間では通勤需要も生まれつつある。
古よりアジアの大国だった中国とインドの再興が、間に位置するミャンマーの地政学的な価値をせり上げる。ひとりあたりGDP(国内総生産)が東南アジア諸国連合(ASEAN)で最下位とはいえ、むしろ、その伸びしろに目が向けられている。イギリスが支配の道具として敷いた100年余りの歴史を持つ鉄道は、利便と戦略を積んで21世紀を走る。日本と中国の競い合いも、ミャンマーの人々の足の整備を加速させるならば悪い話ではないのかもしれない。