タイ北部の古都・チェンマイ。市内でもおしゃれな店が集まる地域の一角に、帽子専門店「Muak (ムアック)」はある。ムアックとは、タイ語で「帽子」の意味だ。お店の扉を開けると、日の光が差し込む明るい店内に、様々なフォルムの帽子がおしゃれに並べられていた。
「この店だけで、100種類ぐらいはあるでしょうか。すべて、私たちがつくったオリジナルの帽子です」。浅野諭史さん(36)、恵美さん(40)夫妻がチェンマイに本格的な店を構えてから、約6年になる。
最初にチェンマイと縁ができたのは、恵美さんの方だった。東京都出身。服飾専門学校を経て東京のアパレル会社で洋服デザイナーとして働いていた15年ほど前、チェンマイを旅していた知人が、日本人が経営する現地の帽子工場がデザイナーを募集しているとの貼り紙を見つけ、教えてくれた。
その当時に働いていたアパレル会社は中国・上海に工場があり、時々、その工場を訪れていた。「東京にいるとサンプルが届くまでに2、3週間かかるけれど、工場で物づくりをするとすぐに出来てきて、新しいものがすぐに見られる。それが楽しかった。工場で働いてみたいという気持ちがあったんです。それと、海外への興味もあって、ちょっとタイに行ってみようかと」
すぐにチェンマイの工場の日本人の社長に連絡し、日本に来たときに面接をしてもらって、採用が決まった。その工場では、日本の大手帽子メーカーのOEM(相手先ブランドによる生産)を手がけていた。恵美さんがデザイナーとして働き始めてからは工場側からもデザインを提案し、日本向けの帽子をつくった。そして3年目に、恵美さんは諭史さんと出会うことになる。
岩手県出身の諭史さんは、宮城県の服飾専門学校を出て東京のアパレル会社で洋服デザイナーとして働いていたが、会社が倒産。この機会に海外を見て回りたいと思い立ち、バックパッカーとして半年ほどかけて欧州とアジアを回った。チェンマイを訪れたのは、たまたま日本人の知人に、チェンマイにある日系の被服工場を見てきてほしいと頼まれたからだった。その際に恵美さんとSNS上で知り合い、会うことに。帽子工場では当時、仕事の幅を広げるために「日本人をもう1人入れたい」という話が持ち上がっていた。恵美さんからその話を聞いた諭史さんは、「行きます」と即答。いったん日本に帰って準備をした後、商品開発や販売計画などを取り仕切る「マーチャンダイザー(MD)」として、帽子工場に加わった。
ところが、工場はそれから1年も経たないうちに廃業してしまう。社長が高齢になり、タイの人件費の上昇も重なった末のことだった。
諭史さんも恵美さんもいったん日本に帰り、しばらくして結婚。2人とも「帽子づくりを続けたい」という思いは変わらず、恵美さんは帽子会社で、諭史さんはチラシやカタログなどをつくる会社のデザイナーとして働きながら、週末などに家で一緒にオリジナルの帽子づくりに取り組んだ。こうしてできた帽子が徐々に小売店で扱ってもらえるようになり、売れ行きも伸びていった。
さらに、チェンマイのマーケットの中の小さな店に日本から送った帽子を置いていたところ、バンコクの日系デパート「伊勢丹」の担当者の目にとまり、「催事に出してみないか」と誘われた。出品すると、評判は上々だった。店舗としてやってみないかという話になり、かつていたチェンマイに帽子工場を立ち上げることを決断。2011年、タイ人の従業員4人を雇って、帽子づくりを新たにスタートさせた。伊勢丹に出したお店は売り上げもよく、2年後には初の路面店をチェンマイに開いた。
工場では日本向けの帽子もつくってきたが、主なターゲットはタイ人だ。「タイの人たちに帽子を広めたい、帽子をかぶる文化を広めたいというのがあったんです」と恵美さんは話す。タイではもともと、ファッションとして帽子をかぶる文化はあまりなく、帽子といえば、農作業などの際に日よけのためにかぶるものというイメージが強かったという。それが、最近ではおしゃれで帽子をかぶる人がぐっと増えた。「だいぶ変わりましたね。それはたぶん、僕らが変えたと思います」と、諭史さんは自負する。
日本人がつくっているものだからと買ってくれる人がいて、その人がかぶっているのを見たまわりの人たちが「それ、どこで買ったの?」と興味を持ち、自らも買いに来てくれる。そんな口コミ的な広がりが、かなりあったという。
タイ人向けに、デザインも工夫した。飾りは、日本人はシンプルなものを、タイ人は派手目のものを好む傾向がある。色づかいも、日本人向けの場合は白、黒、茶色がベースになるが、タイ人は明るめの色が好きだ。その一方で、タイ人の客には「日本人っぽい帽子をかぶりたい」という思いもあり、日本のテイストを残した形で、しかもタイ人が好むようなデザインを心がけた。
チェンマイという地も意識した。チェンマイは手工芸が盛んで、手織りの生地や手刺繡を手がける職人がまだ多い。そうしたものもデザインに採り入れつつ、東南アジアっぽくなり過ぎないように、日本のテイストの中にバランスを取りながら落とし込んでいった。
いま、工場で帽子の生産を支えるタイ人のスタッフは、当初の4人から10倍となる40人ほどに。店舗も順調に増え、百貨店内の店舗なども含めてバンコク、チェンマイで計10カ所を数える。ふだんは工場にいることが多い夫妻に変わり、10人ほどの店舗スタッフが切り盛りをしてくれている。
タイ人は細かい手作業は得意だが、当初は日本的なテイストを教えるのに少し苦労したという。タイ人はアイロンがけをしたようなピシッとしたものが好きで、何でも直線的に仕上げてしまう。でも、ちょっとクシャッとしたような味わいを出すのが、日本的なやり方。時間をかけて、粘り強くその感覚を理解してもらった。
毎年、50~60種類ほど新しいものをつくり、商品を入れ替えていく。生地のほとんどは中国・広州まで買い付けにいく。バンコクではタイ人のお客さんが多いが、チェンマイでは最近、中国から来る観光客に人気が出て、「日本っぽいね」と言って買っていってくれるという。
「つくりたいものが、すぐにできる。何でも安く手に入るので、何かをつくりたいと思ったら、すぐに行動に移せる。そこが楽しい」。恵美さんは、タイで働く良さをこう表現する。諭史さんも「日本で僕らと同じようなことをやろうと思ったら、はるかにたいへんだと思う。一つ一つのステップにすごく力がいる。でもここでは、何かを始めるにあたってのハードルが低い。試したいことが、すごく簡単にできるんです」。失敗してもいいから、とりあえずやってみよう。そんな空気が、タイにはあるという。
1年ほど前から、かつて日本で手がけていた洋服づくりも始めた。ポーチなども自分たちでつくり、仕入れた雑貨も店に置くようになった。「帽子が中心だけれど、何でもそろうようなお店にしていきたい」と諭史さんは話す。
チェンマイで2人の子どもを授かった。7歳の長女はいま、地元の学校に通う。「インターナショナルスクールもあるんですけれど、ずっとタイで育っていってほしいと思うので。日本に帰る気は、あまりないんです。チェンマイは利便性と自然とのバランスもすごくいいし」と諭史さん。長男は生後5カ月。「2人ともチェンマイっ子で」と恵美さんはうれしそうだ。住んで、仕事をしていくのはここだと、夫妻は思いを定めている。