「東南アジアがおもしろいんじゃない?」。父親のそんな一言が、自らとタイを結ぶきっかけとなった。
兵庫県姫路市で工業高校のデザイン科に通い、卒業を控えて進路を決めかねていた時。大学に行ってまで勉強したいことは思い浮かばず、前からあった「海外で住んでみたい」「外国語をきちんと勉強したい」という思いが一気にふくらんだ。小さいころから両親に海外旅行に連れていってもらい、何度か短期留学もしてきた経験がそのベースにあった。
親に相談すると、「したいことなしに大学に行っても仕方がない」「海外に行きたいなら、すぐに行ったらいい」「言葉を勉強したいなら絶対、10代がいい」と背中を押してくれた。では、どこにするか。「これまで行ったことがない、知らない国に行きたい」と言うと、父親が東南アジアを勧めてくれた。その少し前に、父と母がタイに遊びに行き、とてもよかったからと。
自ら確かめた方がいいということになり、まず母とタイへ、それから両親とともにシンガポールを訪ねた。両方の国をみて、「タイがいいな、おもしろそうだな」と思った。人がやさしそうだった。高級デパートのすぐ前に屋台で日銭を稼ぐ人たちがいて、貧富の差が大きな社会であることは一目瞭然だったが、持っている人も、持っていない人もみんな笑顔。「すごいな、この国って。どうしてみんな、こんなに幸せそうなんだろうと思った。いい意味で、すごく衝撃的な体験でした」
高校を出て約2週間後の2001年3月に、さっそくバンコクに来た。まずは住むところを探し、語学学校へ。約9カ月間、タイ語を勉強した後、インターネットの掲示板に「タイ語ができます。人と会うのが好きなので、サービス業がしたい」と書き込んだ。すると、日本のアパレル関連の会社から声がかかった。女性の衣料とペット用の服を中心に扱っている会社で、製造元としてタイに白羽の矢を立て、現地で動いてくれる人材を探していた。日本から依頼されたデザインでつくってくれる縫製工場や材料などを探し、検品、梱包して日本に出していく。ペットの服では苦労した。デザインを持って行っても、「子ども服でもないし、何ですかこれ?」。「イヌの服なんです」というと、爆笑された。タイではまだ、イヌに服を着せるなんて想像できない時代だった。
ペットの服の仕事も軌道に乗り、始めてから5年ほどたった2007年、転職の機会が訪れた。「アパレル業界とか、フリーランスでの仕事という形に若干、限界を感じていたんです。10年後、20年後もこのままでいいのかと。もっと新しいことがしてみたいという思いがありました」。そんな時に、タイで新たに自動車部品を加工・製作する会社を立ち上げようとしていた日本人男性と出会う。同郷で、知人を通じて紹介された男性からは、最初は「タイ語が自信ないので助けてほしい」と頼まれ、ボランティアで会社の登記などの手伝いをした。そして、いよいよ会社を立ち上げるとなった時に「正社員で来てほしい」と言われ、転職を決断した。
タイ中部チョンブリ県のサトウキビ畑の真ん中にできた工場で、朝から晩までタイ人の従業員らとともに働いた。日本人は社長である男性と自分だけ。最も苦労したのは労務管理だった。10個、20個単位で請け負う部品も多く、仕事をすべてマニュアル化することができない。「こうして」と言ったつもりだったが、「ふたを開けてみると、ありゃ」ということも多かった。「だいたいこんな感じでという、日本人の感覚で言ってもだめだということが分かりました。相手に伝わっていなければ、言ってないのと一緒。ただの自己満足だなと」。いろいろ失敗もし、ハードな毎日だったが、それでも製造業の現場は楽しかったという。
そして09年、2度目の転職の機会が訪れる。当時の会社の社長を通じ、自動車用の電装製品などを手がける大阪の「ニューエラー」という会社から、委託生産を含めた海外進出の相談が舞い込んだ。いろいろと調査をした末に、「ニューエラーがタイに自ら会社を設立するのが最適」とする企画書を提出。すると、会社設立に向けたプロジェクトチームにオブザーバーとして参加を請われ、いよいよ現地に会社をつくるという段になって、今度は「幸長さんを社長として迎えたい」という話が飛び出した。その時点では26歳。「あまりに早すぎると思って、だれか日本から社長を出してもらい、私はその下で支えるという話をしたんです」。だが、「みんなで支えるから」と説得され、09年6月、バンコク近郊に「New-Era International (ニューエラー・インターナショナル)」が設立されたのと同時に、27歳で社長に就いた。
ニューエラーの製品は、中古車市場が対象。日本の自動車メーカーが供給をやめたような古い型の部品を中古車向けにつくり、補修パーツとして使ってもらう。車をすぐに買い替える日本などの先進国ではなく、直して乗る東南アジアやアフリカ、中南米などが主な市場だ。
部品は主に中国や台湾などから調達し、タイの工場では組み立てをし、検品し、梱包して輸出する。日本車だけでなく、韓国車などの部品にも対応しており、つくる製品の種類は数百に及ぶ。組み立ての工程は一つひとつ違うという。
これに対応するために、まず力を入れたのがマニュアルづくりだった。1から10まで工程があれば、それを写真つきで「こういうふうにしましょう」とビジュアル化し、それぞれの工程での注意点を分かりやすく示した。「前の職場で、『こんな感じでやって』ではだめだと痛感したから、マニュアルづくりには時間と労力をかけました」。そのかいもあって、従業員は順調に育ち、会社は2年目から黒字に。工場も途中で近くに移転し、広さは倍以上になった。
「製造業に関わる前は、製造業は機械がやっていると思っていた。でも、大もとにさかのぼると、やっぱり人なんですね。タイ人と付き合う時には、できるだけ考え方を尊重するようにしています。ただ『こうしなさい』というのではなく、間違いが起きたとしても、なんでそうしようと思ったのかを聞く。そうしたら、タイ人の考え方が分かる。そこから、間違いが起きないような方法を考える。頭ごなしに言ったら、やらされる仕事になってしまうから」
忙しい日々の中で、2013年には「製造業以外で自分のやりたいことをやってみたい」と、自ら新しい会社を立ち上げた。当初はコンサルタント業や日本製の美容・健康商品の輸入・販売などを手がけていたが、今後は企業の福利厚生に関する事業に集中していくという。企業が社員向けに福利厚生を提供していく際に、お決まりの社員旅行や食事会だけでなく、様々なメニューから選べるような仕組みをつくっていく。
今年からは、海外を拠点に活動する日本人起業家のネットワーク「WAOJE(World Association of Overseas Japanese Entrepreneurs)」のバンコク支部長の肩書も加わった。
いま、36歳。タイで暮らし始めて、18年目に入った。「タイに来て、本当によかったと思う。タイだからこそ、私のいまがある。日本だったら無理だったろうなと。タイのやさしさ、懐の深さ。私にできないことがたくさんある中で、困った、たいへんだという時に助けてくれたのはタイの人であり、タイにいる日本人だった。ほかの土地だったらたぶん、難しかったかなと思います」
45歳で今の仕事からは引退し、タイ人のスタッフに経営を引き継ぐことを考えているという。「この国で商売をさせてもらって、たくさん助けてもらって。バトンタッチをするのが、あってしかるべき循環なんじゃないかと」。その後は、また違う会社を立ち上げるかもしれないし、畑を耕しているかもしれない。「家に引きこもっていることはできない性分なので」。それまでは、4匹のイヌ、2匹のネコと暮らしながら、趣味のダイビングを楽しみつつ、仕事に邁進するつもりだ。