地元の室内管弦楽団の演奏会や、ジャズ・ギターと組んだ日本の音楽のアレンジなどの活動とあわせて、僕が力を入れているものに、即興演奏があります。
今年6月には、バルト三国の一つ、ラトビアで開かれた詩の朗読会に呼ばれました。一つの詩ごとに一曲を、即興で演奏して欲しいという依頼です。現代詩の内容から受けるイメージをふくらませ、その場で音楽にしていく。そして次の詩が始まる前に、別の雰囲気をつくり出さなければなりません。
コントラバスの即興演奏というと、楽器をふだん通りの方法で鳴らして出る「楽音」以外に、楽器をたたいたり弦をこすったりするような「雑音」を使う人も多いです。ですが僕は、演奏は常に楽音でやりたい、と考えています。というのは、誰もがいい音楽と感じるものは、自然な音によってできている、と思うからです。自然倍音の積み重ねでできている音階は、人間の大発見だったと思います。その音階でつくられる音楽が一番自然に響くのではないでしょうか。よく「予想を裏切る」ことで斬新さを出そうとする方法がありますが、そういうものには興味がありません。「即興」と言うものの、今まで自分が聴いてきたものの積み重ねの中から生まれ出てくるものです。
リズムも、今の時代は小さく分割する傾向がありますが、実は人間の歩き方や、呼吸に沿った流れが最も自然なのではないでしょうか。そういう意味で、バッハの舞曲は優れていると思います。コントラバスは高音を奏でるバイオリンと違って、素早いパッセージを弾くには限界があります。そういうところからも、自然な呼吸に近いところにいるのかもしれません。
クラシック音楽の演奏家は、もっと作曲や即興演奏の勉強をすべきだと思います。作曲家と演奏家が分かれていると、どうしてもメカニックな作曲に走りがち。一方、演奏家のテクニックはすごく進歩していますが、ただ演奏するだけなら、今はコンピューターのソフトが充実していて、間違いなくちゃんと演奏してくれます。人件費がかかるので、録音をするにもパソコンの音源と演奏を使うのが普通になってきました。
そんな時代に、演奏家が求められる理由は何か。それは、勉強に裏打ちされた楽譜を読み解く思考と、ある種の「ゆらぎ」も計算に入れた、いわば「勘で行く部分」を兼ね備えた演奏ができることだと思います。
そのせめぎ合いがとても面白い。特にイタリアでは、コントラバスに限らず、歌心がある方が喜ばれます。どちらかというと正確さやリズムを重んじるドイツとはちょっと違います。イタリアでは、理想となる演奏がオペラ歌手のそれにあるような気がします。歌劇場のオーケストラピットで演奏することがありますが、そこで本場の「はまり方」を勉強できました。同僚のコントラバス奏者を見ていると、オペラのありとあらゆる場面を鼻歌を歌いながらやっている。日本ではまねできない光景です。指揮者にあわせるドイツとは違って、歌手にあわせるのが神髄、と思っている節があります。良く言えば、各個人がイニシアチブを取りながら作り上げていく。指揮者の小沢征爾氏が「室内楽をやるようにオーケストラをやってほしい」と言ったことがありましたが、イタリアではそれが普通になっているようです。
僕がコントラバスを教わったシャシャ氏には、「Anche questa e' la musica(これも音楽だ)」と良く言われました。要するに、たとえつまらないと思うような音楽であっても、その意味や解釈を見つけ出して美しく仕上げること、という教えです。シンプルなメロディーを適当に弾くことが一番怒られました。
もっとも、僕の住むトリエステは地理的に言っても、イタリアとドイツ・オーストリアが文化的にミックスしています。すぐ隣のスロベニアを始め、東欧で起きることにも意識が向いている。そういう地の利を生かして、ドイツやオーストリアにも足がかりをつくりながら、イタリアの音楽にどっぷりつかる、というのが一番いいかなと感じています。