冗談のような質問を受けることがあります。「これからの正解のない世の中に、子どもたちを送り出すための教育は、何が正解なのでしょうか?」。正解主義から離れられないのです。
正解などありません。だから、多様な教育を認めて、子どもたちが自分に合うところを選ぶ。「どんな教育もありなんだ」「どんな育ち方をしてもいいんだ」という価値観ができていく。そうして子どもたちが認められて、居場所があると感じられる社会になっていけばいい。公教育が目指すのは、そこだと思います。
オルタナティブスクールが日本でも採り入れられつつあるのは、そんなふうに思う人が増えてきているからではないでしょうか。「教育って、子どもを中心に考えることだよね」という原点に一部の学校や教育者が戻っていると思います。
日本の公教育は、学力をつけさせるという狭い意味では、かなりうまくやってきたと思います。思いやりや秩序を重視するといった点も世界から評価され、良いところはたくさんあります。
半面、管理教育になりがちです。教師が管理されてしまっているからだと思います。「だれか決めて」みたいで、答えがないことを自分の頭で考え続けるというタフネスに乏しい。教師に自由を与えることは、教育の多様性を認めることにつながります。
イエナプラン教育が発展したオランダでは、複数の学校の中から選べることが権利になっています。個の尊重というか、民主主義的な発想の延長にそうした権利があるのだと私は解釈しています。オルタナティブスクールが広がるかどうかは、大きくいえば、民主主義をどうとらえるかといった問題かもしれません。
オルタナティブスクールの目的をビジネス的な発想の人材育成とみたら、うまくいかないと思います。人材育成と教育とは違います。教育は「現実の子ども」を見ることから始まる。「あるべき姿」を追求する人材育成とは異なるのです。
かつて「ゆとり教育」というのがありました。特色の一つの「総合的な学習の時間」は、教科の垣根を越えて探求するイエナプラン教育の「ワールドオリエンテーション」の理念とそっくりです。それがうまくいかず、ゆとり教育は失敗だったといわれます。しかし失敗したのは「進め方」であって、成果が出るのには時間がかかる。それなのに、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)の順位が少し落ちただけで「何をやっているんだ」ということになってしまった。
オルタナティブスクールも、学力テストの結果の話だけになったら、ゆとり教育と同じことになると思います。そうではないことを、世の中の人たちに知ってもらうことが大切です。
やる気のある教員が適正なトレーニングを丁寧に受ければ、オルタナティブスクールで教えることができるようになります。でも、教員が成長するのにも、教育の成果が見えてくるのにも時間がかかる。周囲が温かく見守れるかどうか。社会が果たすべき役割でしょう。