ハノイ市郊外ハタイの通りに、一頭まるごとローストした犬肉を並べた店が30軒ほど並んでいる。訪ねたこの日は、1キロ4万ドン(約190円)の頭部の骨を、近所の女性(62)が買いに来ていた。「カボチャと一緒にスープにするんだ」。店の前にはおりがあり、犬が10匹ほど入っている。客は犬を選び、店の裏でさばいてもらうこともできる。
店主のチュンさん(56)は、南部からトラックで運ばれてくる犬を10キロあたり100万ドン(約4800円)で仕入れる。1日10匹分が売れ、「犬肉が悪運を落とす」といわれる旧暦の月末は、30匹分が飛ぶように売れるそうだ。ハノイには犬肉を出すビアホイ(居酒屋)や犬肉料理専門店があちこちにあり、「犬肉はベトナムの伝統的な食文化だ」とチュンさんは話す。
だが、逆風が吹き始めた。ハノイの人民委員会が2018年9月、「犬猫の肉を食べないで」と呼びかける声明を出したからだ。「犬や猫を殺したり売買したり食べたりすることは残酷で、文明化・近代化した都市として観光客らに悪い印象を残す」と声明にはあり、21年までに市中心部から犬肉を出す店を一掃する、という市幹部の発言も報じられた。
ハノイの当局が、犬肉を控えるよう声明まで出した背景には、じつは動物愛護に取り組んできた団体の圧力があった。その一つが、タイのプーケットに本拠地を置く動物愛護NGOソイ・ドッグ・ファンデーションだ。ベトナム担当者チャン・ザ・バオさん(40)と南部ホーチミンで会って話を聞いた。
私にはどうしても、外国人の立場から別の国の食文化について口を挟むことに抵抗があった。鯨を食べる日本の習慣が、外国から一方的に批判されがちだと感じたことがあるからだ。ハノイ出身のバオさんはこう言った。「私も食文化についてどうこういうつもりはないのです。でも違法行為がなされていることは問題です」
バオさんによると、ベトナムの犬肉は、100年前は主に北部で食べられていた。ハノイがあるベトナム北部には四季があり、冬は10度前後まで冷え込む。「プロテインが豊富で、食べると体が温まることから、犬肉が好まれたようです」。現在も北部のほうが犬肉料理店を多く目にする気がする。バオさんによれば、この習慣を南部へともたらしたのは、1975年まで続いたベトナム戦争なのだそうだ。北の兵士の拠点がおかれた現在のホーチミンの郊外で犬が食べられるようになった。「ホーチミン12区に行ってみてください。犬肉がいまブームになっています」
では何が問題なのか、質問した。実は、ベトナムでは、食用犬の養殖をすることは認められていない。「犬牧場」を経営できないのなら、食用の犬はどこから来るのだろう。10~20匹の犬を飼育する小規模業者があちこちにあり、供給元になっているという話は、犬肉を売り買いする関係者によく聞いた。だがバオさんが、「犬肉の売買に関してはこちらが主な手段だ」と指摘したのは、飼い犬の盗難だった。ベトナムでは住宅地などから飼い犬が盗まれる事件がたびたび報じられてきた。2012年には、住宅街で犬を盗もうとした2人組の男に、買い主が撃たれて死亡する事件まで起きている。最近でも時々、犬の盗難の問題が報じられる。
バオさんはもともとマーケティングの会社で働いていた。だが4年前、盗まれた犬が食用になっているという新聞記事を読んでショックを受け、状況を変えるために動けないかと、NGOの道に入ったのだという。
それにしても、盗みが横行してしまうほど、犬が食べられるのはなぜなのだろう。バオさんは、「犬肉を食べる習慣の広がりには、経済と密接な関係がある」という興味深い話をしてくれた。1986年のドイモイ政策で、ベトナムは社会主義国でありながら、市場経済を取り入れた国になった。経済が活性化し、各地にレストランができると、犬を扱う店も増え、農村部から犬を買ってくるだけでは消費に追いつかなくなった。2000年ごろになると、「犬肉は男性の精力の源になる」、「旧暦の終わりに食べると悪いツキが落ちる」といったことが信じられるようになり、犬肉がさらに食べられるようになった、という。余裕ができたことの表れなのだろうか。
ハノイやホーチミンなどの大都市部では、10年ぐらい前から食のヘルシー志向が浸透し始め、犬肉を避ける人も増えてきた。ペットブームで、食べ物ではなく家族として犬を大事にする、豊かな人が増えたという理由もある。だが一方で、新たに開発された町には地方から出てきた労働者や若者が集まり、安価に食べられるストリートフードとして犬肉の需要が再び生まれているという。北中部のタインホア、ハティン、ゲアンの3省はかつて貧困県と呼ばれたが、最近では企業の進出や、開発が進む地域だ。ここでも犬肉の需要が増えているという。私が取材したハノイ市内のハタイや、コーザイと呼ばれる地域もそうだ。20年前まではエキゾチックな食べ物として、犬肉店が立ち並んだハノイのホータイ地区は、今や外国人や比較的豊かな人が住むエリアになり、犬肉店は数えるほどになった。「次の10年は国内で犬肉の消費が増えるでしょう。でも、20年から50年を考えたら減っていくはずだ」とバオさんはみている。
バオさんは昨年、国営放送VTVとともに、犬肉の密売業者の追跡調査を実施した。手元に持っていた検疫の書類では「犬500頭」を運搬しているはずの業者は、トラックに700頭の犬を積んでいた。ダクラク省から来たことになっていたが、書類は金を払ってつくった偽物で、どこから仕入れた犬なのかははっきりわからない。バオさんによれば、通常、特定の職のない若い男性らが犬を捕まえ、1キロあたり2万ドンで地域のトレーダー(密売者)に売る。その後、これらの犬はトラックに積まれて国道1号線を北上して消費地へと向かう。例えばハノイで犬を解体して肉を販売する店に持ち込まれた時には、キロあたりの値段は10万ドンになるという。
バオさんたちが調べた中では、体重を重くして高く売るために、水などを無理やり犬の口に入れる「えさやり」がされていることもあるという。「動物の虐待も違法です」
2年前から、ハノイ市の高官と親交のあるソイドッグの支援者を通じて、市当局に問題点をうったえて働きかけてきたという。「ハノイとしては町のイメージがよくなることは大歓迎だ」という返事を得たことが、声明の発表につながったようだ。いまは、NGOが市内の獣医師育成に協力する代わりに、犬肉の密売を止める方向に動くよう、バオさんたちは働きかけている。狂犬病の予防接種を広げる目的があるが、バオさんによると、ベトナムには家畜をみる獣医師が圧倒的に多く、犬や猫を診る獣医師はまだまだ少ないのが実情だからだ。
食文化を守ろうという人たちと、犯罪行為をなくそうと訴える人たちがいる今のベトナム。ただ、ベトナムの犬肉料理店などを見る限り、市民を巻き込んだ大きな議論になっているとまでは感じない。当面、現在の状況が続くのかもしれない。