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第2次大戦中、日系人のふりをして進んで収容所に入ったアメリカ人がいた

ニューヨークタイムズ 世界の話題
砂嵐が吹き荒れる42年7月のマンザナール日系人強制収容所=ロイター。不毛な地に建てられ、正式名称は「転住センター」とされた

第2次世界大戦中に日系米国人の友人たちが収容所に連行されるのを見て、ラルフ・ラソはとっぴな行動に出た。同行したのだった。

1942年の春、ロサンゼルスの高校に通っていたメキシコ系米国人のラソ(当時17歳)は列車に乗った。行き先は、カリフォルニア州東部のオーエンズバレーにある「マンザナール転住センター(日系米国人強制収容所)」だった。

前年12月、日本が真珠湾を攻撃していた。42年2月19日、米大統領令が出て、米本土10カ所に日系人の強制収容所が開設された。いずれも、不毛の地に建てられ、46年にかけて米西部の日系人計11万5千人が閉じ込められた。その3分の2は、米国市民だった。

その一つ、マンザナール日系人強制収容所に、ラソはいなくてもよい存在だった。知られている限り、日系人を装った唯一の事例で、自分で望んで留め置かれることになった。

1944年当時のラルフ・ラソ。写真は、ロサンゼルス中心部のリトル・トーキョーにある全米日系人博物館提供=Japanese American National Museum,gift of Rose Hanawa Tanaka via The New York Times/©2019 The New York Times

それから2年半、ラソは自由を奪われた身となった。コールタールを塗った紙で覆ったバラックでの寝泊まり。仕切りもない仮設トイレやシャワー室。食事のたびに食堂には長い列ができた。敷地は鉄条網に囲まれ、監視塔の見張りが目を光らせた。

いったいなぜ、そうまでしてラソはそこにいたのか――友人たちと一緒にいたかったからだ。

「高校の日系人の友人たちは、家から立ち退くように命じられていた。だから、一緒に行くことにしたんだ」。ラソは44年、ロサンゼルス・タイムズ紙にこう語っている。

マンザナール収容所を出てすぐの発言だった。社会性に目覚めるようになり、日系人が味わっていた屈辱への怒りが膨らんでいた。

それは、その後の人生を決めた原体験でもあった。社会的弱者により多くの教育を受けさせ、収容された日系人への補償を求める活動に取り組むようになった。

しかし、当時のほとんどの米国人は、政治家やメディアがあおった反日感情に流されていた。真珠湾が攻撃されると、ロサンゼルス市警は市中心部にある日本人街リトル・トーキョーの事業所を閉鎖させた。日系人の生徒が、学校で米国への「忠誠の誓い」を唱えることも禁じられた――米国人ジャーナリストのリチャード・リーブスは、2015年に出した自著「アメリカの汚名~第2次世界大戦下の日系人強制収容所(原題:Infamy: The Shocking Story of the Japanese American Internment in World War Ⅱ)」でこう述べている。

1941年12月のクリスマスのころには、FBI(連邦捜査局)の担当官が法的手続きもなしに日系人の家に踏み込み、身柄を拘束するようになっていた。カリフォルニア州の知事や司法長官らは、たとえ米国生まれで米市民権があっても、日系人を拘束することを認めた。

米国務省の委託で(訳注=真珠湾攻撃の1カ月ほど前に)まとめられた「マンソン報告書」が、日系人に安全保障上の脅威はないと結論付けていたにもかかわらず、当時のルーズベルト大統領は42年2月、日系人強制収容の大統領令に署名したのだった。 反日ヒステリーが吹き荒れる中で、日系人を擁護する言動はほとんどなかったとエリック・ミュラーは語る。この問題に詳しいノースカロライナ大学(UNC)チャペルヒル校のロースクール教授だ。

44年、収容所内で日系人の友人たちと写真に納まるラソ(中列右端)=Japanese American National Museum via The New York Times/©2019 The New York Times。全米日系人博物館提供

「実際に擁護したのは、ほんの一握りの人たちに過ぎない」。収容所での暮らしについてのポッドキャストを設けたミュラーは、こう話す。

「42年の時点では、組織的に日系人を支持した動きは皆無だったといってよい」 ラソは1924年11月3日、ロサンゼルスで父ジョン・ヒューストン・ラソと母ローズ・パディジャの間に生まれた。姉妹のバージニアとともに、リトル・トーキョーの近くで育った。しかし、母とは幼くして死別し、塗装業者だった父の手で育てられた。

市中心部のベルモント高校に進学。多様な人種の生徒がいる中で、最も親しかった友人の中に日系人たちがいた。

「とても気が合い、素晴らしい友情関係を培うことができた」とラソは81年にロサンゼルス・タイムズ紙で述べている。

(訳注=真珠湾攻撃で)多くの米国人が、日系人の隣人から背を向け、ののしったり暴力をふるったりするようになっても、日系人の友人との関係は続き、深まりさえした。

「私の体の中に、日本人の血が一滴も流れていないなんて、誰も証明はできない」とラソは、先の44年の記事で答えている。 収容所に向かう際は、サマーキャンプにでも出かけるような口ぶりで「ちょっとキャンプに行ってくる」と父に伝えた。それ以上のことを父は問い詰めなかったし、収容所の担当官もそうだった。入る際の手続きは、多くを自主申告に頼っていたとUNC教授のミュラーは指摘する。

ラソがどこに行ったか分かっても、父がとがめることはなかった。「自分のことを理解してくれていたので、日系人に寄り添っていたことが判明して、むしろ喜んでくれたのではないか」とラソは81年の記事で語っている。

マンザナール収容所には、約1万人が送り込まれた。兵舎のようなバラックで、夏は砂漠の酷暑を耐えねばならなかった。しかし、厳しい環境にあっても、収容者はそれをはね返すような社会性を発揮した。学校を運営し、新聞を発行した。さらに、スポーツや庭造り、ハイキングの愛好会をつくって、日常生活のリズムをとり戻した。すべて、当局公認だったとミュラーはいう。

監視塔から見た43年のマンザナール収容所の全景=ロイター/Courtesy Ansel Adams/Library of Congress, Prints and Photographs Division。後ろの山並みはシエラネバダ山脈。収容所は、夏は酷暑に、冬は極寒になった

入所者の多くは、ラソが日系人ではないことを知っていた。高校の同級生の一人、ロージー・カクウチによると、ラソはゲームをしたり、ジョークを口にしたりして親を亡くした子供たちをなごませてくれた。とっぴな着想の持ち主でもあり、クリスマスには30人もの友人と歌いながら、輪になって踊り歩いてみせたこともある。

「みんな彼を受け入れていたし、大好きだった」と93歳になるカクウチは、その思い出を語ってくれた。 ラソが44年8月に兵役に就いたことで、当局は初めてこうした知られざる物語の持ち主であることを把握した。珍しい話として報道向けに発表され、それがロサンゼルス・タイムズ紙の記事につながった。

ラソは太平洋戦線に従軍し、46年に除隊した。いく度か表彰され、英雄的な成果に与えられるブロンズスター勲章も受けた。

その後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で社会学の学士号を、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校で教育学の修士号を取った。結婚し、2男1女に恵まれたが、77年に離婚している。

日系人社会とのつき合いは、生涯を通して続いた。マンザナール収容者の集いに参加し、米政府に補償を求める動きを支持し続けた。それは、1988年になって、「市民の自由法」(通称=日系米国人補償法)となって実り、日系人への公的な謝罪も実現した。

43年のマンザナール収容所で、列を作る日系人=ロイター/Courtesy Ansel Adams/Library of Congress, Prints and Photographs Division/Handout via REUTERS

45年1月、当時の米陸軍省は収容者の釈放を決めた。少し前に、国に忠実な市民を拘束すべきではないと最高裁が判断を示したことを受けての措置だった。日系人収容所の閉鎖が相次ぐようになり、マンザナール収容所も45年11月21日に最後の収容者が自由の身となった。

(2019年6月には、第2次大戦中に日系人〈訳注=約700人〉を収容していたオクラホマ州の陸軍基地フォート・シルに、保護者のいない難民の子供たちを留め置く計画が明らかになり、「歴史を繰り返すな」との抗議行動が起きた)

ラソは高校の教員として働いた後に、ロサンゼルスのバレー・カレッジで学生の相談に乗るカウンセラーを務めた。とくに力を入れたのは、ラテンアメリカ系をはじめとする少数民族の学生が平等な教育を受けられるようにすることだった。

「彼は生涯、公平、公正であり、道徳的に正しいことにこだわった」と高校の校長を長く務め、ラソといくつかの公的な会合でよく一緒になったエドワード・モレノはその人柄を振り返った。 92年1月1日、ラソは肝臓病で亡くなった。67歳だった。

自らとらわれの身になったことは、04年に再び社会の耳目を集めた。短編映画「Stand Up for Justice: The Ralph Lazo Story(正義のために立ち上がれ~ラルフ・ラソの物語)」が、公開されたからだ。 しかし、生前のラソは、世間の注目を浴びることを好まなかった。81年にロサンゼルス・タイムズ紙の取材を受けたときには、自分の身の上話よりもっと大切なことに目を向けるように促している。

「あの連行が不当であったことを書いてほしい。それこそが、本当の問題なのだから」と。(抄訳)(訳注=この記事は、歴史に埋もれていた人物を掘り起こすニューヨーク・タイムズ紙の企画「Overlooked No More〈もう、見落とされはしない〉」の一つです)

(Veronica Majerol)©2019 The New York Times

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