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アラビア語で読む「はだしのゲン」 原爆の恐怖、中東に広める元留学生 

Global Outlook 世界を読む 更新日: 公開日:
アラビア語に翻訳した「はだしのゲン」を手にするマーヒル・エルシリビーニー教授=北川学撮影

――イスラム教徒が多い中東で、紛争が多発しています。なぜでしょうか。

聖典コーランに書かれている「教え」と、人々の「行い」には違いがあります。コーランに100%従おうとする人もいれば、全然従わない人もいる。教えを正しく理解している人も、そうでない人もいるのです。

そこで問題になるのがテロリストです。彼らは、異なる考えの人を排除するような偏狭な思想を持つ宗教指導者たちから影響を受けています。エジプトでは2016年7月から、モスクでの説教の内容が全国で統一されました。それまでは、誰でも好きなことを言うことができましたが、これが「テロの温床」になるとの懸念が強まったのです。

過激な思想を生み出さないためにも、しっかりとした宗教的な知見に基づいたスピーチに改めたことには意味があります。ただインターネットを見ていると、おかしな主張をする人はまだいます。「外国人と一緒にお祭りを祝うことは許されない」とか。残念なことです。

――そんな状況で、「はだしのゲン」を広める意義は何でしょうか。

核兵器の恐ろしさを伝えることに尽きます。10年に始まった「アラブの春」の後、中東で混乱が続き、私はとても心配しました。エジプト、リビアなどで政権が倒れ、イスラム過激派のテロリストの動きが活発化。あちこちでテロが起きました。彼らが核物質や化学兵器を手に入れたら、本当に使うかもしれないと思ったのです。実際、1980年代のイラン・イラク戦争では毒ガスが使われ、内戦が続くシリアでも化学兵器が使用されています。

「はだしのゲン」は原爆による被害だけでなく、生き残った人々に与える身体的・精神的な影響、被爆者への差別といった問題を投げかけています。いま世界に存在する核兵器は、広島で使われた原爆よりもさらに威力が大きい。そんなものが使われたらどうなるのか、中東の人たちは気づいていません。

――エジプトでは原爆の被害が知られていないのですか。

残念ながら、学校などで教えておらず、多くの人が知りません。私も習った記憶はありませんし、私の娘も同じです。地理的に日本から遠いのも理由の一つかも知れません。ぜひ教科書に書くべきです。

――どのようなきっかけで「はだしのゲン」を知ったのですか。

87~92年に広島大学大学院に留学し、日本語を研究しました。原爆ドームも見たのですが、原爆なんて大したことなく、「普通の爆弾より少し大きい」程度にしか感じませんでした。広島の街は見事に復興しており、被害のひどさを実感することができなかったのも理由です。

しかしエジプトに帰国後、「はだしのゲン」を知りました。日本の本を翻訳したいと思い、相談した友達に紹介されたのです。ショックを受け、悲しい気持ちになりました。その後、自分で調べ、被害の大きさを知りました。一番大切なことを学んでいなかったのだと反省しました。

15年から1年間、広島大学で特任教授を務めるチャンスを得ました。平和記念資料館を訪れて爆心地に立ったほか、被爆者からも話を聞き、とても勉強になりました。長崎にも行き、ようやく原爆の恐ろしさがイメージできるようになりました。

――アラビア語版の「はだしのゲン」に対し、中東での反応はどうですか。

国際交流基金のプログラムで1巻目を翻訳し、15年に出版しましたが、原爆の知識を深めたことから翻訳をやり直し、昨年7月に新しくしました。6月には計10巻のうち6巻目が出版されました。

私のフェイスブックのページには、エジプトやイラク、ヨルダンなどから「読めてよかった」「次はいつ出ますか」といった好意的な感想が寄せられています。大学生ら若い年代が中心で、読書会で取り上げるグループもあります。今年のカイロ国際ブックフェアでは、「こんな悲しい漫画は初めて。このような戦争を知らなかった」と言って買ってくれる人もいました。

サウジアラビア、モロッコ、イラク、アルジェリア、オマーンなどの国際ブックフェアにも出展されました。中東でも少しずつ知られてきています。

――エジプトでは「マンガ」は受け入れられているのですか。

少しずつ漫画文化が根付き始めたところです。15年からカイロで毎年、コミックフェスティバルが開かれています。ただエジプト人の漫画家は少なく、多くは欧米の作品を翻訳したもの。私は「火の鳥」「鉄腕アトム」「人間交差点」など100冊以上の日本の漫画を持っています。素晴らしい作品が多く、いろんな日本の漫画を紹介したいと思っています。

――中東から紛争をなくすには、どうすべきだと考えていますか。 

平和学を学校教育に導入することが必要です。考えが異なる人々と共存する方法を、もっと深く具体的に教えるのです。日本は戦後、平和国家として発展し、敵だった米国とも良好な関係を築きました。私は、日本がその経験をもっと中東に伝えてほしいと願っています。発展の基礎にあるのは平和ですから、技術を伝えることよりも大切なことではないでしょうか。

広島で話した高齢の被爆者は「若い人たちは戦争の恐ろしさを知らない。今後、平和国家を維持できるだろうか」と非常に心配していました。これは日本だけの問題ではありません。原爆の記憶を風化させないためにも、中東で核を使わせないためにも、我々には日本の経験を具体的に紹介する責任があります。

マーヒル・エルシリビーニー Maher Esherbini

カイロ大学文学部日本語日本文学科教授。1959年生まれ。夏目漱石「吾輩は猫である」「坊っちゃん」など文学作品の翻訳も手がけた。エジプト・ギザ県在住。