タイ北西部の無国籍の子どもたち
タイ北西部のターク県ターソンヤン郡は、洞窟救出劇の現場となったタイ北部と並び山岳少数民族が多く住むことで知られる。ミャンマー国境の街、メソトから北へ、急峻な山道を1時間半。ターソンヤン郡を流れる川の対岸にはミャンマーのカレン州がある。郡の南部の山中には、35,348人(2019年5月31日、UNHCR)が避難生活を送るメラ難民キャンプがあり、カレン族を中心にミャンマーから来た難民が避難生活を送っている。
同郡の中心に「メースウイタヤー中学・高校」はある。タイの新学期が始まったばかりの6月22日、同校で私たちシャンティ国際ボランティア会のタイの現地法人「シーカー・アジア財団」の奨学金授与式が行われた。参加したのは、周辺の地域の8校の出身の中学、高校、大学生175人。子どもたちの大半はカレン族だ。奨学金生のうち31人が無国籍だった。授与式に郡を代表して挨拶をしたプラティ―プ・ポ―ティアム郡長(60)は、「ターソンヤン郡の人口約9万のうち2万人が無国籍。住民の8割が少数民族のカレン族で様々な問題を抱えている」「日本からの奨学金は子どもたちの将来に大きな意味があるので有難い」と語った。
無国籍の子どもたちの抱える苦悩
カレン族は、タイの北部と北西部、ミャンマー東部のカレン州や南部を中心に住む。タイの少数民族の中で最も人口が多い。タイでは山岳地帯の森を開墾した狭い土地で農業を中心に生計を立てているが、現金収入が少なく貧困の中に身を置く人々が多い。
無国籍の奨学金生31人が抱える問題は多岐に渡っていた。学生が暮らす山の村には電気や水道もない村も多く、幹線道路を外れると道路も舗装されていない。雨季になると移動が困難となる。家族の年収の平均が15,000バーツ(約42,000円)と首都バンコクの一家の平均年収の1割にも満たない。
両親の大半は、タイに長く暮らしているが、子どもの出生や国籍を証明する「住民登録票」がない。病院ではなく、きちんとした住所のない山の中の家で出産し、タイの役所に出生届を出していなかったために「出生証明書」すらないためだ。
無国籍は、タイの政府等の公的奨学金の対象外になる。大学へも進学は可能だが、大学卒業までに国籍を取得しないと学位が取得出来ない。そのため、教師や公務員などの安定した仕事に就く道が閉ざされる。
15才以上になっても、タイ国民として携行が義務付けられる国民としての証の「国民携行証」がないために他郡や他県への移動が制限される。外国へ渡航するための旅券の申請も出来ない。
各学校では、国籍のない生徒たちに国籍取得の支援をしているが、手続きは困難を極めている。両親がミャンマー国内生まれなどの場合、親子の関係を証明する書類がなければDNA鑑定等の提出が必要となり、国籍取得までには複雑且つ長い時間を必要とするという。
難民キャンプの場合
同郡にあるメラ難民キャンプの人口は、同郡の人口には含まれていない。難民の98%はミャンマー国籍はもちろん、タイ国籍もない。難民としてタイ政府とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が認め、難民登録されているのは半分。タイ政府は、そもそも難民条約に批准していないので、難民や難民キャンプという言葉を公式には使用していないから複雑だ。難民は、「避難民」。難民キャンプは、「仮設避難民収容所」という言葉を使用している。
こうした難民キャンプがタイ・ミャンマー国境沿いに9ヶ所、95,644人が避難生活を送る。大半がカレン族だ。難民登録されているのは47,267人で、残りは未登録。約半分は18歳以下の子どもたちで、その約半分は難民キャンプで生まれて祖国を知らない。
難民キャンプが開設されてから30年以上が経過した。難民キャンプで生まれた子どもたちは、出生地はタイだがタイ国籍はなく、祖国ミャンマーへの帰還も遅々として進まず、欧米等への第三国への定住やタイ国内への定住の道も現在は選択としてない。国際援助も減少する中で、先が見えない中での不安と自由のない生活を送っている。
タイ国内の無国籍問題の歴史的背景
インドシナ半島の中心に位置するタイは、古くから中国やインドなどからの移民が流入し、多民族国家として形成されてきた。19世紀後半にイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国がアジアに進出するまでは、「国境」という概念は存在していなかった。
洞窟事件の舞台となった現在のタイ、ミャンマー、ラオスの国境の山岳地帯の周辺には、すでに山岳少数民族が「国境」を意識することなく暮らしていた。現在も陸続きの国境であるために簡単に「国境」を超えることが可能で、日常的に国境を超えて通勤や通学をしていることも珍しくない。
「誰をタイ人とするか」と「国籍法」は、タイの近代国家の形成とタイを取り巻く国際情勢の中で変遷を繰り返してきた。現在は、原則的に出生地主義をとっている。
急増する移民労働者と無国籍問題
近年、タイはメコン地域の経済を牽引している一方で、深刻な少子高齢化問題を抱え、慢性的な労働者不足に悩んでいる。周囲には、めぼしい産業もなく雇用が少ないミャンマー、カンボジア、ラオスが取り巻く。経済の格差は移民労働者問題を生み出し、相互に依存している格好だ。
タイ政府に登録されている移民労働者数は全体で290万人。だが、未登録者が同数いるとみられ、実際には全体で約580万人が陸続きの3カ国からの移民労働者と考えられている。その中で、不法就労する家族のうち、特にタイで出生した子どもが無国籍となるケ―スが急増している。親が不法に入国しているためにタイ国籍が取得できないからだ。さらに、両親が母国の国籍も持っていない場合もある。移民労働者の急増は、新たな無国籍者の増加につながっている。
かつて無国籍問題が深刻だったバンコク最大の人口10万人が暮らすクロントイ・スラムも、国境を超えて来た人たちによるスラムが形成される時代となった。地区によっては地域の人口の1割をカンボジアやミャンマーからの移民労働者が占める。
「難民」と「移民」の線引きも困難且つ複雑となっている。政治的な理由に加えて、むしろ経済的理由、仕事や子どもたちのより良い教育の機会を求めて国境を超えてタイに流入しているケースも少なくない。
「誰一人取り残さない」
無国籍の子どもたちは、例外を除いて国家の統計や資料はもちろん国連の統計にも存在していない。「命として存在しているが、人間として存在していない」という状態だといえる。民族としての尊厳や文化的なアイデンティティ喪失の危機にも繋がる。
無国籍は、国境を超えた深刻な人身売買や二つの国の貧困の連鎖と社会不安につながることは明らかだ。国籍がなければ貧困の連鎖の悪循環から脱け出すことは極めて困難。世界中で深刻な問題となる移民問題や難民問題とも深く繋がる問題だ。
1年前の洞窟事件で無国籍だった4人の子どもはタイ国籍を取得した。事件では、タイ国内と世界が一つになり、3週間近く続いた様々な困難を乗り越えて、奇跡的に13人全員が無事に救出された。無国籍の問題は人間の尊厳そのもの。国連SDGsの基本理念「誰一人取り残さない」とうたっているように、全ての無国籍の子どもたちの早期の国籍取得を願わずにはいられない。