さわやかな風が吹く土曜日の午後、私は家族と一緒に、漢江(ハンガン)へ散歩に出かけた。
ソウルの真ん中を東西に流れる韓江は、お金の心配をせずに気軽に行ける快適な場所の一つだ。初夏は、一年で一番の季節だといってもいい。暑くもなく、寒くもなく、ソウルの代名詞となった大気汚染物質「PM2.5」も少ないからだ。
韓国では最近、「小確幸」という言葉がはやっている。「小さいけれど確かな幸せ」を略した言葉で、村上春樹のエッセイから広まった。村上春樹は韓国でも大人気の作家だ。漢江への散歩は、わたしたち家族の「小確幸」ということだ。
漢江の河辺に近い地下鉄駅から地上に出ると、娘が興奮して叫んだ。
「お母さん! あれなに? やってみたい!!」
スーパーで見かけるものとはちょっと違うが、カートが列をなして漢江に向かっている。カートにぎっしり詰まっているのはキャンプ用品のようだ。私たちも、知らず知らずにカートがやってくる方向に足を向けていた。すると、キャンプ用品のレンタルのお店が現れた。カップルや家族などが思い思いにキャンプ用品を選び、カートに載せるのに忙しそう。でも、その表情はとても明るい。
結局、私たちもワンタッチのテント、マット、空気で膨らむ枕、ピクニック用テーブル、イス、毛布をレンタルした。4時間で約3万ウォン(約3千円)。私たちは借りなかったが、ゲームの道具だとか、きれいな照明もあった。どうしてカートなのか、ようやく分かった。ここから漢江まで歩いて10分あまり。カートがないと、ちょっと重くて大変だ。
散歩をしようと何も持たずにやってきた私たちも、いつの間にか、カートの行列に加わっていた。
漢江の河辺におりる場所では、出前の食べ物のチラシを配るおばさんたち、屋台、コンビニに立ち寄ろうとする人たちで、ごったがえしていた。「後で何を食べようか」。私たちもチラシをいっぱいもらった。
河辺に下りると、テントゾーン、出前ゾーン、ゴザなど敷物だけを使うゾーンなどに分かれていた。私たちはテントゾーンへ。レンタル店のスタッフの説明の通り、テントはまさにワンタッチ。キャンプをよく知らない私にもカンタンだ。中にマットを敷き、枕に頭をのせて横になると、もう世の中にこれ以上のものはない、という気分。娘は、キックボードで河辺の道を走っている。夫はおなかがすいたのか、出前のチラシをじっくり見ている。
周りのテントを見やると、碁やチェスなどのゲームをしていたり、おいしいものを食べながらおしゃべりに興じたり、みんな「小確幸」を満喫している。
漢江を訪れる人たちの多くが「チメク」を楽しむ。チメクとは、「チキン」と「メクチュ(ビール)」からできた言葉だ。私と夫が地下鉄を使って来たのも、ただ一つの目的のため。チメクだ。
ここでは、韓国が「出前の国」であることが実感できる。日本のことは詳しく分からないが、河辺で出前のラーメン店に電話して、「ラーメンと餃子、それにチャーハンもお願いします」と注文したら、持ってきてくれるだろうか? 韓国では、それができる。
私たちは、受け取ったチラシのなかから、一番おいしそうに見えるお店に電話をした。チメクのセットで2万ウォン(約2千円)。お店のスタッフは「出前ゾーンまで受け取りに来てください」とい言う。ふだんなら、座っているところまで持ってきてくれるが、人も多いので混乱を避けるためだろうと思っていた。すると、隣のテントにオートバイがやって来たかと思うと、冷麺を出前して立ち去っていった。やっぱりね……。でも、出前ゾーンにあるコンビニでインスタントラーメンを買うから、まあ、いいか。
漢江だけで売っているラーメンがある。インスタントラーメンでも、カップではなく、袋に入ったラーメンをアルミホイルで作ったお皿に入れて売っている。「カップでも袋でも同じラーメンなのでは?」という声が聞こえてきそうだが、風変わりなお皿、野外、大切な人たちと食べるラーメンは、絶対においしい。コンビニでこのラーメンを買い、熱いお湯を入れて、準備完了。歩いてテントに戻れば、ラーメンはちょうどいい感じのはずだ。ラーメンとチメクのセットを手に、足取りも軽くなる。
ピクニック用のテーブルにチメクとラーメンを置き、河辺の風を感じながら食べていると、日ごろの心配ごとなんて、なくなっていった。
これだけたくさんの人たちが来ると、良いことばかりではない。一つはゴミの問題だ。ソウル市は2019年4月、「漢江公園の清掃改善対策」を発表した。ゴミを減らすため、テントを張れる場所と、その時間(午前9時~午後7時)を制限した。
ちょっと面白い対策もある。テントの中で「愛情行為」など不適切な行為が目に余るという苦情が市に殺到。「テントを設置した際はテントの中が見えるよう必ず2カ所以上を開放しなければいけない」というものだ。違反した場合の罰金は100万ウォン(10万円)。
午後4時をすぎると、さらに人が増えた。テント設置の制限である午後7時までそんなに時間はないのに、例のカートの列はまだ続いている。誕生日パーティーをする女子たちのグループ、花束を片手に女性にプロポーズする男性、ペットの犬と一緒に来る人たち、などなど。人間観察をしているだけでも面白い。
午後6時。テントをたたむ人たちがいる一方で、今度は漢江の夜を楽しもうとやって来た人たちで、河辺は人、人、人だ。家族連れの時間から、20代、30代の若者の時間になってきた。車で遠出をするのでもなく、高級レストランに行くのでもなく、ここで遊ぶには、そんなにお金はかからない。
就職難などに直面する韓国の若者は、恋愛、結婚、出産の三つを放棄した「3放世代」などとも呼ばれる。彼らを取り巻くのは、そんな厳しい環境がある一方で、最近は「週52時間勤務制」といって、動労時間の短縮が叫ばれているため、余暇の時間が増えつつある。漢江の人気が前よりも出てきたのは、こうした社会的な背景が影響しているのかもしれない。
この週末も、現実の暮らしの厳しさに疲れたソウルの市民たちは、小さく確かな幸せを感じようと、漢江に足を運んでいる。