90代になっても、父のことを「ダディ」と呼んだ。
ニューヨーク・マンハッタンのアッパーウェストサイドのマンションで、一緒に暮らしたころのことを語るのが大好きだった。部屋は14室もあった。
父が、クリスマスツリーの飾り付けを楽しんでいたこと。彼氏ができると、午前0時までには帰ってくるように約束させられたこと。そんな父との思い出が、詰まっていた。
老いてなお、野球と関わりがあれば、どこにでも出かけた。とくに、父が建てた家とすら言われるようになったニューヨークの球場にはよく足を運び、野球を超えてその人生を語り継いだ。
あのベーブ・ルースの養女、ジュリア・ルース・スティーブンスが2019年3月9日、米ネバダ州ヘンダーソンの介護付き施設で亡くなった。102歳だった。晩年は、父が大リーガーとしてスタートしたボストン・レッドソックスのファンだった。しかし、選手生活の大半を過ごしたニューヨーク・ヤンキースとは、常に温かな関係が続いた。
ジュリアは1916年7月7日、ジョージア州アセンズで母クレア・ホジソンとその夫フランクとの間に生まれた。2人は、ジュリアがまだ幼いころに別れた。クレアは、娘とニューヨークに来て、イラストレーターのモデルとして働き始めた。
ルースとは、1923年に知り合った。投手として活躍したレッドソックスからヤンキースに金銭トレードで放出されて3年。並外れたホームランバッターとして名をはせるようになっていた。
「すごく大きな男の人が母を訪ねてきたことを、おぼろげに覚えている」とジュリアは2001年に、初対面の思い出を日刊紙アリゾナ・リパブリックに語っている。「とても優しく、私を抱いてひざに乗せ、『どう』って機嫌をとってくれた。母と私がその人と外出すると、いつも人だかりができた」
しかし、ルースには当時、妻がいた。レッドソックスの新人だったとき(訳注=1914年)に、ヘレン・ウッドフォードと結婚し、ドロシーという名の娘(訳注=21年生まれ)もいた。夫妻は25年に離婚。ヘレンはボストン郊外に住むようになったが、29年1月に自宅が焼けて亡くなった。ドロシーは、寄宿制の学校にいて無事だった。
ルースはその年のシーズン開幕日にクレアと結婚し、ジュリアを養女として迎えた。クレアは翌年、ドロシーを養女にし、一家4人はアッパーウェストサイドの西88丁目にあるマンションで暮らすようになった。
ジュリアにとっては、幸せな日々だった。父は、ボウリングに連れて行ってくれた。両親と、ダンスフロアのあるバンダービルト・ホテルにも出かけた。生演奏にあわせて、ダンスを教えてくれた。「どのデートの相手よりも、父と踊るのが好きだった」
ルースが大リーグの選抜チームの一員として(訳注=34年に)日本に遠征すると、母と一緒に同行した。ドロシーは自宅にとどまり、後に継母がジュリアとは差別していたと主張するようにもなった。
「私は余計なお荷物だった」とドロシーは、88年に出した回想録「My Dad, the Babe(私の父ベーブ)」で述べている。「自分を育てることは、継母にとってはやっかいなことに等しかった。いきなり降ってきた書類の山を、なんとかしないといけないようなものだった」
その中で、秘話も暴露した。80年のことだった。ルース家の長年の友人フアニタ・ジェニングスが、亡くなる2週間前に「私があなたの実の母。ルースに説得され、妻だったヘレンの養女にした」と打ち明けてくれたと言うのだった。
クレアは、76年に亡くなった。ドロシーも、89年に続いた。ジュリアが、一家を代表して語る存在となった。
98年5月、ニューヨークのヤンキースタジアムに招かれた。ホームランを打つルースが描かれた切手の発行式典だった。その年の8月には、レッドソックスの本拠、ボストンのフェンウェイパークに出かけた。父の死後50周年の追悼式があり、その日の試合で始球式の大役を果たした。
99年の10月にも、フェンウェイパークに呼ばれた。アメリカンリーグのペナントがかかった第5戦で、始球式のボールを投げた。何年もニューハンプシャー州(訳注=ボストンがあるマサチューセッツ州の隣接州)コンウェーに住んでいてレッドソックスのファンになり、「今日はレッドソックスがヤンキースを負かすのを見にきた」と言うほどだった。
あの「バンビーノ(訳注=イタリア語で「坊や」、ルースの愛称でもあった)の呪い」については、「ほとんど作りごとだと思う」と話していた。ルースをヤンキースに売り飛ばしたことで、レッドソックスはワールドシリーズ制覇から遠ざかることになったという伝説だ。
ジュリアが始球式で投げた99年のポストシーズンで、レッドソックスはヤンキースに敗れた。しかし、04年にはヤンキースを倒してア・リーグで優勝。さらに、セントルイス・カージナルスを破り、ついにワールドシリーズを制した。実に、86年ぶりのことだった。
ジュリアは黄斑変性症で目が見えなくなっても、100歳になるまでは大リーグの球場にときどき出かけた。
「ルースが建てた家」との異名が付いた旧ヤンキースタジアム。08年、ここでのヤンキース最後の試合では、始球式をまかされた(訳注=9月21日。翌年、新スタジアム開場)。16年7月10日、フェンウェイパークのレッドソックスの試合でも、始球式で投げた。その3日前に、100歳になっていた。
ルースが大リーグの投手としてレッドソックスでデビューして100周年の14年7月、ジュリアは「今でも父を恋しく思う」とロサンゼルス・タイムズ紙に語っている。
「ただし、その魂は、球場の上に宿っている――そう思えてならない」
ゴルフが大好きだったことにも、触れている。15年3月には、Golf.comのインタビューで、とくに30年代に入れ込んだと振り返った。野球の監督になろうとして、うまくいかなかった時期と重なっていた。
夜が明けると、よく父に起こされた。2人分のフライド・ボローニャとたまごのサンドイッチを作ってくれた。それからニューヨーク・クイーンズのゴルフ場に出かけ、一日を過ごした。
「野球で心を打ち砕かれても、ゴルフで前に進むことができた」
ジュリアは、ニューハンプシャー州でスキーロッジを経営するリチャード・フランダースと結婚したが、49年に死別した。その後、小売業に携わりながら、父の肖像権から入る収入を細々と得ていた。
しかし、84年に米社CMGワールドワイドが、ルースの資産管理を取り仕切るようになると、収入は大幅に増えた。CMG経由のロイヤルティー収入が年間8万ドルを超えることを、98年にブルームバーグ・ニュースに明かしている。
ルースの死後50周年(98年)に際して、なぜ、父が今でも米国のヒーローであり続けるのかを問われた。
「多分、ファンを始め誰にでも、とても身近に接したからだと思う」。ジュリアは、NBCテレビにこう答えている。
「だから、ルースさんなんて呼ばれたことは、一度もなかった。いつも、『やあ、ベーブ』だった。友達に『やあ』と言うように」(抄訳)
(Richard Goldstein)©2019 The New York Times ニューヨーク・タイムズ
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