ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは、折にふれロシア文化の偉大さを自慢する。とりわけイワン・ツルゲーネフのような文豪を誇りとしている。政府は最近、モスクワ南方の地方都市ムツェンスクにあるツルゲーネフの田園屋敷を、国威を誇示する場として大改修した。
しかし、プーチンと彼の政権幹部は、この作家についてさらに子細に調べてみた方がいい。国際的な進歩主義者であり続けたツルゲーネフは1883年にパリ郊外でその生涯を閉じたが、祖国ロシアに対しては明らかに悲観的な見方をしていた。
「彼は何事をも理想化せず、自分の目で見た現実を描いた」。ツルゲーネフ家の財産管理人エレーナ・レビーナも文豪の姿勢を認めたうえで、「それは時には、あまりよいことではなかったが」と語った。
ぜいたくな改修工事を終えた田園屋敷は2019年1月、再び一般公開された。屋敷はモスクワの南約320キロメートルにあり、現在は国が所有している。内部の展示はロシアが誇る自国文化の力をたたえているが、一方でこれまで連綿と息づいてきた別のロシア、すなわち西欧の一員に加わろうと努力してきた不安定なロシアとせめぎ合ってもいる。
屋敷内のツルゲーネフの書斎の蔵書は、多くがフランス語やドイツ語で、彼がロシア語以外に知っていた7カ国語のうちの二つだ。
壁に飾られている絵やスケッチは彼がロシアを離れて暮らした何年もの歳月を呼び起こす。ツルゲーネフはベルリンの大学で学び、ドイツの温泉地バーデンバーデンに暮らした。その後、スペイン人の血を引くフランスのオペラ歌手ポーリーヌ・ヴィアルドに一目ぼれし、不幸な不倫となったが、既婚者の彼女を追ってフランスに移り住んだ。
彼の文章には、祖国についての手厳しい批判が織り込まれている。それは祖国を離れている時に感じた強烈な寂しさでもあるが、しばしば祖国への嘆きとなってほとばしり出た。
「ロシア人は怠け者でのろまだ。自分で考えること、着実に行動することに慣れていない」。ツルゲーネフは1857年、ある保守的な伯爵夫人に宛てた手紙の中で書き記した。「しかし、必要性――素晴らしい言葉だ!――はこの熊(ロシアの俗称)でさえ巣穴から出るよう挑発するだろう」と。
歳月を経ても彼はそれほど柔軟になることはなかった。その手紙から20年後、友人に宛てた手紙に「ロシア人はうんざりするほど貧しい――これこそ問題で、我々が盗みを犯しやすい理由なのだ」と記している。
フランスから祖国に宛てた彼の批判は「ロシアでは、賢明で、才能があって正直な者はきわめてまれ」だった。
19世紀のロシアでは、いわゆる「西欧派」と「スラブ主義者」の間で一大論争が起き、理論や政治をめぐって対立した。それは今日までくすぶり続けている。ツルゲーネフは、ロシアは欧州に属しており欧州と分離した道を行くというばかげた空想は避けなければならないと考え、西欧派の立場を明確に支持した。
しかし、彼が指摘したその空想はここ数年、「ロシアが第一」と主張する民族主義者やロシア正教会、それに文化省にあおられ再び浮上してきた。文化省を率いる根っからの保守派の歴史家ウラジーミル・メジンスキーは西欧文化を煙たがり、ツルゲーネフのような西欧派の現代版を蔑視している。
それでも文化省はツルゲーネフ家の財産の改築費を出し、2018年11月にはモスクワ中心部にある彼の母親の旧邸宅を記念館として新装公開した。ツルゲーネフは母を嫌い、恐れると同時に心から愛していた。記念館のオープニングにはプーチンが出席した。大統領の大きな写真が玄関ホールを独占している。
ツルゲーネフが今日のロシアで礼賛される理由は何か?
それは彼が折に触れ祖国ロシアやロシア人を気難しく批判してきたとしても、紛れもないロシア人であり、ロシアを代表する文豪の一人だからだ。
そんなわけで、ツルゲーネフは文学好きのロシア人の心の中だけでなく、彼が生涯をかけて訴えてきた進歩的で西欧風の理念にことあるごとに敵意を抱いてきたロシアの地に安住の場所を持つことになった。
ツルゲーネフは1818年に(訳注=地主貴族の家に)生まれた。ムツェンスク近くのカバやナラの老木の森に囲まれ、自分の領地を所有していた。彼はその周辺の村々の生活をとりわけ厳しい筆致で描いた。
農奴制を激烈に告発した初期の作品「猟人日記(邦題)」の中で、彼は地元の農民について「やや猫背気味で、様子がいかにも気難しそうで、うさんくさげな眼つきをして、筐柳(はこやなぎ)で造った見すぼらしい小舎に暮らし、地主の畑へ出て夫役を勤めるばかりで、商売などはせず、粗末な食べ物を食べて、靴の代わりに樹の皮づくりの沓(くつ)をはいている」(訳注=角川文庫、中山省三郎訳より)と描いた。
それほど貧しく、遅れた地域にもかかわらず、ムツェンスク周辺地方は、モスクワとサンクトペテルブルクを除いたロシアのどの都会よりも多くの文才を生んだ。
州都オリョールにあるツルゲーネフ博物館の館長ヴェラ・エフレモヴァは、同地方から182人もの貴重な文才が輩出した、と言った。ツルゲーネフに加え、ロシア人として初めてノーベル文学賞を受賞したイワン・ブーニン、作曲家ドミトリー・ショスタコービチによってオペラ化された小説「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の作者ニコライ・レスコフなどだ。
ところで、ツルゲーネフは小説の中で何人かの登場人物にロシアにとって不快なことを語らせたが、英国の出版社ペンギンブックスが出所を明示しないままロンドンの地下鉄の広告にその一つを引用したことがある。それを知ったロシア外務省は、英国の「うんざりするルッソフォビア(Russophobia=「ロシア恐怖症、ロシア嫌い」の意)だ」と不満を表明した。
問題となった引用文は、ツルゲーネフの代表作「父と子(邦題)」に出てくるニヒリスト(虚無主義者)の反逆者エヴゲーニイ・バザーロフの口から出た「貴族主義、自由主義、進歩、原理……役にも立たぬ言葉の氾濫(はんらん)!
ロシア人にはそんなものはただでも要りませんよ」(訳注=新潮文庫、工藤精一郎訳より)だった。「父と子」の一部はムツェンスク近郊の彼の領地で書き上げられた。
つまり150年以上も前に書かれた小説の登場人物の言葉である。それがどうして今日の英国のロシアに対する偏見として出てくるのか、ロシア外務省は説明しなかった。
外務省が口にした「ルッソフォビア」――どんなロシア批判に対しても使われる決まり文句だ――は、実際には外国ではなく、ロシア自身の悪い癖以外の何ものでもなかった。この言葉は1876年にスラブ主義者のロシア人外交官が、ロシアを激しくののしる同僚のロシア人を見かねて思いついたのが始まりだ。
もしかするとツルゲーネフにも「ルッソフォビア」の傾向があったのではないかとの指摘に対し、ツルゲーネフ家の財産管理人のレビーナはいら立ちを見せた。しかし、彼女は一方で「彼は民族主義者でもなかった」と認めた。
「彼は国際人で、どの国でも居心地がよかった」。彼女はそう言った。
ツルゲーネフの、飲んだくれのらんちき騒ぎやだらしなさへの嫌悪は、一部のロシア人、特に彼が嘆かわしく思う悪習に染まりがちな者をいらだたせた。同時代の文豪でスラブ主義に貢献したフョードル・ドストエフスキーは、ツルゲーネフに望遠鏡を勧めた。望遠鏡で見ればもっとよくロシアを見ることができ、もっと同情するようになるだろう、と。
今日、ロシアの強硬な民族主義者たちは、数えるほどではあるが、再びこん棒を取り出し、学校の授業からツルゲーネフの本を排除しろと要求している。彼は西欧にのめり込み過ぎた、というのが理由だ。
ツルゲーネフには、レビーナが「彼は決してウォッカを飲まず、常にワインを好んだ」と言ったように、ロシアの因習に合わないところがいくつかあった。
それでも、「彼は類いまれなロシア人作家だった。それこそが本当に大事なことなのです」。彼女はそう付け加えた。(抄訳)
(Andrew Higgins)©2019 The New York Times ニューヨーク・タイムズ
ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから