1919年10月、ソウル市鐘路区の劇場「団成社(ダンソンサ)」で、「義理的仇討」が韓国映画の始まりを告げた。それから100年。数々の映画が作られ、多くの人が「韓国映画100年の歴史」をつむいできた。俳優チョン・ドヨン(46)。スポーツ東亜創刊11周年及び韓国映画100周年を迎え、100人の映画専門家を対象に実施したアンケートで、「韓国映画100年で最高の女優」に選ばれた。
いつからか、「カンヌの女王」という呼び名を重荷に感じていた。「そう呼ばれることを望んだことはない」と言うが、「涙の女王」と呼ばれるほど涙の演技で深い感情を表現し、カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞した。呼び名を恨んでも仕方がない。
「韓国映画100年で最高の女優」チョン・ドヨン。「際立った演技力」と「国内外で積んだ成果」として、映画専門家100人中44人の支持を受けた。高校3年生の時、青少年向けの雑誌モデルに抜擢されたのをきっかけに、演技の道に進んだ。「結婚したらいつでも辞めよう」という考えだった。かつては「演技がおもしろいとは思えなかった」という。
「映画『ハッピーエンド』で、考えが変わりました。ただセリフを覚えればいいというのではありませんでした。作品を中心に、キャラクターとして考え、悩むようになりました」
俳優がおもしろいと思えるようになった。撮影現場で、どんな状況も簡単には済ませない、誰よりも粘り強い俳優となった。
「一生懸命、本当に粘り強く話し合おうとします。どんな感情で、どんな物語を作っていくのか、事前に十分話し合って現場に向かいます。意思疎通は直接的でないとダメなんです」
――だから監督たちが、「怖い俳優」と言うんでしょうね
「いつも言います。『準備してくれば、怖くない』って(笑)。俳優と監督が互いに怖がることなんてないでしょう。各自がんばるのみですよ」
――「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督にも同じですか?
「私にとっては、スター監督の作品でした。本当にとっても期待しました。すべての正解は監督が持っていると思っていました。ところが、『ただ感じるように演じて』と、明確な説明をしてもらえませんでした。私には全然足らない。とってもつらくて、恨めしかったです。こんなことなら、なんで私をキャスティングしたのと、腹も立って……あはは!」
チョン・ドヨンは2008年の映画「シークレット・サンシャイン」で韓国の俳優としては初めて、カンヌ国際映画祭の女優主演賞を受賞した。まだ結婚前の、母親になる前の彼女が、(作品の中で)子どもを失い、悲鳴のような慟哭をあげて「お母さん」を熱演した。
――「チョン・ドヨンは直感の俳優。生まれ持った才能の俳優」と言う人もいます。
作品やキャラクターの分析など、演技の基本を学んだことがありません。以前は、全部を知って演じないといけないと思っていました。でも、そうではないということを『シークレット・サンシャイン』で学びました。あのつらい時間を通して。体で感じてぶつかってみないといけないんですね」
――「シークレット・サンシャイン」から何年かは、大衆性とは少し距離がありましたね。
「私がどうにかできることではありませんでした。悩みましたよ。必ずしもヒットするのがいい映画ではないけど、観客に愛される映画に出たいじゃないですか。以前と今と、シナリオを選ぶ基準が少し変わったとすれば、『本物』にこだわるようになったということです」
――「本物」にこだわるようになったのは、自然と歳を重ねたからでしょうか?
最近、CMの撮影でどこかひっかかるところがありました。私の顔らしくないんです。何か変な感じで。とはいえ、やれと言われれば、やれますよ! 歳についてはあまり考えませんが、影響がなくはないでしょう。女優としては、曖昧なポジションの歳なのかもしれませんね。作品をもっとたくさんやりたいです。
――特にラブストーリーが好きな俳優として知られています。
「好きですよ、ラブストーリー。でも、違った物語もやりたいです。それが何になるかは分からないですが」
――「シークレット・サンシャイン」直後の2007年春にご結婚されました。幼いころから良妻賢母が夢だったそうですね。
「夫は『シークレット・サンシャイン』がなければ、私たちは結ばれなかったと思うって。この男性でなければ死んじゃうっていうのが結婚と思っていましたが、そうでもないんですね。良妻賢母? 一緒にやっていかないと。互いに合わせながら生きる、そうやって、暮らしています」
チョン・ドヨンは小学4年生の子どもの母でもある。毎朝5時半に起きて、子どもの朝ごはんと登校の準備をする。主演映画「誕生日」の公開(4月3日)を目前に控える。2014年4月に起こった惨事(注:セウォル号事故)で子どもを失った母を演じる。予定されたインタビュー時間が過ぎても、「忘れてはならない話」と、映画について何度も強調した。
(2019年3月25日付東亜日報 ユン・ヨス、イ・ヘリ スポーツ東亜記者)
(翻訳・成川彩)