父親としてツェン・ユイトーは、幸せなはずだった。なのに、うなだれて右手を目頭にあてた。
2018年9月、テニスの全米オープン。ジュニア部門で息子の台湾選手ツェン・チュンシン〈曽俊欣〉(17)が、勝ち進んだ直後に取材をしたときのことだった。友人が背中をたたいて励ましても、涙の理由を説明できるようになるまで1分以上もかかった。
台湾に残してきた妻ツァイ・チョンハンのことが、胸につかえていた。夫婦は、台北の楽華夜市に小さな屋台を構えている。父子がテニスの試合で遠征中は、妻が深夜まで一人で切り盛りする。ところが、筋腱炎が悪化し、立っているのがやっとの状態になっていた。
父は、息子にテニスを教え込んだ。国際大会に出るようになると、世界中を一緒に回り、ついに台北の下層社会からジュニアの世界ランキング1位が生まれた。英名ジェーソンで知られる息子は、18年末には香港の大会でプロに転向。成功すれば、弟のユンディー(15)を含む一家4人の暮らしを支えるようになる。
18年の活躍は、めざましかった。四大大会のジュニア部門を見ると、1月には全豪オープンで準優勝。6月の全仏オープンと7月のウィンブルドンを制した。9月の全米オープンも準決勝まで進み、この年のジュニアランキングのトップに輝いた。
しかし、留守を守る母親に、過重な負担のしわ寄せがきた。
夜市の屋台は、1999年に営むようになった。果物やトマトを串刺しにし、水あめをかけて固めたおやつタンフールー(糖葫蘆)を売っている。午後4時から午前1時まで、ほとんど休みもとらずに立ちつくすことになる。
ツァイは、18年になって筋腱炎に苦しむようになった。症状は悪化し、「もう体がもたない」と最近は言い始めた――涙がようやく止まったツェンは、声を絞り出すようにして妻のことを語ってくれた。「もちろん、息子がテニスで成功すれば、経済的な心配はさほどしないで済むようにはなる」
それでも、両親は、息子に負担はかけまいと、一家の大黒柱になるよう促すことはなかった。とはいえ、そのテニスに何がかかっているかは、一家の誰もがよく知っている。
ジェーソンは、テニスのプロとしてのランキングは441位となる。ただし、100位以内に入らないと、テニスの試合だけで生活を支えることは難しいとされる。ツアーを渡り歩く旅費や、コーチへの謝礼も捻出せねばならないからだ。現在は、地元大企業の台湾プラスチックグループとチャイナエアライン(中華航空)から資金援助を受け、台湾のテニス協会も練習や移動の費用を補助している。
テニスの四大大会のジュニア部門で、同じ年に二つの大会を制したのは、12年のカナダ選手フィリップ・ペリオ(2019年1月30日に25歳)以来の快挙だった。ただし、それだけでプロとして成功することが約束されるわけではない。ペリオは現在259位。ベストでも、18年5月の161位だった。プロになってからの5年間で稼いだ賞金は27万4386ドル。年平均だと、5万5千ドル弱になる。
もちろん、四大大会のジュニア部門の覇者には、後にスーパースターになった選手もいる。ジョン・マッケンロー、ロジャー・フェデラー、ステファン・エドベリ、アンディ・ロディックらがそうだ。一方で、ウラジミール・イニャティック、ユキ・バンブリやペリオは、さほどの成績は残していない。
ジェーソンの誕生日は、フェデラーと同じ8月8日。テニスツアーで食べていけるだけのショットと粘り強さ、ベースラインでのパワーを持ち合わせている。しかし、問題は、まず体格だろう。身長5フィート8インチ(173センチ弱)、体重136ポンド(62キロ弱)。強烈なサーブをもつ背の高い選手が、有利になっているこの競技で、ランキングを上げるのは容易ではないはずだ。
「確かに、今は小さなことが目立つ」とジェーソンのコーチ、パトリック・モラトグルーは話す(フランスで自分の名前を付けた有名なテニススクールを経営しており、ジェーソンも13歳のときからここで練習している)。「でも、これからまだ強くなるだろう。信じられないぐらいに練習熱心だからだ。選手として成功するのに、体格がよくなければダメということはない。あのノバク・ジョコビッチの体重は、かなり軽い方だ」
自分のスクールに入ったときから、ジェーソンの練習ぶりにはビックリしたとムラトグルーは振り返る。「本当に信じられないほどの練習のムシだ。その内容も質が高く、濃密で、これほどの練習量をこなす選手はものすごく珍しい」
ジェーソンは、父(英名はエド)に教えられて、5歳のときにテニスを始めた。どんどん上手になり、数年後には並外れた素質の持ち主であることがはっきりした。息子の腕をさらに伸ばすのに、夜の屋台を営んでいることが大きなプラスになった。昼間にテニスを教えることができたからだ。
その1日は、こう過ぎていくことが多かった。
仕事を終え、午前2時に就寝。3時間半ほどで起き、早朝練習。帰宅してシャワー。息子の登校後、少し横になり、午後に練習再開。終わると、妻と一緒に仕事へ。
しかし、息子が試合で世界を転戦するようになると、父も行動をほとんどともにした。残された母が、仕事を続けた。
「父はいつも一緒で、自分をよく支えてくれた」とジェーソンは感謝する。
母への思いもそうだ。「仕事をものすごくがんばってくれた。テニスに打ち込む自分にとっても、助けになった」
ジェーソンと弟は、ときどきは親の仕事場に出向いた。家から歩いて5分で屋台に。宿題をしたり、トマトの皮をむいて手伝ったりした。でも、ジェーソンの心は、常にテニスとともにあった。
「友達とどこかに出かけて遊びに興じることは、あまりなかった。いつも、テニス、テニスだった。それが、プロとしてやらねばならないことだと今は思っている」
正直なところ、タンフールーはそれほど好きではない。好物は、アイスクリーム。しかし、練習と同じように食生活を厳しく組み立てる中で、食べるのをやめた。それでも、18年は2度だけ口に運んだ。全仏とウィンブルドンを制したお祝いのごちそうだった。
台北に残っていたツァイには、必ず夫から試合の結果が入ってきた。息子が勝つと励みになり、「苦しくてもなんとか乗り越えられそうな勇気がわいてくる」と最近のツァイの電子メールにはあった。
しかし、一家を支えてきたこの構図は、もう維持できそうにない。ツァイには休養が必要になった。だから、19年春には屋台を閉めることにしている(法的には売ることができず、新たな収入をもたらすことはない)。それでも、ジェーソンへの「テニス投資」が実り、一家の経済状況は少しはよくなるかもしれない。
「プロとして、どこまで通用するかは分からない」と父は言う。「でも、息子の素質を最大限に伸ばすためには、私たちはどんなことでもするつもりだ」(抄訳)
(David Waldstein)©2018 The New York Times
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