100年前の1919年1月21日、徳寿宮で高宗皇帝(注:大韓帝国の皇帝)が67歳で亡くなった。正確な死因は明らかになっていないが、健康だった高宗がこの日早朝、シッケ(注:朝鮮伝統の発酵飲料)などを飲んで突然倒れ、死体が異様に膨れ上がっていたという点などから、日本による毒殺ではないかという噂が広まった。
怒った民衆は、2・8独立宣言の原動力となり、高宗の葬儀(3月3日)を前に全国から集まってきた民衆が3・1独立運動に大挙して合流した。多くの若者がデモの途中で高宗の御真影がある慶応宮に集まって泣きながら独立万歳を叫んだという。日本が葬儀の列の先頭に日本伝統の祭礼服を着た人たちを立たせ、朝鮮王朝伝統の儀礼でない日本式にねじ曲げられた葬儀も、民衆の怒りを買った理由だ。
高宗の逝去は、帝国を終わらせ、民国を誕生させる起爆剤になった。2・8独立宣言、3・1独立宣言につながる精神を受け、この年の4月、中国・上海に大韓民国臨時政府ができた。しなしながら臨時政府はもはや「王族」を認めなかった。亡国の君主という限界の中で、高宗はオランダのハーグに密使を派遣し、義兵(注:日本の支配に抵抗した民間兵)を支援するなど、独立のために努力したのは確かだ。しかしながら、国を守るのに失敗した君主に対し、当代の評価は冷たかった。高宗は京畿道南楊州の洪陵に埋葬された。高宗逝去の24年前に日本人の刺客に殺害され、清涼里近くの山に埋められていた明成皇后(1851~1895)も、そこに合葬された。
文化財庁は昨年、ソウルの徳寿宮近くに「高宗の道」を造成した。明成皇后が殺害された後、高宗が日本を恐れ、ロシア公使館に逃れた道だ。大邱中区には、高宗の息子、純宗が日本の圧力を受けて巡行し、日本の建国神話の天照大神の位牌を安置した皇大神宮を参拝した道(純宗皇帝南巡行路)がある。悲劇の歴史を記憶しようというダークツーリズムと言われるが、本来のダークツーリズムとは少し違う。日本によって無力な指導者のイメージが植え付けられた高宗についての真実を、改めて検証し、悲劇の時代の教訓を刻む努力が必要だ。
(2019年1月21日付東亜日報 イ・ジング論説委員)
(翻訳・成川彩)