「オーガニックの女神」と呼ばれるアリス・ウォータースによる 「カリフォルニア料理」発祥のレストラン、「シェ・パニーズ」がオープンして半世紀近くになろうとしている。
この店は長年地域に愛され、オーガニック、ローカル、シーズナルのコンセプトを世界に発信している。予約も入りにくい店でありながら、世界にオンリーワンの貴重なレストランだ。温かみのある木造建築の店先に見守るようにそびえるバンニャバンニャの木、春には藤が咲き乱れ、季節の草花が訪れる度出迎えてくれる。アリスの「客を自分の家に招き入れるような店」という想いは昔も今も変わらない。しかしこの小さな「パニーズの家」(店名)から始まった「食革命」は、レストランの“在り方”、を変え、人々の食生活を豊かにし、健全な社会作りの基礎となる「食育」を世界で推進している。そして今年、新たなるプロジェクト、「子供と農家」が始動し始めた。
シンプルな家庭料理ー「シェ・パニーズ」
アリスは歳を重ねても食育活動は留まるところを知らない。会う度に新しいプロジェクトを掲げ生き生きしている。今回は、「子供と農家」について話を聞くことができた。しかし、この説明をするには、彼女が1960年代後半に体験したフランス留学まで遡る必要がある。そこにアリスの「オーガニック食」の悟りと「食革命」の根源があるからだ。
「フランスの街にはたくさんの彩りの良い野菜やフルーツが並べられたスタンドがあって、まるで夢の国のようだったわ。レストランにはいつも美しい花が飾ってあって、家族や友達が何時間も楽しく食事をするのよ」とアリスは当時の思い出のこととなると、まるで昨日のことのように目を輝かせる。
一方、当時のアメリカは大量生産・大量消費時代。食生活といえば、ファーストフードやファミリーレストランが一世を風靡し、食べ物の出所も問わず感謝の意もなく早く食事を済ませているのが当たり前だった。彼女は元々プロのシェフでは無いが、家にゲストを招き料理で人を喜ばせるのが大好きだった。「いつものように家庭料理をゲストに作るなら出来るかもしれない」と1971年、「シェ・パニーズ」のドアを開けた。そして、アメリカで初めて持続可能な農業による食材を使ったオーガニック食の大切さを唱えた。
「校庭菜園」から始まった「食育」革命
その彼女が世界の食育の先導者としてムーブメントを起こした背景には、モンテッソーリ教育の先生としての経験がある。モンテッソーリ教育とは、子供達が手に触れ、目に見えるもの、匂い、聴こえるものから「居心地良い美しい場所」「美味しいもの」「楽しい事」と思える五感を養う教育法で、子供達の自由で健やかな発育を目指したプログラムだ。「この勉強はずっと私の人生に大きな影響を与えているのよ。すべてここからスタートしたと言っても過言じゃないわ」
この経験がフルに生かされているのが「エディブルスクールヤード(校庭菜園)だ。以前の記事でも紹介したが、アリスは1995年、カリフォルニア州バークレーのキング中学校で初めてこれを実現させた。
広大な敷地には野菜農園、鶏小屋、温室、ピザ窯まで備わっている。併設されたキッチンで子供達は自ら育て、収穫した野菜を使って調理をし、皆と輪になって食事をし、跡片付けから野菜くずを使ったコンポスト作りまで一環の作業をする。包丁やキッチンツールも大人が使うものと同じ。それだけに教師は真剣にテーブルを見守り、子供達の責任感を養うという教育の本質が実践されている。
子供達が学ぶのは、料理だけではない。「大切なのは料理に使う食材が何処から来ているかと言うこと」と校庭菜園を担当する教師は言う。例えば、今日は豆とトウモロコシ、かぼちゃを使ったメニューを作るとすると、それらの食材の原産地は何処なのか、どんな種類があり、世界の何処で育ったものなのか、沢山の疑問が湧き上がる。例えば豆一つをとっても、文化、歴史、地理など、「世界」の食文化を学ぶ場所なのだ。そんな子供たちがワクワクするような授業が他にあるだろうか? 校庭菜園と子供達の成長を見守っているのは教師だけではない。子供達の親、地域の人々もまたこの菜園を見守り誇りに思っているのだ。
「私も子供達や教師たちと一緒に作業して学び子供達の成長を見るのは嬉しいわ。『やってよかった!』とつくづく思えるの」。アリスは食と子供と農家を繋ぐ役割を20代の頃からずっと夢見てきた。今、世界5500校以上が「校庭菜園」のカリキュラムをそれぞれの形態で授業や活動に取り入れている。現在、日本では唯一、多摩市立愛和小学校(東京都)が「エディブル授業」として総合教育課程に加えている。
作物を育てる事は人間らしさを養う
自然と共存する、食べ物がどこから来たかを学ぶ、農家を尊敬し農家の仕事を学ぶ、一緒に食べる –––これらの活動に貫かれているアリスの食育哲学は、「子どもたちを健やかに育てる」ということだ。農業を通じて育まれる優しさや自然を敬う精神は、本来人間が持つ本能なのだが、もし子供達が工場で生産された加工食品(コンビニのお弁当など)ばかりを食べているなら、食材がどこから来たのか、誰が手を介して生産しているかなど知る由も無い。「子供と農家」プログラムでは、地元農家で収穫されたもので作ったオーガニックで美味しい給食を子供達が食べることで、子どもたちは“本物の食べ物”の味覚を覚え、その産地も学ぶことができる。また、農家から直接買い付ける事で、仲介手数料を省いて農家を支援できる。これを各自治体で実行するという構想だ。「そのモデルシティーが滋賀県なのよ」とアリスが嬉しそうに言った。
滋賀県がモデルシティー
去年の4月、アリスは滋賀県を訪れ、持続可能な農業と子供達への食育の大切さを唱え、食による地域の活性化を応援することを約束した。日本での体験と感動はずっと心に残っていると言う。
「滋賀にまた行きたい。できれば住んでみたい」とアリスが言った。「ほら、あの“キャンディーファーム”もとても素敵だった」!「え、キャンディー」?でも私は咄嗟に彼女の言わんとしていることが理解できた。英語でお菓子の事を「キャンディー」とも表現する。菓子メーカー「たねや」が運営する近江八幡市の「ラ コリーナ近江八幡」の事だった。すでに子供達を招いて体験型農業を実施していた滋賀県にアリスは感動したと言う。「『子供と農家』プログラムを滋賀県がリードしてくれたらきっと日本全国に美味しい給食を出す学校が増えるわ」とキラキラと目を輝かせた。
世界に広がる食育の輪
「子供達に良い食事を与えるのが学校の義務」とアリスは言う。日本で給食といえばその食材の仕入れ法や給食費というのが問題となっているが、この「子供と農家」プロジェクトで提供される給食は「無料にすべき」という。その実現は可能なのだろうか? 彼女にとって食育とは、将来を担う子供の教育に欠かせない、生きるために必要な生態系の学習、生物への共感、思いやり、協調性と自立心で、それは多くの学問にも繋がる「必修科目」の位置付けなのだ。
既にバークレー市では随分前から、アリスの働きかけで全ての公立小中学校が農家から直接買い付けたオーガニックな食材で作られた給食を出している。それがどのように子供達と社会に影響を与えているか想像できるだろうか? 荒廃していた学校でのいじめ問題や規律問題が激減したのは言うまでもない。しかし実行するには予算が必要だ。「農家から直接買うことで食材費はかなり抑えられるのよ。問題は何を優先にするかと言うことじゃないかしら?学校予算全てを掻き集め、食を中心に予算を立てるときっと実行できるわ」。アリスの顔は誇らしく見えた。
アリスによる「子供と農家」の提案は次のようなものだ。
- 食材は農家から直接買う
- 子供達に(学校で)持続可能な農家の食材で作った給食を与える
- 食物はどこから来るのか、地域と食の価値を学ばせる
富や名声ではない、アリスはただ一つの目的をもう50年以上も持ち続けている。それは、世界中の人が環境を壊すことなく美味しい食事をし、健康な生活を送ること。70歳を過ぎた今でもそのパッションは変わらない。そんな彼女の生涯をかけたプロジェクト、「子供と農業」が世界に向けて動き始めた。