■巨大な構造物、4年前の騒動の末
羽田空港を飛び立って10分もかからないうちに視界に入ってきたのは、巨大な楕円形の構造物だった。
昨年11月、カメラマンとともにヘリコプターに乗り、2020年東京五輪のメイン会場となる新国立競技場を見下ろした。真上を旋回してのぞきこむ。まるで、巨大な穴が出現したようだ。周辺の神宮球場や秩父宮ラグビー場が、すごく小ぶりに感じられた。
来年の7月24日夜、世界中の視線が、このスタジアムに集まる。盛大な花火とともに、地球最大のスポーツの祭典の幕開けを告げるだろう。しかし、上空を旋回しながら、カウントダウンが近づく高揚感は湧いてこなかった。去来したのは、むしろ、後悔に近い感情だ。
4年前、私はこの競技場の建て替えを巡る迷走の渦中にいた。スポーツ記者には珍しく、ネクタイを締めて国会に通った。
12年に公募46作品から選ばれたイラク出身の建築家ザハ・ハディドのデザインへの批判が高まっていた。奇抜さと実用性を度外視したデザインで「アンビルト(建築されない)の女王」とも称されたハディドの案は総工費が膨れあがり、修正を迫られた。建築界の大御所からは「神宮外苑の歴史的な文脈にそぐわない」「巨大すぎて景観を害する」といった批判が相次いだ。総工費の試算は1300億円→3000億円→1852億円→1625億円→2520億円と乱高下し、反対のうねりが高まった。
当時、朝日新聞で社説を書く立場にいた私は、同僚と共に新国立競技場の建て替え問題をテーマとした社説を、かなりの頻度で書いた。「甘すぎた構想、猛省を」「新たな選択肢で出直せ」「公共事業として失格だ」「これでは祝福できない」─。見出しを並べるだけで、計画の再考を促すスタンスがわかる。
世論の逆風に耐えかね、15年7月17日、首相の安倍晋三は計画の白紙撤回を表明する。しかし、首相が「ゼロベースで見直す」と明言した出直しは、事実上、出来レースに近かった。
官邸と水面下でやりとりをしていた大成建設などと組んだ隈研吾のデザインが、12月に選ばれた。優先されたのはデザインや機能性の評価ではなく、「工期短縮」の実現性。開閉式屋根、空調完備、「日本の新技術のショーケース」というバラ色の青写真は跡形なく消えた。大会後、どう有効活用するのか、という視点は置き去りにされた。突き詰めれば、とにかくコストを抑え、スポーツ施設の体裁を整えて五輪に間に合わせることに徹するしかなかったのだ。
そんな背景を思い起こしながら、上空から「楕円形の構造物」を眺める。白紙撤回の片棒を担ぐ形になったが、どれだけ建設的な問題提起になっていたか。その後ろめたさが、五輪のスタジアムを、原点から見つめ直す動機づけとなった。
■五輪発祥の地へ 三つのスタジアムの明暗
私は1冊の本を鞄に入れてアテネに飛んだ。作家の沢木耕太郎が1996年のアトランタ五輪を中心に描いた「冠(コロナ) 廃墟の光」(朝日新聞出版)だ。
古代五輪の舞台、ギリシャのオリンピアへの旅からはじまるノンフィクションには、予言めいた一節がある。「近代オリンピックは、いま、ゆっくりと滅びの道を歩みはじめたのではあるまいか」。それは、新国立競技場の迷走のさなかに、私の脳裏をかすめた思いでもあった。
沢木は、近代五輪100周年となる節目の大会に、第1回大会開催地のアテネでなく、米国のアトランタが選ばれたことを「巨大資本の前にひれ伏した象徴的な出来事」と書いた。国際オリンピック委員会(IOC)は巨額の放映権料などを払う米国の意向をくむ。大会の肥大化による経費の膨張、それに伴う招致熱の冷え込み。衰退への「予言」は、東京五輪を前にした今、現実味を帯びてきたようにも思える。沢木に、アテネから電話をかけて執筆当時の思いを尋ねた。
「なんの必然性もないところでの開催を、象徴的に感じた。経済的な側面だけで開催都市が決まっていく不快な感じがあった」という。その不快さは、野放図に建設費が膨らみ、国民から反発を受けて白紙撤回に追い込まれた新国立競技場の騒動と、どこか通じるのではないか。ギリシャは古代、近代、現代と長い歴史の中で、それぞれ五輪が催された発祥の国だ。私は、その三つの五輪のスタジアムを巡ることにした。
アトランタの8年後の2004年に開かれたアテネ五輪は、新設した立派すぎる会場群の後利用がままならず、「負の遺産」を残した代表格の汚名を着せられている。
野球やソフトボールの会場があった地区はその後、シリアからの難民が一時的に暮らすシェルターにもなったが、今は封鎖。主会場があった地区には、大会当時は各国の旗が翻った国旗掲揚ポールや、水が止められた噴水が残っていた。
何が失敗だったのか。アテネ五輪の大会組織委員会幹部で、今はギリシャ・オリンピック委員会会長のスピロス・カプラロスに単刀直入に尋ねた。
「国内や国際競技連盟に言われるがまま、後の利用計画も立てずにレガシー(遺産)にしようという発想が間違っていた。地元の建設業者は大歓迎だったけど。まあ、どこの国だって同じからくりじゃないのか」。会長は率直だった。
メインスタジアムは二つのプロサッカーチームが利用しているものの、自前のスタジアムを建設中だったり、移転を希望したりしている。維持費を尋ねると「国の管轄だから、私は知らない」。そこに当事者意識はなかった。
一方で、1896年に初めて近代五輪が開かれたときの主会場だったパナシナイコ競技場は年間30万人が訪れ、100万ユーロを超す収入を得る観光名所になっているという。訪ねてみると、観光バスが横付けにされ、人々が吸い込まれていく。大理石製の観客席の上の方からはパルテノン神殿が望める。「遺跡」としての第2の人生を歩んでいた。
次の日、アテネから南西へ、車で3時間半ほどかけてペロポネソス半島のオリンピアに足を運ぶと、そこには、パナシナイコ競技場とは、またけた違いの観光客が詰めかけていた。アーチ状の天蓋をもつ石の通路を抜けると、長方形の空き地が広がる。そこは、紀元前776年から行われた古代五輪の主会場跡だ。これこそが、アスリートが競いあう舞台を意味する「スタジアム」の語源となった「スタディオン」なのだと、感慨を覚えた。
ふと見ると、観光客の一団が、おもむろに駆け出した。勝てばオリーブの冠が授けられた古代のランナーと、時空を越えて競走する感覚か。発祥の国しか持ち得ない「レガシー」が息づいていた。
■歳月と物語がレガシーを作る
ギリシャを訪ねた翌月の12月、私は1992年五輪の開催都市、スペイン・バルセロナの「カンプノウ」を訪れた。「ここは、スタジアムツアーの入場者だけで年間170万人が押し寄せ、世界遺産サグラダ・ファミリア教会に次ぐほどの観光名所になっているんですよ」。そう教えてくれたのは、日建設計バルセロナ支店の鈴木力(50)だ。
FCバルセロナの本拠で、五輪のサッカー決勝では開催国の金メダルに沸いた欧州最大のサッカー専用スタジアム。会社は3年前、世界中の名だたる事務所からの応募26作品の国際コンペを勝ち抜いて、老朽化の進むこのスタジアムの改築を手がけている。
なぜ欧州では実績がない日本の会社が選ばれたのか。決め手は、スタジアムの外周に覆いをつくらず、バルコニーのようにする開放的な構造だった。コンペに向けてメンバーは現地を訪ね、カフェでも店内よりも道ばたの席から埋まっていく土地柄を感じ取っていた。観客がスタジアムのコンコースから街の景色を眺められるデザインは、こうして生まれた。
実は、日建設計は新国立競技場でハディドと組んだ計画が採用されながらも、白紙撤回の憂き目に遭っている。その苦汁をなめたチームの主力が、新カンプノウ計画にも携わっている。設計に携わる伊庭野大輔(39)は、始めてカンプノウで試合観戦したときの衝撃が忘れられない。「最前列の席で見たんですけど、10万人の観客が醸し出す密集感は強烈でした」
サッカーが市民の生活に深く根づいている欧州と違い、日本のスタジアムは公営が多く、陸上競技との兼用でトラックがピッチの周りを囲むのが今も主流。自然と観客席は遠くなる。だから、サッカー専用スタジアム独特の、間近で目にする選手たちの躍動感と迫力は、伊庭野にとって圧巻の「非日常空間」だった。そこには、マラドーナ、ロナウジーニョ、メッシ、イニエスタらのスターが彩ってきた伝説が息づく。フランコ将軍の圧制下でもサポーターが集まり、カタルーニャ地方の自主独立と郷土愛を体現してきた重みも加わる。スタジアムに「レガシー」の風格を漂わせるには、歳月と物語が欠かせない。ギリシャでも感じた思いは、確信に近づいた。
一方、同じバルセロナの街には、トラックを備えた巨大スタジアムがある。五輪の主会場となったモンジュイック競技場だ。マラソンで有森裕子や森下広一が激走してメダルをつかんだ栄光の舞台だが、中村俊輔も所属したサッカークラブ、エスパニョールが自前の専用スタジアムを建設した2009年以来、主な使い手がなくなってしまった。
私は似た運命をたどった、1972年のミュンヘン五輪の主会場「オリンピア・シュタディオン」を思い出した。かつては欧州屈指の強豪バイエルン・ミュンヘンが本拠として使っていたが、2006年W杯ドイツ大会の前年、自前で建てた7万人強収容のサッカー専用スタジアム「アリアンツ・アリーナ」に本拠を移した。旧西ドイツ代表の元名ストライカーで社長のカールハインツ・ルンメニゲにインタビューした際、誇らしげに語ってくれた。「自前でスタジアムを持つことで、VIPルームの充実などビジネスの幅が広がり、付加価値を高められた」
資本力のあるサッカークラブは、お仕着せの器ではなく、自らの財源で魅力的なスタジアムを造り、巣立っていく。スタジアムの明暗が浮かび上がらせるのは、使い勝手が悪ければ「五輪スタジアム」のブランドも、遠慮なく袖にされてしまう時代の流れだ。
■スタジアムの意義、世に問えず
欧州の競技場を巡るうち、新国立競技場への不安が増してきた。運営主体の日本スポーツ振興センター(JSC)で建て替え問題の最前線にいた高崎義孝(63)に会いに行った。
「建築家の安藤忠雄さんは、日本の土木建築技術力でしかつくり得ないものをめざし、作曲家の都倉俊一さんは、世界のアーティストが呼べるのはハディド氏の設計だと熱弁をふるい、日本サッカー協会の小倉純二・名誉会長は、再び日本にW杯を呼べる機能を希望した。すべてを盛り込み、結果的に破滅しました」
五輪という錦の御旗に乗っかった同床異夢。総工費が膨れても、自分の財布から出すわけではないから、誰もがコスト意識に鈍感なままだった。高崎はいう。「責任の所在があいまいな事なかれ主義で進んだ。スタジアムの意義を正面から世論に問い、納得させられなかった」
出直した新国立の将来には、悲観的な声しか聞こえてこない。陸上トラックを設置するために客席とピッチの間に距離ができたが、主要な陸上大会に必須の練習用トラックの用地は大会期間中しか確保できない。世界選手権はおろか、日本選手権も開けない仕様になる。
そこで政府は17年、将来的にはトラックをなくし、球技専用スタジアムに変える方針を打ち出した。だが、平坦なトラック部分に客席を並べても見にくいし、地下鉄大江戸線が近くを通り、地下を掘り下げるのも難しい。観客目線の臨場感のなさは変わりそうにない。
そもそも、東京、いや日本には常に8万人の観客で満杯に出来るチームは、サッカーにもラグビーにもない。サッカーW杯が再び日本に来るとしても、2040年代以降と考えるのが、現実的だ。
■「盆踊りのやぐら」に反論できるのか
国立競技場の建て替えが決まる前の10年に、私は「首都に必要なハコモノがある」という記事を書いた。築半世紀を超えて老朽化が進む中、幾多のドラマを刻んだ舞台が朽ちるのは、残念に思えたからだ。私にとって、旧国立競技場は小学校時代、ジーコが活躍したクラブ世界一決定戦を生観戦したのが最初の思い出だ。1991年の世界陸上で、100メートルの世界新を出した直後のカール・ルイス(米)に向かって「カール! カール!」と絶叫するテレビの中の長嶋茂雄を思い浮かべる人も、64年東京五輪のマラソンで円谷幸吉とバジル・ヒートリー(英)のデッドヒートを胸に刻む人もいるだろう。
だが、読者から批判の手紙が多く届いた。「人口減少に向かう国で、なぜ巨費を投じて新たな巨大スタジアムが必要なのか」。そんな趣旨の苦言が多かった。
JSCは五輪後の新国立競技場について「100年後を見据え、大地に根ざす『生命の大樹』を目指す」と掲げる。でも、競技場に「生命」を吹き込むのは建物本体ではない。アスリートの躍動であり、歓喜と落胆を目撃する観客の記憶が年輪となって「レガシー」となる。
五輪の競技場は「盆踊りのやぐら」でいい、という人もいる。祭りの日だけ組み立てて、終われば解体できるものを造ればいい、というのだ。この発想に、真っ向から反論できるスポーツ関係者はいるだろうか。五輪招致に成功したからこそ1500億円を超す建て替えが実現した一方、皮肉にも完成させるタイムリミットが設定されたことで、建築費は高騰し、大会後を見据えた仕様を熟考する時間もなかった。
五輪・パラリンピックが終われば、国がスポーツに向けるまなざしは冷ややかになる。予算削減が必至の独立行政法人、JSCに新国立を持て余す危機感は感じない。スポーツ界も、当事者意識は薄い。
ハディド案のときと同じく、誰もが傍観者のように振る舞う悲劇を繰り返すのか。新国立は年間維持費だけで24億円と試算される。神宮外苑の一等地に佇む巨大なハコの「余生」を拝みたくは、ない。