1. HOME
  2. 特集
  3. 「麻薬」のある世界
  4. 政府がヘロインを配るスイス 薬物依存を健康問題と考える発想

政府がヘロインを配るスイス 薬物依存を健康問題と考える発想

World Now 更新日: 公開日:
純度100%の医療用ヘロイン入り瓶=丹内敦子撮影

狙いは「社会に迎え入れる」 「薬物問題は犯罪行為ではなく、健康や公衆衛生の問題」ととらえるのが、スイスだ。政府が患者にヘロインを処方したり、依存者が麻薬を安全に使える「注射室」が設けられたりしている。現場から浮かんだのは、問題を抱えた人を再び社会に迎え入れようという「包摂性」の考え方だ。(丹内敦子)

■政府と医師が管理するヘロイン投与

「これは純度100%。路上で売っているのは10%ほどだ」 

首都ベルンにある、ヘロイン依存者を支援するNGO「KODA-1」。共同ディレクターのフィリップ・ステットラ(46)は、小瓶に入った粉末状ヘロインをかざしてそう言った。医療用純度100%のヘロイン(ジアモルヒネ)は1グラム約20スイスフラン(約2300円)だが、路上では純度10%程度で50スイスフランするという。 

スイスには、医師の管理下でヘロインを処方する治療(SIH)がある。ここでは、スイス政府の委託を受け、登録した約160人の依存者にヘロインを処方。大半は1日2回、ここで自ら注射する。年中無休で、近くの大学病院の精神科医3人が交代で診察や処方を担当する。週末は看護師が医師と連絡を取りながら処方、監督する態勢をとる。各部屋は厳重に施錠。患者は入室時、指紋認証を求められることもある。 

ヘロインを受け取り、ここで注射して使用する
ヘロインを受け取る部屋に入る前、指紋認証を求められることがあると説明するステットラ

利用者は平均44歳、7割弱が男性だ。平均17年間継続してヘロインを使用し、多くが薬物の問題とメンタルの問題を抱えているという。ステットラは「私たちの目標はまず、彼らが生き延びること。毎日ここに来て薬をもらって使い、帰って寝る。それを繰り返せば、誰かを困らせたり、罪を犯したりしない。本当の社会への再包摂ではないが、外に放っておくよりはいい」と話す。 

スイスでは一部の大麻を除き、麻薬などの所持や使用は法律上は禁止だが、「薬物問題は一義的に犯罪行為ではなく、健康問題、公衆衛生問題ととらえる」(連邦内務省公衆衛生局)。SIHは治療という位置づけで例外的に認めている。 

スイスはSIHを1994年に試験導入、98年に本採用。ヘロインは依存性が強く、薬を手に入れるために盗みや売春などの罪を犯しやすい。ならば健康保険を適用し、医師の管理下で処方・摂取させた方が本人や地域への害が少なくなる。政府がヘロインの供給の一部を管理することで、犯罪組織への打撃にもなるという考えからだ。

人口約850万のスイスで現在、約1700人がSIHを受ける。18歳以上で、2年以上継続してヘロインを使用、メタドン維持療法などの治療で効果が得られなかった重篤な依存者であることなどが条件だ。 

連邦内務省公衆衛生局でSIHを担当する医師カトリーヌ・リテ(53)は「SIHでは、患者は心理療法、心理社会学療法など全体的なケアを受けなければならない。私たち医師は患者に寄り添い、時期ごとに必要なものを的確に提供しなければならない」と話す。 

■まずトライ、結果を評価して政策決める

医師の判断でヘロインやモルヒネを依存者に処方する治療法は、英国で1920年代から細々と実施されていた。1990年代初め、スイスの医師や研究者らが英国を見学。処方だけではなく、転売などを防ぐために医療関係者の厳しい監督下での摂取までを定めた政策につくり直して導入した。

他にヘロイン処方を行う国は現在、欧州で独、オランダ、英、ルクセンブルク、デンマークの5カ国。一度は導入して中止した国もある。開始から10年以上を経て、路上販売ヘロインや他の薬物使用が減り、ヘロイン関連の犯罪も減るなど、効果が実証されている。 

EUの機関は、医療関係者らの人件費なども含めた実施国でのコストは、1人あたり年間最大2万400ユーロ(約260万円)と算出。刑務所運営などの費用を考えると「埋め合わせられる」と効果を認めている。 

連邦内務省公衆衛生局のディアン・シュティーバー・ブフリ(51)はスイスの政策づくりをこう表現する。「私たちはまずトライし、結果を評価して決める。ゆっくりだが、事実に基づいて決めて実施するのです」

■普通の生活に戻る手助け

ベルンの美術館やレストランが並ぶ一角に、ベルン州と連携して薬物依存者らを支援する団体「Contact」ベルン支部があった。扉を開けると、まず目に入ってくるのはカウンターやテーブルで、まるでカフェのよう。しかし、その奥に「注射室」がある。 

「Contact」ベルン支部の扉を開けると、机やカウンターがあり、普通のカフェのよう

注射室は、薬物依存者らが薬物を「安全」に使えるよう設けられている。看護師らの監視下で、致死量を超えるような摂取や、注射器の使い回しによる感染症を防ぐ。薬物使用者らが住居や仕事で困ったことがあれば、ソーシャルワーカーらに相談もできる。薬物使用者らの孤立を防ぎ、社会との接点になることも注射室の大きな役割になっている。 

こうした注射室は1986年、「Contact」が世界で初めてベルンに開設した。現在、欧州ではスイスのほか、独、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、スペイン、仏、ベルギーの8カ国に設置されている。 

「Contact」ベルン支部の代表クリスチャン・ブビ・ルフナ(50)は言う。「注射室ができた当初は、警察にこうした施設の重要性を理解してもらうのは大変だった。しかし、双方で何度も何度も話し合い、少しずつ理解してもらった」

「Contact」ベルン支部代表のクリスチャン・ブビ・ルフナ氏

ベルン支部の注射室は、使用者が薬物を「注射する」スペースと、「吸引する」スペースとに分けられ、計22席ある。棚には真新しい注射器や針、ストローが並べられている。ドアの上には部屋全体を監視できるモニターがあり、異変がないか別室でチェックしている。 

「違法薬物は自分で持ってきて、部屋は1人15分しか使えない。1日に約200人が利用するのでね」とルフナは話す。室内で使用者同士が薬物を交換したり、飲食したりすることは禁じられている。注射室の外では、注射器交換のほか安価な食事やシャワー、衣服を提供している。 

手前の棚には消毒用ガーゼや、薬物を摂取するのに使うスプーンなどが置かれていた。奥は薬物を「吸引する」ための部屋

現在ベルン支部に登録する使用者は約1200人、定期的に通ってくるのは約750人で約3分の1が働いているという。22年間、この仕事を続けるルフナは言う。「薬物使用者には仕事も家族も残っておらず、自己肯定感が低いことが多い。抱える問題もそれぞれ違う。だから私たちはそんな人たちが普通の生活に一歩一歩戻れるよう、手助けするんだ」 

そして、こう続ける。「コミュニティーが、そこに戻りたいという人に開かれること、これが最も大切だ。そうでないと薬物をやめる機会がなくなる。いつも社会の外に追いやられて、自分を恥じることは、健全ではない」