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韓国版「働き方改革」が始まったが

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
ソウルの通勤風景。韓国でも働き方改革が始まっている=Jean Chung/©2018 The New York Times

 イ・ハンビッは、テレビの連続ドラマ「おひとりさま 一人酒男女」の演出助手として制作にかかわっていた。酒で憂さを晴らしながら、競争率の高い公務員試験のための詰め込み勉強にいそしむ若者たちなどを描いたドラマだ。だが、何週間も休みなしに働き、時には部下を1日20時間も働かせ、イ自身が自分へのプレッシャーに負けてしまった。

 ドラマ制作の仕事が終わった数日後、彼は遺書を残して自殺した。遺書には、彼を搾り取り、その代わりに彼は部下を搾り取るという韓国の労働文化への非難が書かれていた。

 「私は一介の労働者にすぎなかった」。イは書き残した。そこに、こう書き加えていた。「私は労働者たちを搾取するマネジャー程度の存在でしかなかった」

 イのメッセージは、あまりにも過酷な長時間労働の国、韓国中で反響を呼んだ。

 日本は「過労死(death from overwork)」の概念を世界で有名にしたが、労働資料によると、韓国人は働く時間が更に長い。実際、韓国人の労働時間はアメリカ人より年間240時間多い。言い換えれば、1日8時間勤務として、年にひと月分多く働いているということだ。

 韓国警察の調べによると、韓国の自殺者は年間約1万4千人にのぼるが、このうち500人以上は労働によるプレッシャーが自殺の動機になっている。

午後8時、多くのビルでまだ窓の明かりがともる中、帰宅を急ぐサラリーマン=ソウル、Jean Chung/©2018 The New York Times

韓国の指導者はこうした状況の改革に取り組んでいる。この7月から、労働時間の上限を週計52時間(残業を含む)とする新法が施行された。政府は各企業に呼びかけ、従業員たちを夜間は帰宅させ、週末は休ませるよう促している。労働省に電話すると、まず「私たちの社会は働き過ぎから抜け出します」との録音音声メッセージが聞こえてくる。

労働時間の短縮は、あらゆる犠牲を払ってでも働くという親の世代の考え方には同意しない若者たちを解放した。

報道機関で働くコンピューターグラフィックス・デザイナーのウー・スジン(26)は、前の日に夜遅くまで働いた時は、翌朝は遅く出勤できるようになったと語った。仕事の話をする際は、これまでは、夜7時ごろから午前1時ごろまで飲み食いしながら続けていたが、今は3杯飲むところを1杯にして、早めに切り上げる。

韓国の労働に対する感情は複雑だ。戦争で打ちのめされた社会から立ち上がり、経済成長を遂げ、サムスンやヒュンダイといった世界的なブランドを生み出したのは、一生懸命に働いてきたからこそというプライドがある。長時間労働は、とりわけ家父長制社会の大黒柱としての男性にとって、名誉なこととみなされてきた。とはいえ、一方には厳しい労働環境を問題視する動きもあった。1970年代にスタートした労働運動での工場労働者の自殺は、今日でもなお活動家たちを奮い立たせる。

韓国の人たちは、「カプチル」と呼ばれる労働文化に苦しめられてきた。それは、強い立場にある人による特権的で横柄な態度を示す言葉だ。弱い立場の人は、かしずき、気まぐれにも調子を合わせることが期待される。最近の有名な例が、大韓航空の会長の娘が起こした「ナッツ・レイジ(nut rage=ナッツで激怒)」事件(訳注:日本では「ナッツ・リターン事件」と呼ばれた)。(離陸前の)機内でのオツマミの出し方が気に入らないからと、搭乗機を引き返させた。

この事件やTVのプロデューサーだったイの自殺など労働関連の死は、「働き方改革」の緊急性を後押しした。

2017年のこと。母親になったばかりの政府職員が、日曜日の朝、オフィスで倒れ込み、死亡した。当時まだ大統領選の候補だった文在寅(ムン・ジェイン)は、フェイスブックに、「私たちはもはや、働き過ぎや遅くまで勤労を強いられることに耐えられる社会ではない」と書き込んだ。

長い労働時間は経済活動にもよくない。労働生産性はかなり低下しているし、その一方で若者の失業率は10%に達している。それは労働者全体の失業率よりも高い。

17年に大統領に選出された文在寅や労働問題の専門家らは、役所も含め、仕事に区切りがつくまで従業員を職場に留め置くことを管理職に認めるような慣行は時代に合っていないと非難。そうした職場慣行は、仕事の割り振りで管理職に柔軟性を許すだろうが、組織全体としては必ずしも恩恵を得ていない。

「韓国がまだ貧しい時代だったころは、それが機能していた」と漢陽大学の人事管理学教授ユ・ギュチャン。「だが、今や時代は変わったのだ」と指摘する。

文在寅は、企業側にもっと人を雇うよう求めている。彼は、(従業員を増やして)1人当たりの労働時間を減らした方が生産性は上がるとの調査結果を引用した。大統領選でのキャンペーンで、週52時間の労働時間上限制を導入して計50万人の新たな雇用を創出するとの公約を掲げていた。

多くの企業が今回の新政策に沿うよう動き出している。労働省によると、韓国の大企業3672社のうち700社以上と公的機関がスタッフを増やしたり、増員計画を明らかにしたりしている。ただし、新規採用がフルタイムかどうか、その追跡調査はされていない。

慣例になっていた超過勤務を規制する機関も出てきた。ソウル市役所はすでに5月から、金曜日の午後7時以降の消灯とパソコンのシャットダウンを義務化している。

パク・ジュンミン(46)が働く保険会社では、パソコンは午後6時に自動的にスイッチが切れる。従業員は、残業する場合、事前に上司の許可を得るよう奨励されている。

「午後6時以降も働く必要があることが事前に分からなかった時は、もう一度パソコンを立ち上げたり、残業する理由を(上司に)伝えたりしなければならない」とパク。時折、めんどうそうな顔をしながらも、「まあ、しかし、最近は韓国人の間でもよく知られるようになった『ワーク・ライフ・バランス』にとって、週52時間勤務を上限にした新労働時間制はいいことだ」と話していた。

しかし、まだ抜け穴があちこちにあると批判する声も出ている。仕事で出張した時や顧客を接待している時など、週52時間上限はどうなるのか、はっきりしていない。介護職や交通機関勤務といったケースは新上限制度から除外されている。それに、企業側には(さまざまな理由をつけて)雇用増を免れる道もある。

「仕事を自宅に持ち帰る。従業員とボスとの間で、そうした暗黙の了解が成立することになる」とキム・ユキョンは言う。「労働者人権擁護機構(OHRW)」の公的労働代理人の一人だ。

この7月に結成された「放送労働者同盟(UBW)」はテレビ業界で働くフリーランサーたちの組合だが、そこには今回の新上限制度導入からの2日間だけで30件以上の苦情が寄せられた。あるケースは、午前7時から翌朝3時まで働いたのに、またその日の午前7時には勤務に就くよう言われたという。

2018年7月に結成されたテレビ業界のフリーランサー組合「放送労働者同盟(UBW)」の幹部、キム・ドゥヨン。「現実は非人間的な状況」という=Jean Chung/©2018 The New York Times

「これでは、銭湯に行ってシャワーをあび、その後、せいぜい1時間程度の仮眠をとるぐらいしか時間的な余裕がない」。UBWの幹部キム・ドゥヨンは、そう話した。

勤務時間に上限を設ける新制度が小規模な事業所にも適用されるのは2年後になるが、多くの人たちは労働時間短縮の命令は遅すぎたとみている。(抄訳)

(Su―Hyun Lee、Tiffany May)©2018 The New York Times

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