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ヤンゴンを世界一の都市に 大手不動産会社をやめて飛び込んだミャンマー

私の海外サバイバル

私のON

私は201511月からミャンマーの最大都市ヤンゴンの現地企業に勤め、不動産開発の仕事をしています。

11年に長年の軍政から民政移管したミャンマーは大変革期を迎えており、いまは日本でいう「明治維新」のまっただ中にいると感じています。法律やインフラの整備、産業や文化振興が急速に進められています。

私がミャンマーと関わるようになったのは学生時代のことです。アルバイト先の回転寿司店で、不法就労のミャンマー人たちと親しくなりました。その影響を受けて、大学4年生だった07年にバックパッカーとしてミャンマーを初めて訪れ、2週間滞在。現地の人たちの優しさに触れ、すっかりこの国が大好きになりました。

その一方で、ヤンゴンの街中では銃を持った公安警察の姿が目に付き、また公共機関で写真を撮ろうとすると止められるなど、ピリピリとした雰囲気はありました。さらに帰国して2週間後、大規模な反政府デモを取材していたジャーナリストの長井健司さん(当時50)が射殺され、多くの死傷者がでました。当時、ミャンマーでは賄賂で一部の特権者だけが得をしているとも聞きましたが、この国は何十年後もきっとこのまま変わらないだろう、理不尽なことだと思って憤っていました。

大学を卒業した08年、大好きな東京の街づくりに携わろうと大手不動産会社の森ビルに入りました。仕事は充実しており、ゴミ拾いや盆踊りなど街のための活動にも積極的に参加、後には虎ノ門ヒルズの開発にも携わりました。

ミャンマーへの思いは強く、会社の夏休みなどを使って毎年1回は足を運びました。民政移管の後は経済開放も進み、JICA(国際協力機構)がヤンゴン都市圏開発計画(マスタープラン)を打ち出すなか、駐在員など現地に住む日本人がどんどん増え、ジェラシーも感じていたのです。

ヤンゴン郊外の新都市プロジェクト地

「そんなに勇気を持った決断なら」上司も後押し

そのころ30歳を目前にして、「一度きりの人生、ミャンマーのために働きたい」と思い、挑戦を決意しました。15年、いま働く財閥系企業のヨマ・ストラテジック・ホールディングスの面接にまでこぎ着け、「ヤンゴンを世界一の都市にしたい」と訴えました。入社することになり、同年11月から移住して働き始めました。縁とタイミングにも恵まれていたと思います。

森ビルで働いて8年目のことでした。ミャンマー行きを打ち明けた上司からは引き留められると思ったのですが、「そんなに勇気を持った決断なら、応援するしかないでしょう」と予想外の励まし。会社の同僚はみなさん応援してくれました。

 ヨマは親会社グループに従業員約9000人を抱えていますが、日本人は私だけです。不動産部門で不動産開発プランナーとして働き、大規模住宅開発の計画などに携わってきました。

 さらにヨマのかつての上司に声をかけられ、183月末からヤンゴン管区政府が全額出資して設立した公営会社でも働き始めました。こちらは、ヤンゴン中心部から川を隔てて西側にある約90平方キロの開発に第一段階として国内外から15億ドル(約1600億円)以上の投資を呼び込み、新都市を開発する会社です。江戸川区と葛飾区を足したくらいの広さの土地に電気や水道、橋、交通機関を整えて、働く場所と住まいを整備していく開発で、私はシティープランナーとして勤めています。 

ヤンゴン管区政府が設立した公営会社の事務所

ヤンゴン都市圏は、数十年のうちに人口が2倍に急増する見通しで、それに適応できる都市づくりが急務です。住宅政策や雇用政策を積極的に進めないと交通渋滞が悪化し、スラムが増えてしまいます。とてもやりがいがあります。新会社の職員は約20人と少なく、日本人は私だけ。どちらの会社でも、日本での経験が生きています。

 言葉は、同僚がみな英語を話せるので英語を使うことがほとんどです。私は帰国子女でもないし、海外留学をしたこともなく、日本の「学校英語」からのスタートでした。ミャンマーに来て仕事をしながら英語を磨いています。またミャンマー語は、ミャンマーに来る前の3年間、高田馬場駅の近くのスクールでミャンマー人から習っていました。

ヤンゴン郊外の新都市プロジェクト地から臨む市街地

ミャンマーに2年半くらいいて、慣れたのか忘れたのか、あまり苦労をしたという思いはありません。ただ、現地の人たちの仕事ぶりは日本人と違うと感じることはあります、応用力がないというか、かなり具体的に指示をしたり質問したりしないと答えが得られないことが少なくないです。日本のように「報連相」(報告・連絡・相談=ほうれんそう)も定着していないので、こちらからこまめに聞くように心がけています。 

私のOFF

 仕事のかたわら、アメリカの大学院の通信課程で学んでいます。世界では専門分野や学位を問われる機会が多いのですが、私はシティープランナーの修士号をめざして勉強しています。宿題に追われ、カフェで勉強しながらそこでご飯を食べることも多いです。ヤンゴンにはおしゃれなカフェがたくさんあります。 

ミャンマー料理は好きなのですが、しょっぱいし脂っこいのでそんなには食べないです。日本食は私が住み始めた2015年に比べても、とても手に入りやすくなりました。スーパーのイオンも16年に開店し、納豆や、レンコン、山芋といった日本の野菜も買えるようになりました。こちらは一年中、暑いのですが、時折、日本の春や秋を思い出して帰りたい気持ちにもなります。 

趣味は、様々な街を地図片手に歩くことです。マニラやクアラルンプール、ホーチミン、バンコクなど東南アジアの都市に足を運びましたが、やはり街がどうつくられているか気になります。経済政策やスラム、都心業務地区、公共交通などについつい目が行きます。 

歴史建造物のヤンゴン中央駅

高層ビルばかりでどこの街にいるのか分からなくなる都市もありました。ヤンゴンの街の中心部には黄金の仏塔シュエダゴン・パゴダがそびえ立ち、ランドマークになっています。ヤンゴンは建物の高さ制限があり、周辺ではこのパゴダよりも高いものを造ってはいけないことになっています。

経済成長が進み、人口が増え、交通渋滞も発生するヤンゴン。将来、この街が世界に誇れる都市になるのか、ミャンマーの文化を残した都市開発ができるのか。私がいま取り組んでいること全てがミャンマーの将来に直結するので、気が引き締まる思いです。他国のまねではなく、ミャンマーらしい発展を遂げてほしい。ヤンゴンの街づくりに携わることを通して、それを少しでも手伝いたいです。

おおさわ・しき/1985年、埼玉県出身。一橋大学卒業後、森ビル入社。2015年に退職してヤンゴンに移住し、不動産開発の現地企業で働く。

 

ヤンゴン

ミャンマーの旧首都。1989年の国名の英語呼称変更にともないラングーンを改称。2005年ネーピードーに遷都。人口520万(2014、郊外を含む)。イラワジ川の分流ヤンゴン川に臨み、18世紀から貿易港として発展。金色のシュエダゴン・パゴダなど多くの仏塔がある。第2次大戦中は日本軍が占領した。