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脇園彩さん「奇跡の年がやってきた!」

行け!イタリアの風にのって ~若手音楽家の手紙~ 更新日: 公開日:
今年の「ロッシーニ音楽祭」に出演するファン・ディエゴ・フローレス(右)、ダビデ・ルチアーノと=ペーザロ(写真は全て脇園彩さん提供)

イタリアでベルカント(美しい歌唱)を極めようと、大学院を修了してパルマまでやってきたのに。待っていたのは「引きこもり生活」でした。自分には完璧主義なところがあって、間違うことの怖さから、どうしても次の一歩が踏み出せなかったのです。でも、イタリア語で会話をしないとすべては前に進みません。つくづく、コミュニケーション能力と、言葉の大切さを思い知りました。

引きこもって5カ月が過ぎました。文化庁の奨学金は2年間でしたが、気がつくとイタリアに来てもう半年がたっています。この先どうすればいいのでしょう。奨学金が切れても、やっぱりイタリアには残りたい。ろくにイタリア語が話せず、日々の生活にも困っているのに、そうした気持ちはありました。

オペラ演出家のピエルルイージ・ピッツィと=ペーザロ

外に出るよう背中を押してくれたのは、パルマに留学していた日本人の先輩方です。オペラの古い録音について教えてくれたり、「日本人とイタリア人で、音程のとらえ方がどう違うか」といった音楽談義をしたり。理解が難しいところも、とことん日本語で話し合えたのは、その時の私にはとても大事なことだったと思います。

2014年春。引きこもり生活から脱出するきっかけがやってきました。アドリア海沿いのペーザロという街で毎年開かれる「ロッシーニ音楽祭」に合わせて、アカデミー(研修所)が作られるのですが、このオーディションがあったのです。完璧主義の私には「まだ早い」とも思いましたが、この生活を変えたい一心で、ペーザロに向かいました。

振り返れば、この年は私にとって「奇跡の年」だったと思います。このペーザロのアカデミーに合格しただけでなく、ミラノ・スカラ座が開く研修所の追加オーディションにも合格したのです。

オーディションとはいえ、初めて立つスカラ座の舞台。鳥肌が立って、正直どうやって歌ったのかよく覚えていません。曲目は、ロッシーニの「チェネレントラ(シンデレラ)」と「セヴィリアの理髪師」。どちらも、私が大学時代に得意としていた、アジリタ(細かい音型を正確な音程で歌う技巧)が問われる曲です。スカラ座の舞台は、自分に帰ってくる声はあまり聞こえないけど、よく響く、歌いやすい劇場でした。歌い終わって数時間で、結果発表。「はい、あなたが研修生」と言われ、秋からのスカラ座デビューが決まりました。

イタリアでオペラ歌手になれるかどうかは、舞台に立てる1回1回の貴重なチャンスで、いかに自分が納得できるような質の高い仕事ができるかにかかっていると思います。私の場合、ロッシーニ音楽祭で研修生の修了公演として上演された歌劇「ランスへの旅」での評価が、その後の仕事につながっていきました。「アジェンテ」と呼ばれるマネージャーに知り合えたのも、この時です。

ロッシーニ音楽祭の歌劇「ランスへの旅」のリハーサル前に、アカデミーの同期生の女性歌手たちと=ペーザロ

アジェンテは、歌手の声の質にあった役柄の仕事を見つけてくるのが仕事。さらにイタリアでは、財政事情のよくない歌劇場が報酬を何カ月も遅れて支払う、ということもざらにあるので、そんな時に支払いを督促するのも大事な役割かもしれません。とはいえ、最も大事なことは、アジェンテと契約を結ぶことで、イタリア・オペラの「業界」に入れるのです。

ご想像のとおり、イタリアは良くも悪くもコネの世界。良く言うと人のつながりをとても大事にし、ビジネスライクに扱うのではなく次の仕事につなげてくれる面があります。よい仕事をすれば、各都市にある歌劇場で配役を決める幹部やアジェンテたちの間に、その情報がすぐに知れ渡ります。

一方で、悪い方に考えれば、コネがないと若い人がなかなか業界に入れない、というのも事実です。また、歌劇場の多くは公立なので、政権交代で歌劇場のトップが変わるとそれまでの方針ががらっと変わり、歌手もそれに振り回されることになります。歌劇場も歌手も、政治の変化に戦々恐々、ということになるのです。

ミラノ・スカラ座のアカデミーでともに学んだ親友たち=2016年6月

とはいえ、歌手にできることはただ一つ。誰にも文句を言わせない確かな技術と芸を磨くだけです。キャリアをすべてアジェンテ任せにしていてはいけませんし、自分で自分を売り込むことも大切です。自分の声を守るためには、時には仕事を断る勇気と判断も必要になることがあるのです。